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透明の向こう側  作者:
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 薬を服用しはじめ、無事に大学を卒業していじめから解放されたことで一時は渡部さんも落ち着きましたが、今度は職場の人間関係に軋轢が生じたのをきっかけに再び酒を飲むようになり、あるとき別の逃避手段を見つけました。リストカットと言う言葉をご存知ですか?そうですね、確かに女子高生くらいの年代に多いのは事実ですが。渡部さんが見つけた逃避手段は、リストカットです。ただし、彼女はリストカットという言葉を大変嫌います。あなたがおっしゃったように、女子高生がファッション感覚で軽く傷を付けて、それを見せびらかして関心を買うという軽薄さがあるからだそうです。渡部さんも最初はほんの少しの、二、三日もすれば綺麗に治ってしまう程度の傷でした。初めて自分の体を傷つけたとき、涙が溢れてどうしようもなかったそうです。身も心も汚れきって、ついには自分の手で自分の体を傷つけるまでに堕ちたのかと、たまらなく悲しかったそうです。それならいっそ死んでしまいたい。もう心も体もこの世から消し去りたいと心底切望した。そしてそれ以来、泣かなくなった、最後に泣いた記憶は最初の自傷のときだったとはっきり覚えているようです。その頃、酔うためと眠るために飲むのはウォッカ、これはビール程度の軽い酒ではとても間に合わなくなったのと、無色透明でにおいもない潔さが好きなのだそうです。自分の汚れの発想と逆のものを無意識に求めているのもあるでしょう。そして不眠。なかなか寝付けず、寝ても眠りは浅く、二、三時間ではっきり目が醒めてしまう。そして自傷。少しずつ、自傷の傷が大きくなったり深くなったり、一度に何か所も切ったりとエスカレートしていきました。彼女は悪いことが起これば自分のせいだと責める、たとえば兄からの虐待にしろ父親がいないことにしろ、自分が悪い子だから大きな罪を背負わされて生まれて、罰が下されたのだと言います。そしていじめのような辛いことがあっても、決して友達や母親に打ち明けも相談もしません。自分で抱え込んでしまいます。感情に封をしてしまったから、心を閉ざしがちだったのでしょう。唯一心を開く場が、このクリニック。あかの他人です。初めて来診したときはバイト先でのいじめが辛いということしか言いませんでした。何度目かの診察でようやく、自分にはもっと根源的な問題があると兄からの虐待を告白しました。それを解決しないことには自分は変われない、でも果たして解決できるのだろうか、とそれはもうすがるような思いで松浦先生に訴えました。そこからカウンセリングが開始され、僕と渡部さんが出会いました。根源をなす問題とは言え、必ずしも兄からの虐待とか、過去の傷を掘り起こすことが問題解決にはならないので、僕からそのことに触れることはありません。彼女が話したいときに話したいように話してもらいます。実際、カウンセリングと言っても一時間世間話のようなもので終わってしまうことも少なくありません。でも彼女には、心を許して、一時的でも封を解き、吐き出す場所が必要なのです。僕は、彼女に何か助言したりはしません。ただ、話を聞くだけです。たまに話の糸口になりそうなヒントをぽんと投げるくらいです。すみません、話が逸れました。大学を卒業し総合病院に事務員として就職したものの、そこでは、仕事の進め方などをめぐって先輩と意見が対立し、新人のくせに生意気だと攻撃をたびたび受けました。わざと一日中掃除やお茶汲みなどの雑用を押し付けられて仕事らしい仕事をさせてもらえず、それを知らない上層部には仕事のできない人、仕事の遅い人と完全に誤解され、相談しようにも直属の上司は社内不倫を渡部さんに気付かれて開き直っていて、とても信頼して相談ができる人間ではない。その不倫相手にまで泣きつかれる。同期で一番親しくしていた同僚が陰で渡部さんのことを悪く噂していたのも相当ショックでした。誰を信じていいのかわからなくなってしまった。それ以降、ますます渡部さんは人間関係を築くことを避けるようになってしまいました。裏切られるくらいなら最初から期待しない。とまああれこれ重なって先ほど申し上げたとおり自傷を覚え、その上、大学時代の友人が飛び降り自殺という悲しいことも起こりました。彼女は心を閉ざして生きてきたから、友達も少ない。なのにその一人がよりによって自殺です。どれほど彼女にその喪失体験が重かったことか。この友人は在学中からうつ病で精神科に通院していて、渡部さんはそれを知っていました。自分もうつ病と診断され治療を受けるようになって、彼の心の苦しみがいくらか理解できる。無言の内に「共にうつと闘おう」というような思いが結ばれていたそうですが、彼は、うつに負けました。彼をさらったうつ、そして自分自身にも死を常に誘惑してくるうつ。渡部さんはうつ病を”黒い死神”と表現します。かつてイギリスのチャーチルがうつを「私の黒い犬」と呼びましたが、渡部さんにとっては「極上の甘い笑顔で死へ手招きする死神」だそうです。死神に大切な友人をさらわれたときの渡部さんのとてつもない孤独感は見ていて苦しかったです。そう言えばあなた、仲間を事故で亡くされたそうですね。渡部さんはそのことも言っていましたよ。ある程度覚悟をしておける病と違って、事故や自殺は遺される者にとって急すぎる。悲しみを受け入れるには時間がかかる。そんな悲しみを乗り越えてきた人だと。

