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透明の向こう側  作者:
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 途中パラリとめくっては何度かファイルに目を落とす以外は有薗から目を逸らすことなく、ひたすら感情をこめず淡々と木下は真由の過去や思いを話した。話から何を感じ取るかは有薗次第で、木下はただ真由の真実の姿を推し量るための材料の一端をさらしたにすぎない。カウンセラーは普通、患者の話に耳を傾けるのが仕事だからこんなに話すことには慣れていないが、人を観察するのは仕事柄得意だから、話しながらもずっと有薗の様子は伺っていた。不思議なほど動揺も見せず取り立てた変化はなく、少なくとも木下の目を逸らすことは一度もなかった。

「このファイルは、渡部さんとのカウンセリングを書き留めたものです。今僕は、重要そうな事柄だけに触れるように話しました。あなたから聞いておきたいことや、気になることはありますか?」と木下はわざとファイルを閉じて持ち上げ、有薗にその厚みを確認させるように向けて見せた。この厚さ以上の出来事と思いが真由の中に、ある。有薗が睨むように力強い目でファイルを凝視しつつも返事をせずに黙っているとそれも仕方ないという風に木下はファイルを机上に戻した。

「もう少し時間はありますから、少しだけ渡部さんの内面に迫ってみましょうか。渡部さんのカウンセリングでのキーワードは穢れと許しです。穢れの方はもうだいぶおわかり頂けたでしょう、とりついて離れぬ思想です。許しについても、少しわかるかもしれませんね。罪を背負って生まれたという発想から来ます。家族の愛情を得られなかったのも、自分は罰を受け続けていると考えがちです。一時期、教会の日曜礼拝に行ってみたりもしたようですが、神でも、他の誰かでもなく、他ならぬ渡部さん自身が自分を許さねばならないことを、彼女は知っています。知っているからこそ、簡単には許せない。彼女は自己評価がとにかく低いです。自分など無能で人の迷惑になる存在だとまで言うときもあります。過酷な運命と闘いながら力一杯に生き抜いて、自力で大学を卒業したり医師としてたくさんの人を救っていても、です。実績に対して自己評価が低いからこそ、死が近い。いつ死んでも惜しくないんですね。それと、渡部さんの心の黒い塊が好む感情に孤独感があります。ゴッホの『寝室』という有名な絵をご存知でしょうか。渡部さんはたまたま美術館で、第二バージョンを見ました。アルルで共同生活をしていたゴーギャンが去った後に描かれたものです。その絵については何の予備知識もなく臨んだ筈なのに、ぞっとするほどゴッホの孤独が伝わってきて、黒い塊が否応なく絵に惹きつけられるので逃げるようにその場から離れたそうです。自分には大切な友人も、信頼してくれる人、慈しんでくれる人もいると理解していてもなお、孤独は渡部さんの心を支配します。あなたがおっしゃったように、渡部さんは本来天真爛漫な人だろうと僕も、思っています。その部分を引き出したくて、カウンセリングを続けています」

 カウンセリング室を出て待合室に戻ると、そこには何人かの者がいた。ソファで寛いで雑誌を読んでいる者、うたた寝をする者、まだ学生くらいの若い男もいれば子どもを連れた母親もいる。サラリーマン風情の壮年の男もいる。いずれもごく普通の、ごくありきたりな人に見えるが彼らも心に何かを抱えてここへ通っているのだろうか、人は外側からはわからないものだなあなどとぼんやりと有薗は考えていた。何人目かに自分の名が呼ばれた。診察室へ入ってみると松浦医師は気さくそうな老齢に近い男で、いかにもこの医師ならば深い悩みを抱えた患者たちも気を許しそうな優しい笑顔をしている。「木下君からお話を聞かれて、どうですか?」と単刀直入に感想を求められた有薗は正直に「どうですかと言われても。ただ、胸が苦しいです」と戸惑いを訴えた。「私に何かお聞きになりたいことはありますか?」「薬、睡眠薬を飲んでいるって」「薬はたくさん飲んでいますよ。睡眠薬はやっぱり気になりますか?名前を言ってもご存知ないでしょうから省略しますが、毎食後に抗うつ薬、気分の波を抑えるための安定薬、不安が強いときの頓服として抗不安薬、。それと寝る前の薬は五種類。睡眠を誘うもの、眠りを深くするものを組み合わせています。これでも少しずつ、減ってきているんです」「そんなに?ちっとも気付かなかった」「人とお食事したときなどは飲まないようです。本当は飲まなくちゃいけないんですがね、人と一緒だとどうしても、何の薬かな、どこか悪いのかなと勘ぐられますし気を遣わせたくないんでしょうね。人一倍他人のことは心配するくせに、自分のことでは心配をかけたくないんですよ」「睡眠薬はそんなに飲まないと眠れないんですか?」「彼女の不眠はなかなか強敵ですね。眠剤を飲まなければ五十時間でも起きてますよ。これまでかなり色々と薬の種類、量や組み合わせを試してきましたが、渡部さん自身医師として知識があるので今は相談して決めています」「寝るときはどうしてたんだろう、全然気付かなかったな」と有薗はひとりごちた。今まで一度も真由と食事をともにしても食後に薬を飲む姿など見たことがないし、夜をともにしても寝る前に薬を飲まねばと取り出すのも見ていない。ただ、当直明けという割に元気だった夜を思うと、あれも不眠症のなせるわざかといくらか納得はゆく。有薗の独り言を引き取って松浦は続けた。「あなたにこんなことを言うのは厳しいようですが、残念ながら渡部さんは、好きな男の腕の中でならぐっすり眠れるというほど生易しい不眠症ではありません」おそらくあなたと一緒のときも寝た振りをしただけで実際には眠っていないでしょうと言う。「切り傷があるなんてことも知らなかった」「まったく見たことないですか?それはちょっと意外な気もしますが。よほど徹底的に隠し通したんでしょうか。ちょっと、素人が見るとショックかもしれないですね」「そんなに?」「普通の人ならちょっとしんどいかな。両腕ともかなりの痕があります」松浦は自分の白衣の両腕をざくざくと切る仕草をしておおよその傷の範囲や数の多さを示した。「良くなるんですか?」と有薗がずばり結論を急くと、それには松浦は一転笑顔を消し去った。「それは難しい質問です。木下君から聞いておわかりだと思いますが、薬では解決しようのない問題がありますから。薬はただ、彼女の気分を底上げしてなんとか持ち上げているに過ぎません。でも良くなると、いつか薬もなくせると信じて我々は治療に当たっていますし、渡部さんも信じて治療を続けています」ありがとうございました、と深々と礼をして去る有薗の背中を松浦は真面目そうな男だと好感を抱きつつも、心配そうに見送った。どうも睡眠薬というものに必要以上に刺激を受けている、おそらく希死念慮が強いことも聞かされてそれとつながってしまったのか。彼女の服用している薬など、丼一杯飲んだって死ねるものじゃないと教えてやれば良かったか、とそれが多少心残りだった。洗いざらい真由についてぶちまけたことについては後悔していない。


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