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それから二週間、ついに有薗からの連絡がないまま次のカウンセリングの日を迎えた。予約の時刻に少し遅れてカウンセリング室に駆け込むとまず真由は「先日は無理をお願いしてすみませんでした」と腰を折って謝った。木下に「彼から何か言われましたか?」と訊かれるとちょっと考えて「いいえ、連絡はありません」と微苦笑を浮かべて正直に答えた。木下は明らかに落胆したようだったが、真由は実はそれほどではない。十分予想できた結果だと受け止めている。「普通の人なら逃げ出したくなるのも無理はないでしょう、こんな女」と真由が自嘲気味に吐き捨てると「そんな言い方はよしましょう」と木下がゆったりとした口調でそれをたしなめる。「もうあの人は私の暗い部分、嫌な部分を知ってしまったんだなあと思うと、なんだかかって吹っ切れたみたいです。ここのところ、自傷もしていません」「自傷をしないのはいいことです。まずはそれを素直に喜びましょう」「木下さん、私は彼に本当のことを話して何を期待していたんでしょうか。いい結果なんて生み出さないってわかってたのに。もしかして私は、罪の一端を彼に背負わそうとしたんでしょうか。少しでも自分の荷を軽くしようと」「そんな風に思っていないことは自分が一番わかっているでしょう?」他人に気軽に押し付けて逃げ切れる罪ではない。そう思うからこそ我が身の罪深さが呪わしいのだと知りぬいているのは真由自身だ。木下からあえて答えるまでもない。木下のさらりと質問をかわす様子から、もうそれ以上真由からは有薗について触れなかった。具体的に何を話し、彼がどんな様子で聞いていたのかも知ろうとはしなかった。知ったところで彼が真実を知ってしまったことも、その結果連絡を絶った事実も今更覆らない。四週間分の世間話をして時には笑い声さえあげてカウンセリングを終え、次回の予約を取って部屋を出ると待合に患者はなく、すぐに診察室へ呼ばれた。「今日は商売上がったりですね」開業こそしていないものの同業者でもあり、長年受診を続けて気心も知れており、真由はよく松浦医師に軽口を叩く。松浦も正直で「たまにね、こんな風にびっくりするほど患者さんがいないときがあるんだ。今日はこの後東京出張だから助かった」と次の予定のためにはむしろ楽だと応じた。「学会ですか?」「うん、まあセミナーがね」「先生、無理なお願いを聞いていただいてありがとうございました」「いえいえ。で、どう、なんて言ってた?」黙って真由が首を横に振ると松浦はがっかりしたように「そうか」とだけ呟いた。彼にすべて打ち明けるよう勧め、協力したのは早計だったのかと申し訳なかった。そんなことを先取りするかのように「先生のせいじゃないですよ。もともと、そういう縁だったんです」と真由は笑って見せた。その日はしとしとと小雨が降り、肌寒い夜だった。ついこの間まで残暑が厳しいおかしな秋だと思っていたのに急にその夜は冷え込んだ。冬のコートにはまだ早いが、今日くらい冷えると薄手の上着でも羽織らねば、そんなことを考えながら同じビルの二階にある薬局で薬を待ち、二週間分の薬を受け取って階段を降りた。一階のビルの出入り口に、雨宿りをしている風の男の後姿がある。上から降りてくる足音に気付いて振り向いたその男は有薗だった。真由は一瞬その場に立ち尽くしたが、有薗がふっと顔をビルの前の道路へ向けなおして依然としてそこから動こうとしないので真由もいつまでも階段にいるわけにもいかず、黙ってそのまま階段を降り、彼の隣に肩を並べた。小さなビルなので、二人並ぶと出入り口はふさがってしまう。
「良かった、来てみて」真由が隣に立つと有薗はいつものごとく鷹揚ににこりと笑った。「どうしてここにいるの?」「今日予約だって聞いてたから。待ってる間、軽くストーカー気分を味わわせてもらったよ、貴重な体験をありがとう」「仕事は?」「さあね。君が気にするほど僕は忙しくないのかもよ。売れっ子でもないし」「十分売れっ子になってきたよ。チケット取るの、気が気じゃないもん。だんだん遠い人になってく」「遠くなんかない」そう言うと突然有薗はくるりと体の向きを変えて真由を抱きしめた。「こんなに近くにいる」真由は身動きを封じられた。前にも真由はそんなことを言って遠い存在かのように自分を突き放そうとしたことがある。あの時すでに真由は別れの決意を秘めていたのであろうと今では理解できる。今もまた、彼女は自分と距離を置こうとしている。しかし今目の前にいるのはJAMANIAのSONOではなく、有薗智明という一人の男なんだ、君を離したくないただの男なんだ・・・。しばらく二人は無言だった。真由の手が有薗の背中へ回ることもなく、ただ一方的に有薗が彼女を抱きしめている格好だ。「ちょっとちょっと、ラブシーンは帰ってやってくださいよ」エレベーターから降りてきた松浦の冷やかす声に、はっとして真由が有薗を突き飛ばすような勢いで体を離した。松浦は二人の間を割って入るようにビルから出ると、足早にその場を立ち去りながら、たった今失望した男が目の前にいることに驚くと同時に、おそらく彼が真由を迎えに来たのであろうことが嬉しかった。真由の不安げな表情も目に入ったのだが、それでもなぜか確信した、あの男が勝つ、と。いい奴とめぐり逢えたのだと心から安堵すると涙が滲む思いがしてとっさに目じりをぬぐった。




