表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
透明の向こう側  作者:
104/115

104

 渡部さんには深い悩みがあると言いました。彼女はそれを”心の中の黒い塊”と表現します。それはとても冷たく、ひっそりとでも確かにどっしりと横たわっていて感情を左右し、時折心の表面に顔を出します。それが憂鬱の波であり、自殺願望となります。この塊が形成され始めたのは思春期の頃です。ただ、固まりの核の部分が形成されたのはもっと幼い頃です。

 彼女の記憶にある限り、少なくとも五歳の頃、まだ保育園ですね、それは始まっていました。そして十一歳になるまで続きます。兄からの虐待です。殴る蹴る物を投げつけられるなんてことは物心ついて以来日常茶飯事で、青あざだらけで体操服に着替えるときなど嫌な思いを何度もしたそうです。さらに五歳の記憶に始まったのは、性的虐待。六つ上ですから、渡部さんが五歳の頃、十一歳です。まだ男性としての性的機能は成熟していません。自分の性器を彼女に触らせたり、逆に彼女の性器をいじったりということが日常的に繰り返されていました。ただ、彼女が十一歳というとお兄さんは十七歳です、性的な興味が一番ピークになる頃で、体も成熟しているから、虐待行為はエスカレートしていた。幼い彼女は、自分のされていることがなんなのかわからなかった。ただ、いつも母親が仕事で留守のときなどに限ってそれは起こるし、自分が眠っているときに、頬を軽く叩いて眠っていることを確認してから虐待行為に及んだらしく、幼心にもこれは悪いことなんだ、お母さんに言っちゃいけないんだと勘付いて耐えたそうです。それに途中目が醒めてもいつも必死になって寝た振りを続けた、目を覚ますのが怖かったし、気持ちも体もこわばって抵抗など到底できなかった、と。一度だけ、母親に「お兄ちゃんが変なことしてくる」と子どもの精一杯の勇気を振り絞って訴えたそうですが、黙殺されたそうです。母親もきっと、自分が必死に育てている子どもたちの間にそんなことが起こっているとは信じたくなかったのだろうし、自分が仕事で留守にすることが多いので止めることもできなかったのだろうと、母もまた苦しんだろうと彼女は今も母親をかばいます。かばいつつも、あの時母は私を守ってくれなかった、私より兄を取った、と憎んでいます。どうして自分を守ってくれなかったのかという思いは、どうしようもなく止められないし、止められなくて当然でしょう。話が少し飛びますが、大人になってから、ある日テレビのニュースを母親と二人で見ていたとき、婦女暴行事件が伝えられた。そのとき母親が「女の方にも隙があった、女も悪い」というようなことを言ったそうです。あのときほど母が憎く思えたことはない。つまり、自分が兄から性的虐待を受け続けたのは自分が悪かったのだ、自分がいい子にしてなかったからいけなかったのだ、そう言われたも同然だったのです。母親は昔のことなど忘れてしまったのだろうか、それとも私が幼いのを幸い、事の重大さを悟ることなく忘れてしまうことを願っていたのだろうか。私は一日たりとも忘れたことはないのに、そう言っています。母親の無責任な言葉は渡部さんにとってあまりに痛烈でした。なるべく母への憎しみを忘れるよう努めて生活していた渡部さんの心労を根本から否定した。女性の隙を責めることでいくらか暴行犯をかばう発言ととられて仕方ないのですが、それはすなわち母親が渡部さんよりもお兄さんをかばったという印象に直結します。後ほどお話しますが、渡部さんは兄と自分が何かにつけ区別され、兄の方が時間も金も愛情も注がれて自分は野放しで育ったようなものだというコンプレックスがあり、このときもやはり虐待を受けた自分が責められたかのような苦痛とともに、今なお母は自分よりも兄を大切に思っているのかと言う失望を感じました。話は戻ります。小学校高学年に入り、性教育の時間が設けられたり、ませた子の話を聞いたりするうちに、自分と兄との行為がなんなのかを理解し始めます。この辺りから、黒い塊が形成されていくのです。思春期の教育ですから、愛し合った男女は結婚し、いずれ子どもができるという王道のプロセスのみを習います。愛がなければそういうことをしてはいけない、ふしだらだ、男女の結びつきはとても尊いと。そして、彼女は自分の体がとても汚らわしく思うようになります。いっそ死んでしまいたいとも考えます。その頃の感覚は正確には自殺願望とはちょっと違って、自分が存在することを恥じて消えてしまいたいという欲求です。知識が増すにつれ、自分の体が汚れているという思いはますます募り、自分など一生結婚できないと好きな男の子との結婚を夢見る少女時代に早々に別れを告げます。そして誰かを好きになることすらしなくなっていきます。好きになると、その人に対して自分の汚れた体が恥ずかしいから、振り向いてもらう価値のない自分が悲しいから純粋に心から誰かを好きになることはないし、しないと決めて、楽しい恋愛を知らずに思春期を過ごしました。レイプ被害を受けた女性には時折あることなのですが、レイプをきっかけに男性関係が一気に乱れる例があります。レイプで汚された自分の体を愛することができなくなるのですが、残念ながら、渡部さんもそのタイプでした。そして、自分の意思と無関係に兄から一方的に汚されただけでなく、今は自分の意思でますます自分の体を汚している、今はもう心もすっかり汚れきってしまったのだ。黒い塊が私の薄暗い感情を吸ってどんどん成長する、と汚れの思想を深め、心の闇と親しんでいきます。ただひとつ、渡部さんが守り通した大切なものがあります。兄からの性的虐待が十一歳の頃を境になくなったのは、ひとつには渡部さん自身が成長して防御を身につけたこともありますが、もうひとつ、あくまで渡部さんの推測ですが、その頃に兄は他に女ができ、もはや性的な関心や欲望を妹で満たさなくとも良くなったのだろうと。その根拠として、兄は自分に兄弟以上の特別な愛情を持っていたわけではなく、あくまで身近に転がっていた女の体でしかなかった、はけ口でしかなかった。なぜなら兄は決して口づけはしなかった。セックス産業という言葉があるとおり肉体は売り物になるけれど、キスだけを許す商売なんて聞いたことがない。兄もまた、肉体にしか興味がなかった。渡部さんにとって最も大切な愛情表現だから口づけだけは愛情のない人には許さないできたそうです。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
**ランキング参加中**
NEWVELに投票
ブログにて更新情報を掲載しています。
不透明人間
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