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透明の向こう側  作者:
115/115

115(最終回)

「私、子ども産めない」ぐっとトーンの落ちた声でそう呟くと真由は悲しげに目を伏せた。そうだ、やはり自分は結婚など望めないのだ。望んではいけないのだと一気に悲しさが真由を覆ってしまった。渡部真由の呪われた血は絶やさねばならぬ。だが有薗智明の血を絶やすことなどできない。音楽の才能も、溢れる優しさも、最上級の温かさも。いろんなものが、きっと、未来へ受け継がれていくべき血だ。「構わない」「そんなの駄目」「どうして?」「私じゃ家族を増やしてあげられない」「君がいれば十分だ」「駄目なの!」突き放すように冷たく真由の声が飛ぶ。有薗の顔からも笑みは消えている。真由の血の根絶思想はうっすらと知っている。知っているからこそできれば今性急にそのことに触れたくはなかった。子どもが欲しいならとっくに適当な女で手を打っている、自分は本当にただ純粋に、真由と家族になりたいと思っただけだ。そう言ってやったところで今はとても耳を貸さないだろう。有薗は継ぐべき言葉を探ったが見つからない。「やっぱり、私じゃ駄目やねん」今度は間違いなく悲しみと憎しみから合成された涙が溢れ出す。「真由、それは違うよ」根気よく、有薗はとめどない涙をぐいぐいと指でぬぐってやりながら優しく語りかけた。「真由じゃなきゃ、駄目なんだ。君でなくちゃ嫌なんだ」「私じゃ駄目やねん」「真由の好きなジェットコースターと同じだよ。ものすごくスリリングなものを味わってしまうと、ほかがつまらなくなってしまう。僕は、君を見つけてしまったんだ。君でなくちゃ、満足できないんだ。そうなってしまった責任は取ってもらう」「責任?」「君ももうスタートしたんだ。棄権は許さない」優しい口調にこめられた強い意思に真由は圧倒される思いがした。「一緒に歳を重ねていこうよ、どうしてそれ以上を勝手に望んで勝手に諦めちゃうの?」「だって」「言い訳は聞かない。もうたくさん聞いた。いいか、僕は君にいい奥さんだの、いいお母さんだの、そんなことを求めていない。ただ家族になろうと言ってるだけだ。子どもを産めないことがそんなに辛いなら、どうして僕にもその辛さを分けようとしてくれない?カウンセラーの口からじゃなく、君の言葉でぶちまけてくれ。一人で抱えようとするな」知らず知らずのうちに有薗の声は大きくなり、口調もきつい。言ってやりたいことがたくさんありすぎて、ついそうなる。「ソノさん・・・」と戸惑い気味に真由に呟かれ、彼ははっとしてしばらく黙り込み、どれくらい黙って見つめ合っていたのか。いつしか有薗も元の落ち着きを取り戻した。「結婚の話が重すぎるなら、今は撤回してもいい。でも僕は懲りないよ。そのうちまたチャレンジするさ」再び有薗の顔にいくらか余裕を含んだ笑みが戻る。彼の指先は相変わらず優しく真由の涙を拭ったり頬をなでたりして肌を通して温もりをせっせと伝え続けている。「ソノさん、どうして?」漠とした真由の疑問に有薗は言葉を聞き終わるのを待たず「どうしても何も、君を好きなだけだ」と潔いまでにきっぱりとそう言ってのける。しばしの沈黙ののち「ソノさん」と先ほどまでのどこか悲痛な声と一転して柔らかく呼びかけた真由の目を有薗はじっと見つめた。「私は歩くのがとても遅いの。だから、急がないで」今の真由にとって精一杯の答えだった。そうだ、時間をかけて育んでいかねばならないものが、自分たちにはある。「私を、置いていかないで」すがるような目と、振り絞った言葉のけなげさに有薗はますます愛おしさを募らせる。「馬鹿だな、置いてくもんか」と言って笑いかけたかと思うとちゅっと唇を盗んでしてやったりと満足げな顔をする。唇が唇に、吸い寄せられては離れ、離れては吸い寄せられる。