 ストレスの発散を知らない渡部さんはどんどんアルコールの量も増え、自傷も日常茶飯事でした。今も、何か辛いことがあるとアルコールへつい逃げがちで、いい傾向ではないし、薬を飲んでいる関係もあって酒は一切禁じられていますが、元々が好きな方なんでしょうね、どうしても時折飲んでしまうようです。そして思い切って彼女は退職し、予備校に通って一念発起して受験、医学部合格です。その後の六年間は、詳しくは知りません。大きなできごとと言えばやはり母親が亡くなったことでしょう。「兄は勉強もできないし授業をサボってゲームセンターに行ったり万引きしたり、大学中退後も遊び呆けて仕事にも就かず、母を困らせてばかりだった。挙句に突然ふらりといなくなって何年も音信不通。それでも、母は薬で朦朧とした頭で、兄の名を呼んだ。必死に大学とバイトを両立させながら苦学し看病している自分ではなく、兄を呼び続けた。母はついに最後まで私を愛してはくれなかった」とそのときのことを振り返っています。お父さんはまったく記憶にもないから追い求める一方で諦めもつくのですが、なまじお母さんは最後まで一緒でしたから、しかも最後はお兄さんはいなくて渡部さんと二人きりの親子になっていたわけですが、それでもお母さんの愛情を独占できなかったことには相当傷ついています。母親が渡部さんの介護に文句をつけたりすると心の中で「あんたがかわいいかわいいと手塩にかけた坊ちゃんに看取ってもらえ!」と悪態をついたこともあるそうです。でも決してそんなことは表情に出さなかった。むしろ、余命いくばくもない母に対してそんな暴言をたとえ胸中といえど吐く自分に嫌悪感を覚えました。けなげなまでに渡部さんは愛し続けたんですね。

 お母さんが亡くなる直前、実はお兄さんから便りがありました。刑務所の中からの手紙でした。詳しくは書かれていなかったそうですが、詐欺を何件か、やっていたらしい。その手紙のことはたぶん誰にも明かしていないんじゃないでしょうか。お母さんはすでに意識が薄れていたし、はっきりしていたところで不出来ながらも最愛の息子がよりによって刑務所から便りを寄越すなんてことに耐えられるかどうか、と計算してのことです。この手紙で渡部さんの中で以前からくすぶっていた思いが決定的になりました。血を絶やさねばならない。自分は絶対に子どもを産んではいけない、と。妹と関係を結ぶような兄も異常なら、それを止めなかった母も異常。その兄はついに犯罪者。自分の体に流れている血は、穢れている。この血は絶やさねばならない、と、この思いは悲しいまでに真剣です。

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