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透明の向こう側  作者:
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 さて、兄からの虐待、そこから母親が救い出してくれなかった経験は、黒い塊を育てる一方で彼女の感情を押し殺してしまいました。何が起ころうと怖いとも恥ずかしいとも悲しいとも感じない代わりに、喜ぶことも楽しむことも少なくなりました。中学の頃、担任の先生に「お前は醒めてものを見ている、よくない態度だ」と指摘されたそうです。母親が亡くなったときにも一滴の涙も流さず、親戚から「冷たい子」と心無い言葉を浴びせられたそうです。それでも彼女は感情に封をして生きてきた。感情の麻痺が、彼女の生きる術だったのです。そうやって何事にも感動を覚えない単調な日々を過ごし、体を、自分を愛することができずに彼女は成長します。高校生になったある日、兄が行方不明になって「物心着いて以来初めてぐっすりと眠った、自分の家なのに」とようやく少しの安堵を得ました。それまでは、いつまた兄に襲われるかと不安と恐怖で眠れなかったのでしょう。今でも実はその当時の癖というか、残っているらしくて、人の気配には非常に敏感です。いつの間にか人が背後にいたりするとぞっとするそうです。そして実家を処分してしまった今でもまだ、いつか兄が自分を見つけ出すのではないかという不安に苛まれています。論文なども許されるなら筆名を使いたいくらいだそうです、ネット検索などで容易にヒットしてしまいますからね。まだ十代の女の子が、自分の家でさえ安心して眠れない。自殺すら真剣に考える。こんな過酷な運命が、どうして他の誰でもなくこの身に展開されたのだろう。自分はよほど罪深い人間なのだろうかと、今も悩んでいます。いや、それ以上に、なぜ自分はこの世に生を受けてしまったのか、なぜ苦しむために生まれてきてしまったのかとそれはそれは深く悔やんでいます。

 高校卒業と同時に大学へ進学しましたが、その際にもひとつ、母親の愛情を疑うできごとがありました。渡部さんが大学に合格したとき母親は「お金がないから進学は諦めてくれ」と言いました。渡部さんは最初「やはり母子家庭で大学まで進学しようとは甘いのか」と、母親は精一杯頑張ってくれているけれど日々の生活がやっとなんだと言い聞かせようとしたそうです。ところが、そうではなかった。すでに行方不明になっていたお兄さんの車、高級な外車を買うのに貯金を使い果たし、今もローンを払い続けているから学費が捻出できない、と。事実を知ったとき、兄の道楽のために自分は進学を諦めねばならないのかと夜通し泣いたそうです。子どもの頃から、お兄さんは「大切な長男だから」と大事に扱われ、欲しいものは買ってもらう、妹に暴力を振るったり暴言を吐いても叱られもしないわがまま勝手に育てられたのに対し、渡部さんは何かと我慢を強いられたそうです。ご本人が「思春期特有の被害妄想もいくらかある」としつつも、例えば中学入学の際、お兄さんは制服から鞄から当然新品をあつらえ、通学用にしては高額な自転車も買ってもらったのに、渡部さんが中学入学の際には「お兄ちゃんが大学に行くのにお金がかかるから」と近所の卒業した女の子から制服のお下がりをもらい、中古の自転車を数千円で譲り受け。あまりに露骨な差別に今となっては失笑しかできない、と具体例を挙げたことがあります。そして渡部さんいわく「聞いたこともない」私立専門学校に高い金を払って入学したももの数日行っただけで退学したそうで「兄の進学を理由にまっさらな中学生になることを諦めさせられ、自分が大学へ進学したいとなったら車のローンを理由に諦めさせられる。自分の大事な節目節目で必ずあいつが邪魔をする」といつでも母が兄を優先し自分が我慢を強いられてきたことを振り返っています。皮肉な話ですが、渡部さんはとにかくお兄さんが怖かった、先に眠るといつまた何をされるかわからないから、身を守るには必死に兄よりも遅くまで起きているしかなかった。懸命に眠気と戦いながら渡部さんがやったことが勉強でした。その結果成績優秀で公立大学にすんなり合格したわけです。もちろん天性の才能もあるでしょうが。兄の魔手を逃れるために睡魔と闘って難関大学に合格したのに入学できない。結局、奨学金やら、特待生制度やらを利用して殆ど母親の手を煩わせずに無事に卒業しましたがね。

 二十一歳のとき、バイト先でいじめにあったことは先ほど言いました。高校卒業と同時に大学入学、そして始めたレストランでのアルバイトで、行き始めた当初から無視などのいじめはあったようですが、まったくいじめに対して反応を見せなかったのがかえって反感を強くしたのか、制服を隠す、彼女を名指しで嘘の苦情の電話を入れるなど実にくだらない女性らしい陰湿ないじめを繰り返されたそうです。「体が大きいから、力では勝てる。いざとなったらギャフンと言わせてやる」と心の中でだけ相手を見返しながら耐えたそうです。もちろん彼女はいじめをされたから仕返すような人ではありません、あくまで自分を耐えさせるためです。しかし、あるとき「あんたは父親がいないから躾がなっていない」と言われたときばかりは、我慢の限界を感じたそうです。よくぞあの時殴りかからなかったものだと。彼女は子どもの頃から、父親がいないことを周囲から言われてきました。「お父さんがいないわりには勉強のできる子ね」と同級生の母親に言われたこともあるそうで、いまだにあの言葉の真意は測りかねる、とこぼしていました。彼女の年代だと普通まだ両親は健在だし、離婚も今ほどありません、母子家庭というだけで珍しそうに見られてきたのでしょう。彼女が感情に封をしてしまった後「やはり家庭には両親が揃っていないといけない。どちらかが欠けると渡部みたいな人間になる」と英語教師に突然授業中、言われたこともあるそうです。父親がいないことも、自分が罪深い人間だから課された運命なのかと悩みは尽きません。ここでひとつ、渡部さんには永久に解決できない疑問があります。もしお父さんがいたら、自分は兄からの虐待など受けずにすんだのだろうか?お父さんは守ってくれただろうか。こればかりは、誰にも答えは導き出せません。彼女はよく言います「父親がいないから、私はきっと死ぬまで父の理想を描き続ける。追い求めてやまぬもの、でも決して手に入らぬもの、それが父」。とにかく彼女にとって、父親がいないことも一種のコンプレックスで、そこを指摘されるのはとても辛く嫌なことだったのです。それまでは酒の力を借りて現実逃避を図っていました。しかし酒量がどんどん増え、それを母親から強く非難されますますストレスになるという悪循環に陥ってしまいました。母親はなぜ酒に逃げずにいられないのか聞いてやろうとはせず、頭ごなしにただ飲酒を咎めるばかりだそうで、彼女は「あなたに心配かけたくないからいじめを打ち明けずに我慢してるのに」とますます自分を追い込み、自身の酒の飲み方が尋常でないこと、ぐっすり眠れないことなども客観的に考えて一人では耐えるよりも専門家の力を借りるのが賢明と判断してここを訪れました。

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