 彼の手は暗闇の中で真由の腕をなでた。なるほど他の部分の滑らかさとは違い、何かでこぼことしたような、粗い肌の手触りである。今夜も真由はすっかり明かりを消してしまった。それを有薗は責めたり問い詰めたりするような真似はせず、黙って受け入れた。ただ、そっと腕をなで、その傷だらけの腕にキスをした。傷に彼の指が、唇が触れたとき、真由の体はぴくっと強張った。ゆっくりと緊張を解きほぐすように優しいキスをいくつも真由の醜くも美しい腕に捧げ、有薗は布団から顔を出して真由の上でにっこり微笑んで優しく口づけた。すぐ近くまで迫ったこともあったのに決して許されなかった唇が柔軟な弾力で応えることの嬉しさに、夢中になった。

 真由は朝まで眠らず、彼の穏やかに眠る顔を見つめていた。

 彼に愛され、自分も彼を愛して。気付いたことがある。ざっけなさの中でもいつも気遣い合い、思いやり深く、明るい友人たち。「お前を信じる」と言ってくれた高遠。ゲームが終了しても変わらず良き理解者であり続ける正一や市川といった男たち。親代わりに親身になってくれる親戚。自分の周りには愛がいっぱいだ。今まで見過ごしてきたそんな大切なことに気付くことができたのも、自分が愛という感情を抱くことができたから。

 昼近くなって結局真由は先にベッドを抜け出し、リビングで音楽をかけた。スピーカーの前で小さくうずくまりながら今ベッドで眠っている男のことを思った。カウンセラーから真実を聞かされて一体何を思ったか。ついに彼はそのことには触れなかった。自分のような女をこれからも愛していこうと決意するまでに迷いはなかったのだろうか。「君は汚れてなんかいない」そんな安っぽい言葉が欲しかったわけではない。そんなことまでも彼にはお見通しだったのだろうか。ただ彼は迎えに来て、そして傷だらけの腕にキスをし、この体を慈しんでくれた。それが彼の明快な答えということか。なんて大きな人だろう。出会った頃から感じていた彼の寛大さはとてつもない。そうやって真由が有薗の懐の深さに感慨深くなっていたところへ当人がまだぼんやりした感じのとろんとした表情で起きてきた。おはようの挨拶を交わすと有薗も隣に座り込んでしばし音楽に耳を傾け「『I WAS BORN TO LOVE YOU』か」と何やら嬉しそうな笑顔を浮かべた。「ほんとはもっと大音量でドカーンと聴きたいんだけど」「そういう気分なの?」「なんとなくね。歌詞がとっても胸に響く」生まれてきたことを後悔し、呪い続けてきた人間がこの曲に何かを感じ取っているなら、それはなんと素敵なことだろう。いいじゃないか、人を愛し、生あるものを愛し、大好きな地球儀をこよなく愛し。呪縛から解き放たれろ。自由に、愛を謳歌しろ。

「真由、仕事は?」「今夜当直。ソノさんは?」「仕事。帰らなくちゃ」そう言いながらも床にごろりとなると、頭を真由のひざに預てしまった。「もうちょっと、こうしてたい」彼の顔が押し付けられている下腹部が温かい。彼の頭をそっとなでながら、真由はその温かさと心地よい重さを存分に味わっていた。「耳掃除したげようか」「上手なの?」「保険点数二十五点、お会計二百五十円でございます」「金取るのかよ」「一応プロなんでね」「じゃあ僕もレッスン料ふんだくるぞ」「いくらくらい?」「君へのレッスンでキス一回。戦メリがお気に召したらめっちゃ濃厚なの百回」「・・・やだ」有薗の提案に真由は呆れたように呟き、ふふっとおかしそうに有薗が小さく体を震わせて笑った。心配しなくても濃厚なキスを迫ったりしないよ。ちょっと触れ合う唇が最高のときめきだと発見したんだから。ああ、でもたまには許してくれても・・・そんなことを思いながら目を閉じているとついうつらうつらとなって、真由を驚かせた。「え、この人本気で寝てるの?」と最初は疑いの目で有薗の寝顔を見ていたのだが、どうも肩が規則正しい上下運動を繰り返している。すやすやと、本当に寝ている。動くに動けない。でも、自分の前で最大の油断を見せている男が愛おしくてたまらない。

