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透明の向こう側  作者:
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「とりあえず、他へ行こう」真由が先に立ち、人気のない道を歩き始めた。それぞれに傘を差し、細い歩道を真由が先導してすぐ近くの公園へ入った。「ここはね、春になると桜がとても綺麗なの」と暗闇にひっそりと黒い枝を伸ばす木々を見上げた。「毎年春になると、ああ、またこの季節になったな、まだ私はここを通ってるんだなって思う。あのクリニックを最初に訪れたのが三月で、桜の咲き始めだった」真由がバイト先のいじめに耐えかねてクリニックを訪れたとき、すでに卒業も就職も決まっていた。このまま精神的に不安定な状況では就職してのち無事にやっていけるかと心配でたまらなくなって、ようやく春を目前にして受診を決意したのだった。「実家はもう少し山手の方なんだけど」「今はこの近く?」「うん、今は近い。ソノさんが入院してた海原病院もすぐそこだよ」「君にもらった地図に載ってた。お母さんはそこで亡くなったの?」「ううん、その頃はまだ海原病院はなかったし、ほら、わかるかな、あそこに大きな総合病院があるの、周りより少し明るい建物があるでしょう。実家はあのへん」真由の指先にはビルの合間を縫ってちらりと山手の方向が開けており、黒い山影の中に、小さな明かりの集まりがきらめいていた。「結構遠そうだよ」「ここから歩いても一時間とかからない」「一時間は十分遠いよ。もっと近くの病院に行こうと思わなかったの?お母さんのいた病院には心療内科はなかったの?」有薗の素朴な疑問に対して真由は「心療内科とか精神科って、周りの目もあるから」とだけ答えたが、あえて遠くのクリニックを選ぶ事情を察するには充分だったらしく「なるほど。ごめん」と有薗は自分の無神経さを詫びた。「いいよ。気付かなくて当然だもん。そんなことに怯えて暮らしてる方がどうかしてる」と真由はとりなしつつも「母親でさえ、私が心療内科にかかってることは気付かなかった」と続けた声はいくらかせつない。「そうなの?」「うん、最後まで隠し通した」「一緒に住んでれば気付いてたんじゃないの」「どうかな。あの人はしんどいことは目をつぶって見て見ぬ振りをする人だったから」自分の母親に対しての物言いにしてはずいぶん突き放したような冷たさがあった。今更取り繕う必要もない、母親への愛憎を知っている者に対するあけっぴろげさか。「駅まで送ってく。急がないと新幹線なくなっちゃう」と急に冷静な声で話題を転じた真由に有薗は小さくえっと声を上げて真由を見「追い返すの?」と詰め寄った。「追い返すって。そんなつもりはないけど、仕事あるでしょう」「それより今は君の方がよっぽど大事なんだけど」さっきから、真由は優しく話しかけているようで、一度も目を合わそうとしていなかった。二週間前の金曜日、有薗が東京からやって来てここで何を知ったか、わかっている筈である。彼女の真実を知ってなお、彼がこうしてまた東京から足を運んで彼女を待っていた事実もまた、今明白なのにである。「もし君があのビルから出てこなければ、家に行くつもりだった」有薗はいたずらっぽい笑みを浮かべてジャケットの内ポケットから一通の手紙を取り出した。公園のかすかな明かりの下で浮かび上がる白い封筒。「あっ!」と真由は驚きの声を上げ、それを見て有薗はおかしそうにさらに笑った。「そこまでしたら本当にストーカーだから、君があそこから出てきてくれて良かった」「なんでそれソノさんが持ってるの」「もちろん持ってるさ、君が書いてくれた大切なファンレターだもの」「だってそれはJAMANIAに宛てたものでしょ」とっさに真由はそれを取り返そうと手を伸ばしたが、有薗がすっとそれをかわすほうが早かった。「僕はJAMANIAの一人だもん、問題ないでしょ。文句ある?ここにちゃんと君の住所と名前が書いてある」「嘘っぱちかもしれへんやん」「君はそんな真似はしない」ときっぱり言うと有薗は真剣な眼差しに変わった。「二週間、連絡もせずにほっぽってごめん」「別にいいよ」「軽率な言葉をかけたくなかった」「かける言葉も見つからない?」「正直に言えばそうなる。君はどんな思いだった?」「ソノさん、私ね、本当にあなたに会えて良かった。何千、何万のありがとうを言っても足りないくらい」「またそうやって過去形にしようとする」「あなたが私の本当を知ってどう思ったかは聞かない。怖いから」「怖い?」「あなたが何も言ってこなくて、怖かった。やっぱり私は本当のことを話すべきじゃなかったって後悔した。ソノさんが私の笑顔を好きだと言ってくれるなら、そのまま綺麗な思い出にしておけば良かったのかなって思った。でもなんとなく、なんだろうな、吹っ切れた」「今も?こうして君に会いに来たよ?」「びっくりした。幻を見てるかと思った」「僕はここにいる」「うん」「僕は、ただ君を抱きしめたかった、思いきり抱きしめてやりたかった」そう言うが早いか有薗は傘を投げ出して真由を抱きしめた。同時に真由の体から一気に力が抜け、彼女の傘も音もなく地面に転がる。「僕はただ君を抱きしめてやることしかできない。僕は、無力だ」雨に打たれながら真由はただ黙って有薗の肩に頭を預け、目を閉じた。雨にまぎれて、とめどなく涙が溢れた。無力なものか、こんなにも温かく自分を包んでくれるのはあなただけなのに。あなた以上に、自分は無力だ。あなたの前では仮面を被ることができずにありのままの自分がさらけ出されてしまう。自分が自分を演じるための強くて陽気な仮面が、無残に取り外される。こんなにも泣き虫になってしまう。あなたはあまりにも温かで。あなたの胸はあまりに安らかで。「メンバーがさ、仕事で飛び回ってて子どもが懐いてくれないって、仕事の合間に育児書を読んだりしてるわけ」「誰だろう、想像つかないな」有薗の腕の中で真由はくすりと笑った。スーツで極めているJAMANIAしか知らない真由にとって、素の人間として育児書と格闘するメンバーの姿は想像しがたい。「その育児書にね、子どもには言葉なんていらない、ただ抱きしめてやれって書いてあったらしくて、今それを一所懸命に実践中なんだ」「うん」「僕は君を抱きしめてあげる。僕にはそれくらいしかできないから、いっぱい抱きしめてあげる」「うん」「存分に甘えなさい。思い切り怒ったり泣いたりすればいい」「うん」「背がちっちゃいから、あんまり様にならないのが悲しいけど。ほんとはさ、胸をどーんと貸してあげられればいいんだけど。ごめんね」「うん」気付けば彼の言葉に素直にうなずくばかりであった。出会ったばかりの頃、決して彼に近づくまいと避けた真由にかまわずその声をあっさりと届けて自分のペースに引き込んでしまったように、今もまた有薗の声は真由の心の奥まで確かに届いていた。私は、許されるのだろうか、この胸に飛び込むことを、許されるのだろうか。この胸は私を受け止めてくれる・・・。ただただ涙が溢れた。

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