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約束の日、十八時少し前に真由にもらった地図どおり行くと七階建てのビルの四階にまつうら心療内科の看板はあった。地図の端っこには真由の勤める神戸海原病院が載っているのはどうやらすぐ近くらしい。二年前、自分が入院して彼女と知り合った運命の場所に、今度は彼女の正体を知るために再び立っている不思議さに捕らわれて有薗は周囲をぐるりと見渡したが、ビルやマンションが邪魔をするのか、病院は見つけられなかった。今頃彼女は病院にいるのか、また遅くまでせっせと仕事に励んでいるのだろうかとしばし真由に思いを馳せた。エレベーターを降りるとすぐに「まつうら心療内科」と書かれた木のプレートのぶら下がったドアがあり、開けるとそこは小さな待合室で、いたるところに置かれた観葉植物の緑がむっとするほどである。受付で「木下さんにお会いしたいのですが」と訊ねると受付の女性二人は顔を見合わせ「来た」という風に目配せし、片方が「お名前は?」と確認した。名を告げると「渡部さんのお知り合いの方ですね。こちらへどうぞ」と短い廊下を案内された。案内した女性がドアをノックし、中へ「有薗さんがお見えになりました」と控えめな声で知らせると、中から「どうぞ」という男の声がした。有薗が部屋の中へ入ると女性はドアを閉めて去った。「どうぞおかけになってください」白衣を着た、自分と同じ歳頃と思われる男性にゆったりと大きなチェアを勧められ、彼と向き合う形になった。部屋には香が焚き染められ、ここも観葉植物がふんだんに置かれている。「わざわざ東京からいらっしゃったそうですね」とまず遠方からの来訪をねぎらわれたが、有薗は結論を急くのか「真由さんの一番の友人だと聞いています」と白衣の男を見た。「友人?そんなことは言っていないと思いますよ」男はやや怪訝な顔をする。「一番自分をよく知る人だと」「そうですか、そういう風に聞いて来られたんですか」と言ってからちょっと考えて「一番知っているというのはおそらく事実ですが、友人ではありません」ときっぱりと友人関係を否定した。一番よく知っていると言いながら友達ではないとは、ずいぶん冷たい男だと有薗は妙な不信を覚えた。真由からこのクリニックを知らされたとき、有薗は勝手に真由の医学部時代の親友か何かだろうと思った。今も白衣を着ているせいで、その男を医師だと思い込んでいる。医学部には時折、年をとってからにわかに医者を目指して入学する者がいるから真由のように大卒という経歴は決して珍しくなく、真由でさえ平均年齢かやや上程度なのだと聞いたことがあるからなおさらである。有薗の戸惑いを見透かしたように男は「臨床心理士 木下」と書かれた名札を示しながら真由との関係を告げた。「僕はカウンセラーで、彼女は患者です」真由が、患者?カウンセラー?どういうことだ、と有薗の戸惑いはますます深まる。「本当に何もお聞きになってないんですね。僕もただ、知る限りなんでも喋ってくれていいと主治医の松浦先生から言われているだけで。本当ならご家族以外、診療に関しては一切お話できないのですが渡部さんがどうしてもとおっしゃるので仕方なく」木下の言葉と表情に若干の気の毒そうな憐れみが含まれているのを有薗は感じ取った。何も覚悟をせずに聞ける話ではないと木下は暗に仄めかしているような気がする。「ここは心療内科でしょう?彼女がここの患者って、どこが悪くて?」「その名のとおり、心療内科にかかっていらっしゃるんですよ。一応、カルテの上ではうつ病ということになっています」「うつ病」半ば呆然としたように有薗は木下の発した病名を繰り返す。「そこにはこだわらない方がいいですよ、渡部さんの場合典型的なうつ病とは様相が違いますから」「うつ病ってあれでしょう、どうしようもなく憂鬱で、時には自殺してしまうような」「あながち間違った認識ではありません。