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透明の向こう側  作者:
102/115

102

 話は少し遡る。

 六月の末に突然真由から「もう会わない」と言われた有薗は最初、かつての彼女の言葉通り「ゲームに飽きたから終了」なのだと思った。それにしてはその前夜、ピアノをちょっと弾いてやっただけで大喜びし、土産の人形を嬉しそうに眺めていた。あれが果たして飽きた男に対する態度かと腑に落ちない。どうもしっくりこない。考えに考え、ようやく「まさか」の思いとともに「どちらかが本気になったときはゲームセット」の言葉と駅で告げられた「完敗です」の言葉が結びつき始めた。ゲームに飽きたのなら、彼女は敗れてはいない。負けたと言う以上、彼女は本気になってしまったということか。何より、いつまでも彼女にこだわる自分の未練がましさが不思議だった。

 有薗は元来肉欲の強い男ではない。異性にも同性にも関心を持つ割に肉欲を伴わないから、ただの友達という付き合いの人間は大勢いる。仕事の付き合いで飲み屋に行っても、いくら勧められても滅多に女性をお持ち帰りするような真似はしないしたまに見せかけでそんな振りをしても店を出ると適当にチップを渡して別れてしまう。と言って恋人に操を立てているわけでもなんでもなく、気が向けば一夜限りの使い捨ての恋を弄ぶこともある。関係者の目をくらますのは、ただ単に後になって「あの娘どうだった?」などと下世話なことを言われるのが性に合わないからだ。有薗の冷たいところは、他人の香水の匂いをぷんとさせながら恋人とも平気で会うような無神経さだ。しかも問い詰められれば正直に「寝た」と答える。恋人に対して独占欲も嫉妬も見せない。そんな風だから特定の恋人と長続きしたためしがないし、有薗も無理に関係を維持しようとしない。恋人に対して潔癖でない一方で、真由のように肉体関係を伴いながらもごく自然に友達でもあるという付き合いもまた、珍しい。

 気が向けば抱けるし、恋人面もしない。都合のいい女だから惜しいのか?

 とてもそんなものじゃない。

 無性に真由に会いたかった。声を聞き、笑顔を見、肌に触れたかった。

 どうやら真由はゲームに本気になってしまったらしい。そして、どうも自分もゲームどころではなくなっている。

 そう気付いた有薗が、タケシに別れを切り出したのは七月の終わり頃だった。

 タケシは有薗の言動に不信など抱いておらず、まさに青天の霹靂といった驚きだった。

「どうして?」と問い返すタケシの声は少し震えている。「好きな人ができた」と有薗は正直に答えた。さすがに五年以上も連れ添った恋人に対して申し訳なさを感じる。自分勝手だと我ながら呆れる思いさえする。「その人と付き合うの?」と訊かれてもやはり正直に「わからない」と答えた。「その人が俺をどう思っているかは、はっきりとは知らない」「うまくいかない可能性もある?」「大いに」「じゃあ俺と慌てて別れなくてもいいじゃないか」新たな関係が築けると決定しているのでないならまだ自分への好意が残っている、それにすがる思いでタケシが提案しても「そんなわけにはいかない」と有薗はばっさりと可能性を切り捨てた。真由とうまくいかなければタケシの元へ戻るなど、虫が良すぎる。そんな不誠実は許しがたい。きっぱりとタケシとは切れなければ、真由に会いにいけない。自身の周辺を清潔にしてしまわねば真由への連絡も一切しない、それくらい有薗は思いつめている。結局その日はろくな話にならず、最後にはタケシに追い出されるようにマンションを後にした。

 電話で話しても直接会っても、タケシは別れ話など聞いてもいないという風にまるで今までどおり有薗に接しようとし、いざ話を切り出そうとするとさりげなく電話を切ったりして逸らしてしまいまったく聞く耳を持たぬ。それが有薗にはますます辛かった。先延ばしにしても結論は同じだ、そう思ってもそこまでは言葉にできずにいた。ある日、ともに初めての店で夕食を摂った際にタケシが「また来よう、いい店だね」と何気なく言ったときすかさず有薗は「すまないが、次はないんだ」と今度こそタケシのわずかな希望を断ち切った。しかしタケシは一瞬失意の表情を浮かべただけでやはり別れに対して了承の返事を寄越さなかった。