 寝返りを打とうとして、真由がとっさに動作を止ようとしたのが間に合わずスプリングの効いたベッドではなく硬いフローリングの床にごろっと転がり落ちて有薗はようやく本格的に目を覚ました。真由は目じりに涙がたまるほど笑い転げた。「いつまで笑ってるんだ」ときゅっとほっぺたをつねられても真由は心底おかしそうに「だって、ありえへん」と笑い続ける。「最近あんまり寝てなかったから」と有薗が言い訳すると、真由はふと笑いを止めて申し訳なさそうな表情を浮かべた。「私のせい?」「そういう言い方はよしなさい」すかさず有薗は真由の負の思考をたしなめ、正直に「プロポーズの言葉を考えてたんだ。でも、なーんも思いつかなかった」と白状した。「家族になろうって、嬉しかったよ」「そう?良かった。今回は玉砕したけど、またいつかね」「玉砕でもないんじゃない?」「そうなの?」「さあ、よくわかんないけど」「いいよ、急がない。何も焦らなくたっていいんだ」有薗は真由の肩を引き寄せてそっと抱きしめた。ゆっくり。のんびり行こう。「ソノさんはマジシャンだ」「なんで?」「すごく穏やかなくせに、しょっちゅう私をどきどきさせる。次はどんなことが起こるんだろうってわくわくする」「そう?」「うん。どきどきする」「どれ」と有薗は体をねじまげて真由の左の乳房に耳を押し当てた。「おっぱい大きいからわかんないよ」となんだか不服げな口調で言われて真由も大人気なくちょっとムッとした。それではまるで自分が嘘をついているみたいではないか。「心臓はそこにないもん、ここらへん」と有薗の手を取って鎖骨の下、乳房の間をぎゅっと押さえさせた。有薗はニヤッと笑って「もしかして、誘ってる?真昼間から大胆だな」などと言って真由の手をからめ取って抱きしめてしまう。「誘ってない」「だってドキドキしてるよ」「してへんもん」「いや、僕が」「・・・」「仕事休んじゃおうかな」「こりゃっ」「冗談だよ」「ツアーはいつから?」「十二月十五日」「楽しみにしてる」「おう」力強い返事が、抱きしめてくれる腕に力がこもることが、嬉しい。

 当直なのだから休んでいろという有薗の言うことなぞ聞かず、結局真由は新神戸駅の改札まで見送りに着いてきてしまった。どちらも、名残惜しそうになかなか握った手を離せずにいる。思い切って有薗は真由を引き寄せ、一瞬触れるか触れないか、頬に軽くキスをするとさっと体を離して身を翻した。改札を通り、ホームへのエスカレーターに乗る前、一度彼は振り向いて、見送る真由に爽快な笑顔で手を振った。真由も手を振って応えた。完全に有薗の姿が消えてしまうと真由は地下鉄へ降りずに、新神戸駅の外へ出た。昔は山手に住んでいたからこのあたりは何かと記憶にある。海を見渡せた筈だとロケーションを求めて歩く。

 雨上がりの晴れ渡った空の下、ゆったりと穏やかに海はそこにあった。真由の見慣れた暗黒の海ではなく、まばゆいばかりに日を反射して限りなく透明に近い海が。海は、こんなにも美しかったのだ。それを知ろうとせずにいただけなのだ。

 いろんな人の愛に気付き。美しい海に気付き。そんな変化をもたらしたのは、ソノさん、間違いなくあなただ。あなたは確実に私を変化させつつあるんだ。

 いつか、私はあの人と家族になるんだろうか。恋人として愛し、いつか家族として彼を愛し、愛されるのだろうか。

 今はまだそんな自信は持てない。でも、確かなことがある。私はいつまでも彼と手を取り合っていたい。大好きなあの手に、すべてをゆだねてみたい。

 ソノさん、あなたといつまでも手をつないで歩いていきたい。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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