111
「私、今とても不思議な気分」「どんな風に?」「体は寒いのに、とても心がポカポカしてるの。ほんわかしてるっていうのかな。ソノさんにフワフワと掌で弄ばれてるみたいな、夢見心地」「そう?」「うん、ソノさんの腕の中、すごく落ち着く」甘えるように肩に顔を押し付けながら、真由はそれまで有薗の腕に固められていた自分の腕をようやく彼の背中に回してきゅっとしがみついた。「嬉しいな」といくらか有薗の声が弾んだ。「本当に私なのかな。ソノさんは私なんかでいいのかな」「まだそんなこと言うの?」有薗の腕にも力がこもり、真由はその腕の中で深呼吸した。「ものすごく不安。不安だし怖いし先が見えない。なのに・・・だけど、思い切って飛び込みたい自分がいる。不安でいっぱいなのに、それ以上に、あなたに近づきたいの。あなたに、少しでも良く見られたい。少しでも好きになってほしい。あなたのこといっぱい知りたい。あなたの音楽をこれからも聴きたい。あなたのこといっぱいいっぱい好きでいたい。あなたのこと・・・私はあなたについては、とても欲張りになる」「構わないさ」「うまい言葉が見つからない。自分でももうわけわかんない。でもあなたを信じたい。あなたが好きと言ってくれる自分を信じてみたい」そこでもう一度深く息を吸い込むと真由は目を閉じて呟いた。
「こういう気持ちを、人は愛って呼ぶのかな」
なんて不器用で、なんて愛しい告白だ。有薗はもう一度きゅっと力をこめて抱きしめると、思い切って体を離した。真由の瞳が涙でうるんでいる。しかしその瞳はまっすぐに有薗を見つめた。力強く美しい目だ。濁りなく澄んだ美しい瞳だ。瞳に吸い込まれるように顔が近づき、かすめるようにそっと口づけた。触れるか触れないか、すっと軽く、ほんの少しだけ唇が触れ合ったかと思うと再びぎゅうと腕の中に抱きしめられる。ふっくらとやわらかい唇。本当に軽く触れただけなのに、それは初恋のようにドキドキして、ときめいた。世界に今この二人しか存在しないかのように静寂が二人を包み込んだ。
うほん、とわざとらしい咳払いが聞こえて二人がそちらを振り向くと、いつからいたのか中年の男がレインコートを着て犬と散歩の途中だった。犬は尻尾を振って無邪気に公園に入りたがり、男は極まり悪そうに公園の入り口で立ち尽くしている。
「三十五のオバハンと四十過ぎたオッサンが公園でラブシーンやなんてね」と真由がくすっと笑い、体を離して腰をかがめると傘を拾って有薗の手に持たせ、さらにバッグからハンカチを取り出して彼の顔を拭ってやった。真由は自分の傘は拾わなかったから、有薗は彼女に傘を差しかけてやりながら黙って自分の顔を真由の手に任ねていた。しかしその手はしばらくすると頬のあたりで動きを止めてしまい、微かに震えた。間違いなく有薗が目の前にいる、自分のすぐそばにいる。それを確認するかのように手は頬の体温を感じ取ろうとハンカチを落とし、潤んだ瞳はまっすぐに彼の目を見つめる。僕は君から逃げ出さないし、君を逃がさない。そんな決意を持って有薗は三度真由を抱きしめた。抱きしめながら「真由・・・」と耳元で呟きをもらし、呼びかけられた真由は「ああ、この人は”さん”を過去に置いてきたんだ、お友達だった過去に」と納得しながら嬉しいやら照れくさいやらだった。
「私ね、とっても好きなバンドがいるねん。JAMANIAっていうの。知ってる?」「・・・うん」「すごく楽しいライブなの。今度、一緒に行こう」有薗はこらえきれずにくくっと笑った。まったく面白いことを言い出す奴だ。「最高に楽しい時間を共有しよう」「約束してくれる?」「約束する」「嬉しいな。楽しみだな」腕の中で真由もふふっと笑った。
真由のマンションの玄関を入るなり有薗は靴も脱がずにすっと腰をかがめて「これかあ、直接見てみたかったんだよね」と出迎えてくれるミニチュアたちをしげしげと眺めた。かつて彼がプレゼントした東京タワーもちゃんとそこにあった。日本人形の女の子が目を細めて優しく微笑んで鞠を持つ足元に、その童女を守ろうとしているかのようにシーサーが二体、睨みをきかせている。以前真由からメールで写真をもらったときになんだこれは、とおかしかったごった煮の集団だ。生で見ると肉食恐竜の模型は精緻な作りだし、それが東京タワーを襲う怪獣を模した配置になっている。タワーの後ろに日本の城が控え、さらに後ろに、すべてを見渡し包括するように地球儀がある。地球儀の台座は透明なアクリルか何からしく、地球儀はまるで宙に浮いているかのようだ。「新幹線が増えてる」と有薗は気づいた。「新幹線ちゃう、リニアモーターカー」と訂正されて有薗は「わからん」と小さく首を横に振った。「上司がドイツに行ったお土産」「なんではるばるドイツの土産がこれ?ミニチュア好きだから?」「ううん。私のこと、鉄道マニアだと思ってるから」「なんで?」「そんなこと興味あるの?」「知りたい。僕も、君については欲張りになる」突っ立ったままの真由ににこっと笑いかけ、有薗はそんなことを言った。真由も腰を落として話し始めた。