渡部さんにも自分で止められない憂鬱の波はありますし、自殺願望、希死念慮と言いますが、それも強くあります」「自殺願望があるんですか?」ごく当たり前のように木下の口から発せられる言葉に有薗はぎょっとした。「いつも死の誘惑と隣合わせと言っていいでしょう。確実に死ぬための手段を綿密に組んだ計画書を、今も持っているはずです。そこまで思いつめた過去もまた自分の姿のひとつに違いないから、と。ただしそんな願望があることに気付かなかったことは悔やまないでください。彼女が絶対に気取られないようにしているんです」「毎週ここへ通っているんですか?」「隔週です。再来週もこの時間に予約を取ってあります」「いつ頃から?」「初めてここへ来たのは二十一歳のときです」「そんなに?」「ただし、医学部に行っていた六年間はカウンセリングは中断しています。岡山で薬物療法のみ続けていました」「薬も飲んでいるんですか?」「抗うつ薬と睡眠導入剤が主です。薬や治療については、僕よりも松浦先生に聞いてください」「どうして彼女がうつ病になったんですか?なぜそんなに何年も治療を続けているのに治らないんですか?」有薗はつい熱くなって木下に詰め寄らんばかりの勢いだったが、木下はしごく落ち着き払っている。「先ほども申しましたが、うつ病ということにはこだわらないでください。もともと深い悩みがあって、人一倍心がもろく、生への執着が希薄なのです。そこへストレスが積もって耐えられなくなって、ようやくここを訪れました。直接のきっかけは、当時アルバイトしていたところでのいじめです。バイト先にずいぶん気の強い人がいて、とにかくいじめぬかれたようです。かばってくれる人もなく、誰にも相談できず、心配をかけたくないからと母親にも相談せず、ためこんでためこんで、堰が切れました。アル中の二、三歩手前、くらいの状態でした」「お母さんはまだ存命だったんですか」「母親は彼女が二十六のときに亡くなりました。カウンセリングを中断していた時期なのでその頃のことは直接は見ていません。ただ、かなり落ち込んで大きな憂鬱の波に襲われたようです」「唯一の家族だったから」「それもあります。一方で、彼女は母親を憎んでいました」「え?」「憎んでいた自分を、母親が亡くなったとき責めました。最後まで許せなかった自分はなんと親不孝なのかと。毎週末岡山から神戸へ戻って精一杯看病し、最期も看取ったそうなので決して親不孝ではないと思いますが、彼女は、母親を憎んでいた自分を、憎んだ。憎しみは何も生み出さない、と葛藤しながら」「憎むなんて、どうして?彼女は人を憎んだりするようには見えない。まして自分の母親を。何度かお母さんの話は聞きましたが、いつも楽しそうに振り返っていました」「誤解してないでください、母親のことは大好きなんですよ、それでもどうしようもなく消せない憎しみもまたあったのです。でも彼女が憎んでいる人物はほかにもいます。彼女のお兄さんです」「お兄さん?彼女は一人っこです」「いいえ、六つ上のお兄さんがいます」「自分を天涯孤独だと言ってた」「お兄さんがいることを知っているのは、本当に昔から彼女を知っている友人と、親戚くらいのものでしょう。彼女は兄の存在を決して人には話しません」「知らなかった」半ば呆然とする有薗に木下は柔らかな口調で「無理もないでしょう、渡部さん自身が徹底的に隠し通すのですから。一人っ子の演技ならアカデミー賞が取れるかもしれませんよ」と冗談を交えてなぐさめたが、続けて「彼女自身、お兄さんの存在を消し去りたいのです。でも殺してもなお憎しみは残る、あんな奴のために服役するなど馬鹿馬鹿しいから殺さないだけだとまで言っています」とやはり有薗を驚かせるに充分な真由の憎しみについて言及した。「そんなに?」