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透明の向こう側  作者:
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「ソノさんはどうして音楽で食っていこうって思ったんですか?」と今度は逆に真由が訊いた。「昔から音楽はジャンル問わず好きで、中学とか高校時代にはロックのバンド組んでたんだけどね、みんな趣味っていうか遊びの範囲でやろうって感じで。僕ひとり、もっと本気でやろうよって言ってて。高校卒業したらすぐ解散して上京した。バイトも、クラブでのバイトとかで、ひたすら音楽にどっぷり浸かって修行。ほかの仕事に就くなんて考えもしなかったなあ。馬鹿の一つ覚えみたいに音楽にしがみついてきた。いや実際高卒の馬鹿なんだけど」と言うので真由は「すごい。音楽一直線なんですね。私はピアノも習ったことないし、カスタネットもろくに叩けない音楽オンチです。もちろん譜面も読めません。音楽を奏でられることも、それに一直線なのもすごいことです」と心底感心し、有薗は「そうかな」と照れ気味に少し視線をテーブルに落とした。その視線をすっと上げると「僕がベースかついでJAMANIAに入って、神戸でライブして、転んだおかげで真由さんと知り合えた。馬鹿の一つ覚えでもたまにはいいこともある」とにこっとした。その嬉しい告白と笑顔にはあえて応えず、真由は医師の顔を覗かせた。「もうどこも違和感とかないですか?」とまじめな顔で訊くと「大丈夫です、本当になんともないです」と怪我をした右腕でぐっと力強く握りこぶしをして見せながら有薗もまじめに答えた。「良かった」と真由がほっと息をついた。

「あ、これ、僕の好きな曲」と有薗が顔をステージに向けた。始まった曲は『酒と薔薇の日々』。「私も好き。友人がピアノで演奏してくれたことがあって、私がジャズ聴くようになったきっかけの曲です」と真由は少しうっとりした表情で曲に聴き入った。中学からの友人のひとりが、あるとき家に遊びに行ったらピアノを弾いてくれたことがあった。それがこの『酒と薔薇の日々』だった。聴いたのは最初の大学の一年生の頃だろう。ピアノを弾いてくれた友人自身はボサノバが好きでよく聴いていた。この友人の影響で真由もその頃からジャズを聴くようになった。何度か一緒にクラブに行ったりもしたが、今はその友人は結婚して子どももいるのでそんな風に夜に遊びに行くことは難しくなってしまった。友人が奏でてくれた懐かしさを思い出しながらじっとステージに見入る真由の横顔を有薗は向かいの席からみつめていた。取り立てて美人というわけではないが、その微笑の穏やかさがとても心安らぐ。「私、実は曲はあまり知らないんです。メロディとタイトルが一致する曲なんてごくわずか。雰囲気に身を任せて酔ってる感じなんです。本当に音楽オンチなんですよ」真由は音楽のプロである有薗を前に自分の無知が恥ずかしい気がしてつい言い訳のようにそんなことを言ったが、有薗の方はそんなことは意に介さず「音楽は理屈じゃなくて心と体で味わえばいい」と言って真由の気負いを払拭した。

「そうだ、春にアルバム出るでしょう。そしたらまたツアー始まるんですか、神戸には来ますか?」はっと思いついたように有薗に顔を向け、真由がファンの顔になった。「まだはっきりとは言えないけど、夏前くらいからやりますよ。このへんはもちろん来るんじゃないかな。ツアーのときは必ず来てるから」と嬉しくなりながら答えた。今まで、JAMANIAのファンだ、JAMANIAの音楽が好きだと言ってくれる人とは数え切れないほど会ってきたが、この人ほど全身でそれを体言してくれる人はいない、と思った。言葉以上に表情が、JAMANIAが好きでたまらないと最大限に訴えてくる。「今夜ここに誘ったのはね、ここが僕らの神戸でのスタート地点だから。日本中いろんなところでライブしてきたけど、神戸は中でも思い出深い土地なのはメンバーみんな同じだし、神戸のファンを大切に思っているからきっと来ます」神戸は日本のジャズ発祥の地とも言われ、事実現在もジャズを愛する人が多く、客の耳も肥えている。そう思うと心地よい緊張感も生まれて演奏に力も入るし、全力を出せばそれだけの手ごたえがあってなお頑張れる。だから神戸は特別なのだと有薗は力説した。「嬉しいな、楽しみにしてます」と真由は期待いっぱいの笑みを浮かべた。自分の大好きなJAMANIAが、彼らも神戸を大好きだと言ってくれる。大切だと言ってくれる。そしてツアーでやってくると約束してくれる。有薗の発する言葉のひとつひとつが胸に響いてしっかりと刻み込まれる。「良かったらチケット、送りますよ」と有薗が言うと「チケットを取るのもファンの楽しみです」と真由はにこにこした。「なんとなくわかるような・・・そういうもんなの?」と有薗が首をかしげると真由はうんうんとうなずき「そういうもんです。無事にチケット取れるかな、どんな席かな、そしてどんなステージになるのかなってわくわくします。むしろステージそのものより、それが始まるまでの高揚感が好きなくらいかも」と本当に胸躍らせる楽しげな表情を浮かべた。

 ジャズを聴き、マスター自慢のおいしいカクテルを飲み、時間はゆったりと流れていた。居酒屋のように騒ぐ客のないこの場所と、不必要に多くを喋らない時間は心地よかった。有薗の色気を含む艶っぽい声、なのにどこかかわいらしさを感じさせる軽快さを併せもつ独特の質感は少しも邪魔ではなく、当の有薗自身も同じく、ジャズの流れる空間と時間をゆったり楽しんでいるようだった。何杯かのグラスを空け、何本かのタバコの吸殻を生産し、何曲もの音楽に身を浸し、時間が過ぎていった。

「ソノさんとこんな時間を過ごせるなんて、私の身の丈に合わない幸運です」とぽつりと真由が言い、え?という顔で有薗は彼女を見た。「本当なら一生、私はただのファンで、手の届かない筈の人だったから。嘘みたいです。不謹慎ですけど、私、医者になって良かったなって思っちゃいます。こういうのを役得って言うんでしょうか」とくすっと笑った。真由はステージを飽くことなく見つめ続けていて、うっすらと穏やかな微笑を浮かべている。知的で大人の女性らしい落ち着きの中に、隠しきれない無邪気さが居合わせているような不思議なその横顔を有薗は微笑を浮かべて見つめていた。今夜思い切って誘って良かったとつくづく思う。真由の笑顔が嬉しい。笑顔を見せてくれて良かった。


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