107
何かストレスを浴びたり前触れのない不安、憂鬱の波が襲ってくると、彼女は自傷することで耐えました。自分の体を傷つけるしか、他に自分の心の傷をごまかす方法を知らないのです。心の傷の痛みを忘れるために体を傷つけるんだそうです。虫歯が痛いときに体をつねるようなものだとか。彼女は、自分の心は許容量が小さいのだと表現します。だから自傷なんてくだらないことを繰り返すのだと。普通の人なら我慢できる小さなことも、私には耐え切れないのだ、なぜなら心の大部分を黒い塊が大きく占領してるせいでキャパが小さくなっているから。医学部在学中は実習などで腕をさらす機会も多く、同級生はみな自傷癖に気付いていた筈だけれど、それをおもしろがるような人がいなかったのがせめてもの救いだったようです。そして再び神戸へ戻ってきて、カウンセリング再開です。今の病院もまた腕の傷について触れる人はいない、みんな怪我ややけどならもっとグロテスクなものを見慣れていると少し気が楽なようですが、それでも絶対に夏でも私服は長袖、白衣も長袖を着用しているようで、決して自分の腕を人に見せないというのは徹底していますね。友達も誰も知らないようです。今の職場でも事務職員と衝突したり、若手ながら重要な仕事に抜擢されたのをおもしろく思っていない同僚からの嫌味を浴びたりとあれこれストレスもあり、無理に無理を重ねているようではありますが、自傷の回数は確実に減ってきています。忙しすぎてそんな暇もないというのが本当かも知れませんが、それでも、医師という仕事は彼女のいい生きがいになっているのかもしれません。新人とは思えない大きな仕事を早くからまかされ、はりきっていました。薬も減ってきています。ところがです。前回、先々週ですが、びっくりしました。「最近落ち着かなくて、毎日毎日切ってるんです、ほんとに毎日毎日」と告白されました。まだ暑さの残る日だというのに、長袖のシャツに長袖のカーデガンまで羽織っている。シャツだけだと傷から血がにじみ出て、それがわかってしまうからです。そこで有薗さん、あなたの存在が初めて明らかにされました。今までどんな男性と付き合っても、その人が浮気をしようと平気だったし、自分も遊んでいた。なのに、あなたに関しては平静ではいられなかった、生まれて初めて人の恋人に嫉妬した、驚き動揺し、この感情をどう始末していいのか、初めてのことだけにわからなかった。自分の汚れた体が恥ずかしいし、初めての感情に怖くなってあなたから逃げ出した。逃げ出したとき、何年ぶりかで泣いた。自分にもまだ、心から人を好きになる感情があった、好きな人にもう会えないことを悲しいと思う気持ちが残っていた、そして涙を流すことができた。人間らしさ、それを取り戻させてくれて、感謝している。自分の涙が温かいことが嬉しいと言っていました。自らあなたに決別したときは、自傷に逃げなかった。あなたへの感謝、出会えた喜びの方がずっと勝っていたんですね。ところが、思いがけずあなたが追ってきた。でもその気持ちに応えられない。そこで彼女は自分の背負っている過去、汚れた体が憎くて、自傷に走りました。自分が憎くてたまらない。自分の罪深さが呪わしい。果たして彼女が汚れているのか、罪深いのか、それは疑問ですが、彼女には、自分がそういう存在にしか思えないのです。あなたは、渡部さんに「もっと楽に生きてみたら」というようなことを何度かおっしゃったそうですね。彼女には、それがショックだったんですよ。自分は強くおもしろおかしく生きている人間を精一杯演じているのに、なぜか彼にはそれが演技だと見透かされているようで怖い。ほかの誰にも気付かれたことのない仮面を外されそうでとても怖い。その怖さもまた、あなたに惹かれる理由だそうですが。本当の弱さを見抜き、見守ってくれる人。そう感じた僕は、思い切ってすべて話してはどうかと言いました。見透かされそうで怖いなら、自分からさらけだしてみてはと。ただし、僕は今すぐ話さなくとも良いと考えていました。愛情を深めて、時期を見極めていつか話しましょうと。でもそれはできない、とても自分の口から本当のことなど話せない。きっと自分は冷静に話すことなどできないし、事実を知っても彼は困惑するだけだ。しばらくすれば自分も落ち着くだろうし、彼もほかにふさわしい人を見つけるに違いない。自分は、人間らしさを思い出させてくれた感謝を抱きながら、生きていく。彼女の悪い癖です、自分が汚れきっているから自分には生きる価値などない、まして人に愛される価値などないと口癖のように言います。愛されることを諦めきっています。でも、彼女は確かに「この思いを胸に抱きながら、私は生きていくんです」と言ってくれました。彼女がはっきりと「生きる」と前向きに言ったのは初めてのことです。ようやく、自分の人生を自分の足で踏み出そうとしたところでしょうか。だからこそ、僕はもう一度言いました、彼にすべてさらけだしてみましょう、何もいますぐでなくてもいい、ゆっくりでいいから。今、彼ときっぱり決別することはない。でも彼女は「もう会わない方がお互いのためなのだ」と首を縦に振りませんでした。そして今日の予約をしてカウンセリングは終了しました。ところが、翌日またここを予約なしに訪れて、先生に「知り合いに、自分に関するすべてのことを話してほしい」とお願いされました。あなたからは「本当の君を知りたい」と言われ、僕からも本当の自分をさらけ出しましょうと言われて、散々迷ったそうです。先生には前日のカウンセリング内容は僕から話してあったので、先生もそれをすぐに了承しました。そして今日、あなたがここにいらっしゃるわけです。