まだ研修医として入局したばかりの頃、上司と共に東京、神奈川で何か所かまとめて学会出席だの病院視察だのを二泊三日ですることになったとき、事務方から「そんなに何日も医者を出張に出す金も人手もない、一泊減らせ」と言い渡され、真由は事務室で時刻表と格闘して時間調整をしてスケジュールを組み直し、安い切符の買い方を調べまくって行程を見直した。その様子をたまたま見ていた医師が「時刻表の使い方が堂に入っている」と妙に感心し、鉄道マニアだと思いこんらしい。真由は学生時代によく旅行をしたが、決まって青春十八切符で安上がりな鈍行の旅だった。一分を争うような無茶な計画を立て、電車を降りると乗り換えのホームまで全速力でダッシュしたものだ。だからポケットサイズの時刻表は手放せなかったので慣れているだけであって決してテッちゃんではない、とその場で否定した。「その抗議の結果がこれ?効果あったみたいだね」と有薗は愉快そうだ。彼には、真由の話もおかしかったが、何より、真由が上司からかわいがられているのが伝わってきて嬉しかった。今の職場にも合わない人間がいてストレスを抱えているとカウンセラーから聞いていたが、こうしてわざわざドイツから模型ひとつ持って帰ってくれる同僚もいる。きっとそういう人たちに支えられながら乗り越えていくだろうという安心があった。
話し終えると、真由は先に立ち上がって有薗の手を取って彼も立ち上がらせた。「男もん、これしかない」と分厚すぎるジャージを渡してバスルームに無理やり押し込めると自分はベランダへ出てタバコに火をつけた。雨が降っていても、土砂降りにでもならない限り、ここからは海が見渡せる。一番落ち着ける場所だった。雨で煙って風景は輪郭がぼやけ、水墨画の中に点々と港の常夜灯の温かい淡黄色がにじんでいるようだ。「お、すごいなあ」とシャワーを済ませた有薗が同じようにベランダに出てきて、海の夜景が見渡させることに驚いた。「なかなかでしょ」「うん」「百ドルくらいの価値はあると思う」「また、安く見積もったな」有薗はぷっと小さく噴出して笑った。「夏は花火大会がここから見える」「すごいね、贅沢だな。来年は僕もここで花火見物としゃれこむかな」「じゃあ私、浴衣着ようかな」「浴衣?いいねえ」「あれ、何その笑い方」有薗は口角を上げてニヤリと笑みを浮かべた。「和服の女性を、帯をこうくるくるっと、脱がせるのは男のロマンでしょう」魅惑の指先が空に円を描く。「いやー、絶対浴衣なんて着ない。やめた!」「なんで、君が言い出したんだ、いいじゃないか」「嫌だ」「真由の浴衣姿見たい。ちょっと言ってみただけだよ、冗談だよ」「いーえ、着ません。絶対着ません」聞く耳持たぬとばかりに「お風呂入ってくる」と言い捨てて真由は有薗を放ってさっさと部屋へ入ってしまった。
真由がシャワーを終えて出てきた頃、まだ有薗は一人、ベランダで夜景に見入っていた。「そんなに気に入った?」「うん」「今度来るときはお天気がいいといいね。夜景がはっきりして綺麗なんだけどな。右手に見えるのがポートアイランド、左が六甲アイランド。どっちも人工島だしあの明かりはそれを結んでるハーバーハイウェイの照明。夜景って所詮電力に頼った人工的なものだけど、綺麗なんだよね」いずれの人工島も高層マンションが立ち並ぶ住宅街のため、小さな窓の明かりが密集しきらめきがまばゆいばかりである。「夜景そのものは科学の力でも、そこに人々が暮らしてるんだなって思う」と有薗が感想を漏らしたとき、あ、同じことを考えてるんだ、と真由は驚きと小さな感動を覚えた。真由はいつも夜景を見るたび、この明かりのもと、大勢の人が生を営んでいる、夜景は、生の灯火なのだと思っている。不思議な人だ、どこかに共通の思考を持っているのだろうか。どこか、似通った部分があるんだろうか。今はまだよくわからない。ただ、多くの言葉を費やさなくとも思いを理解してもらえる心地よさはたまらない。