と言ったきり有薗は絶句した。殺してもなお満足ゆかぬほどの憎しみというのが想像もつかない。「ちなみにそのお兄さんは、渡部さんが高校生のときに家を飛び出して以来行方不明で、今は、生きているのかどうかすら知らないそうです。母親が亡くなったときにも探そうとした親戚を必死で止めたそうです」「母、兄。血のつながる家族を、そんなにも憎めるものでしょうか?」「家族だからこそかもしれませんよ」有薗は頭の整理が追いつかない。しかしここは必死に追いすがるしかない。本当の真由というのが見え始めている気がする。これまでの話だけでも有薗の知る快活な真由の顔を否定し覆すに充分だが、憎しみだの深い悩みだのの裏づけがまだない。真相はこれからなのだ、ここで逃げ出すわけにはいかぬ。
「有薗さん、今日はどうして神戸までいらしたんですか?」と突然話題を転じられて有薗は一瞬言葉を失ったが、正直に答えた。「本当の真由さんを知るためです」「本当の?じゃああなたがご存知の渡部さんは偽りですか?」「そんな筈はない。彼女は明るい自分を装っていると言うけど、僕にはとてもそうは思えない。どちらかと言うと・・・」適当な言葉が見つからず続きを探っている有薗に、木下の声が「どちらかと言うと?」と促すように追いかけてくる。「天真爛漫な人だと思います。なのに、何かがふっと邪魔をしている。その邪魔者を、真由さんは本当の自分だと言っているような」自分の中でくすぶる違和感をうまく言葉にできないことに有薗は苛立たしい思いがした。「本当の渡部さんというのを知ってどうするんです?」「何も始まらないから」「ゆっくり時間をかけて自力で知っていこうとは思いませんか?」「できるならそうしたい。でも彼女がそれを拒絶する。本当の自分を知らないからと言って僕を遠ざけようとする。知れば近づけるなら、僕は知りたい、知るしかない」「もし本当の渡部さんというのが、あなたの思う人と大きく違っていたら渡部さんを嫌いになるんでしょうか?」「そんなもの、わからない」嫌いにならないなどと綺麗ごとを言わぬ有薗に木下が微かに笑った。「渡部さんがあなたのことを、とても正直な人だと言っていました」
木下は、真由の主治医である松浦から「有薗という男に何もかも話してやってくれ」と言われたとき、反対した。いつかは話すときがくるとしても、時間をかけるべきだ。性急すぎる、と。しかし真由はこれ以上有薗という男に深入りすることを諦めている、今諦めさせちゃいけない、と松浦に説得された。それでもまだ、木下は迷っていた。しかし当人と話してみるとなるほど真由の形容したとおり正直そうな男だし、何より真由を天真爛漫と見ているのが好もしい。木下も常々、真由を、本来は天真爛漫な人だ、そこに気付かせてやりたいし伸ばしてやりたいと考えていた。大きく暗い影を落としている過去を払拭することはできなくてもせめて影を薄くして、なんとか本来の姿に戻してやりたいと。この男は真由の本来の朗らかさと、それを邪魔している闇との葛藤に知らず知らず気付き、歯がゆくじている。信頼に足る。そう直感した。
木下は机上の時計を指した。すでに有薗がこの部屋へ案内されてから十分少々経っている。「有薗さん、カウンセリングの時間は限られています。僕の方から時系列に沿って知る限りの事実をお話しますから、疑問があればそのとき質問してください。そういう進め方でいいでしょうか。途中、もしそれ以上聞きたくないと思えば、そうおっしゃってください。そこで話は切り上げます」「そんなに辛い話がありますか?」「さあどうでしょう、あなたがどう受け止めるかは僕にはわかりません。僕はカウンセラーとして彼女から聞いた事実を述べるだけです。それ以上でもそれ以下でもありません」「わかりました」有薗は居住まいを正して気を引き締めた。その様子を見、木下も覚悟を決めて話し始めた。




