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いちファンに戻ろう。そう決めたのに、有薗と会うために洋服選びをしている鏡の中の自分をしばし見つめて動きを止めた。「大阪でラジオ収録があるから食事でも」と有薗から電話があったのは十一月の終わりだった。そのとき携帯電話の画面に点滅する未登録の番号に真由はかすかに有薗の可能性を感じつつ、一方で否定しながら、ボタンを押して電話に出た。第一声は「そちらはもう寒くなりましたか?」だった。真由はまた思った。「この人はなんて寛大なんだろう」と。避けようとしていることは気付いている筈なのに、冷たい言葉を投げかけられたのに、何事もないようにいとも簡単に真由の心にその艶やかな声を届かせてしまう。思わず「東京は寒いですか?神戸は暖かい冬です」と素直に返事をしている自分に驚いた。そしてその瞬間から、真由は有薗に対して正直になった。かたくなに拒否をするよりも、肩の力を抜いて自分に少し正直になってみよう。電話を切って真由はそう自分に言い聞かせながら、有薗の番号を「ソノさん」と登録して微笑した。大ファンのバンドのメンバーと仲良くなる。思いがけず訪れた幸せに、身をゆだねてみよう、そう、力を抜いて時の流れに任せてみよう。少しの不安もないと言えば嘘になるが。
大阪でのラジオ収録は夕方には終わり、他のメンバーもそれぞれ東京へ戻ったり大阪を楽しんだりと好き好きにスタジオを離れたとき、有薗は電車に乗って神戸へ向かった。メジャーデビューから数年経ったとはいえ、さほど有名なバンドでもない上メディアへの露出が少ないせいか、電車に乗っても誰も彼をJAMANIAだとは気付きもしない。他のメンバーもそうで、彼らの行動は東京にいてもかなり自由だった。マネージャーの藤原も「そろそろプロの意識を持て」と言いつつ、平均年齢四十歳近いのバンドのメンバーに対してきつい拘束はしなかった。神戸へ向かいながら先日の真由との電話のやりとりを思い出していた。真由が自分と会うことを意外にあっさり了承したことに有薗は驚いていた。冷たく断られることを覚悟で会いたいと言ってみたのだが、真由がごく当たり前のことのように「夜なら大丈夫です。私が大阪へ行けばいいですか?」と言ったとき、小さくぐっとガッツポーズをしたくらい嬉しかった。有薗はデビュー前にステージに出演させてくれていた神戸のジャズクラブに真由を連れて行きたいから自分が神戸へ行く、と応えた。
いつもは定時で仕事をあがることなどめったにない真由が、その日は定時になるとそそくさと仕事を切り上げた。帰り際、いつもより少しおめかしした真由を目ざとい看護師が今日はデートかと冷やかしたりした。ベロア地のサーモンピンクのワンピースをまとい、いつもはノーメイクの真由が不慣れな手つきで時間をかけてメイクしてほんのり頬をチークで染めている。オフホワイトのショートコートをはおり、足元はいつもスニーカーやローファーなのにパンプスを履いている。
真由はJAMANIAのライブに行くとき必ず決めている事があった。それは有薗にも説明したとおり、スーツを着て出かけるということだ。JAMANIAのメンバーがライブのときは必ず黒や濃いグレーを基調としたシックなスーツで極めているから、自分も彼らに見合った服装でライブに臨むというのが自分の決めごとであった。JAMANIAに限ったことではない。ライブやジャズクラブに行くときは、できるだけいつもの自分とは違う雰囲気をまとうように心がけていた。真由にとって生の音楽を聴くことは心を休めることでもあり楽しく興奮することでもあり、何より異空間を味わうことだった。自らもそのための装いをするのが常だった。
有薗が錯覚から醒めたとき、自分の夢もまた醒める。しかし、今夜彼に会うのに、そんな不安を考えるよりも彼がぜひ聴かせたいと言ったジャズを素直に聴きたいと思った。そして独特の穏やかな雰囲気を持つ有薗という男と過ごせるということを最大限楽しみその時間に浸りたいと思った。
駅前の待ち合わせ場所には有薗が先に到着した。すでに夜はとっぷりと暮れている。真由がどの方角から現れるのかわからないから、彼女から見つけやすいように有薗は煌々とライトに照らされている場所に立っていた。彼女が本当に姿を見せるまで、彼女が自分と会うかどうか信じられない気持ちがあった。真由に会えることが楽しみでもあり、来るかどうか不安でもあり、しかしそんなそわそわした気持ちはまったく顔に出さず、ただ紳士的に彼はピンと背を張って立っていた。そんな彼のコートの肘辺りを軽くひっぱり、後ろから「仮にも芸能人が、そんな目立つ場所にいちゃダメでしょ」と茶目っ気たっぷりな笑顔で真由が姿を現したとき、有薗ははっとした。白衣をまとってきびきびと病院を闊歩していた真由とも、東京で会ったときスーツに身を包んでいた真由ともまったく違う柔らかな雰囲気に満ちていて驚いた。「待たせてしまいましたか?ごめんなさい」と改めて真由はぺこりと頭を下げた。有薗は「いやいや、ちっとも。来てくれて嬉しい」と驚きを胸に隠して笑顔で答えた。真由は一瞬、一度自分が冷たい言葉を放ったことをわびようかと思ったが、彼がそれを望まないような気がして、そのことは今後触れることはあるまい、と考え直した。「今日のラジオって、生放送だったんですか?」と真由が訊ねると「いや、録音。放送は年末。神戸でも聞けるのかな。もしよければまた放送時間とかお知らせするけど?」と有薗は駆け引き無しに正直に言った。「ぜひ、聞きます」と真由はにっこり微笑んだ。「じゃあ放送日とか確認してまた連絡します。行きましょう」と二人は並んで歩き出した。 街は大勢の人でごった返している。そろそろ忘年会のシーズンに突入しており、毎年恒例のルミナリエ開催もまもなくで、繁華街の夜間人口が最も増える季節だ。真由は毎年、ルミナリエの季節になると複雑な心境になる。これを見に来る人の大半は、その美しさとイベント性に惹かれているのだろうが、そもそもなぜ神戸でルミナリエが開催されるようになったか、そこへ思いを馳せてくれる人がどれほどいようか、と。あの阪神淡路大震災の悲劇を、そこからの復興を、どれほどの人が胸に思い起こすのだろうか。一方で、理由はなんであれ、神戸を大勢の人が訪れ、慈しんでくれることは嬉しくもある。自分の生まれ育った神戸という街を、たくさんの人が愛してくれることは喜びである。