 ところがその日以来、有薗が何度電話しようと、マンションを訪ねようと、タケシはまったく応じなくなってしまった。留守番電話に伝言を残しても折り返してかかってこない。さすがに心配になり、思い切ってタケシの職場に電話をしてみると「夏休みをとっています」と言う。根気よくタケシのマンションに日参を続けること数日、ようやくドアが開いた。「急な出張だったんだ」と少しおもやつれした中に精一杯の微笑を浮かべる。「会社には夏休みだと聞いたぞ」「会社に電話したの?」驚きと少々の嬉しさにぎょっとしたようにタケシは有薗を見つめた。「そんなに心配だった?」「当たり前だろう」「むしゃくしゃしたから、街で若い子ひっかけてちょっと小旅行に行ってたんだ」「お前らしくない」「どんな相手だったとか、どんな旅行だったとか、気にならないか?」「・・・悪い」短い言葉にタケシは絶望した。有薗の心配はもはや愛情によるものではなく、憐れみなのだ。「トモはとても優しいけど、冷たい人だ」有薗の目を見つめるタケシはかすかに笑みを浮かべているが隠しようもなく悲しみに溢れていた。「自覚はあるのか?」と問われて「多少はね」と応じるとタケシはふんと小ばかにしたようにせせら笑った。有薗の冷たさを十とすれば、本人が自覚しているのはせいぜい一か二だ。それくらいあんたは冷たいよ。それでも俺は好きだったんだよ。しかしそれは言葉にはできなかった。視線を有薗の手元に落として「指輪は?」と訊けば「捨てた」と無感情に答える。今にも泣き出しそうになりながら必死にタケシは冷静を保とうと無理やりひきつった笑顔を作ったが、長くは続かなかった。ほろほろと涙がこぼれだした。ぐいと涙をぬぐってからシャツの胸元に手を遣ったかと思うと力任せにネックレスを引きちぎった。それは有薗とのペアリングをチェーンに通したものだった。有薗は右の薬指に律儀にはめていたがタケシは普通のサラリーマンだから意味ありげにこんなリング着けられないよと一緒にチェーンも買って、普段はYシャツとネクタイの下に隠していたのだ。パラパラっとチェーンやパーツが床に散らばり、リングだけがタケシの拳の中に握り締められている。「トモは束縛を嫌うから、こんなペアリング、絶対嫌がると思ったんだ。だから、これが欲しいって言ったとき、トモがいいよって買ってくれて。いつもちゃんと着けてくれてて。俺、目茶苦茶嬉しかった」さめざめと泣きながら独り言のように呟くタケシの姿が痛々しかった。

「好きな人ってどんな人?男、女?何歳?何をやってる人?どうやって知り合ったの?いつ頃から?どんなところが好きなの?」答えなど望んではいない疑問を次々とタケシは吐き捨てた。有薗はただ無言で応える。覚えているかどうかはともかく、お前も会ったことのある人だ、神戸で世話になって、お前も礼を言ったあの女医だと教えるのもさすがに酷な気がして答えられない。タケシの質問攻めが単純な疑問から湧いたものではなく、今まで我慢しとおした嫉妬が破裂した結果だということもおぼろげに理解できるからなおさらだ。はっとしたように何かに気付いたタケシは恐る恐る、言葉を足した。「もしかしてその人は、トモの部屋へ入った第二号?」「そうだ」「信頼されてるんだね、その人」タケシの言葉に有薗が驚いた。信頼?自分でもずっと疑問だった。誰にも足を踏み込ませなかった自分の巣へ、なぜ真由がああもやすやすと入り込んできたのか。信頼。その言葉はひとつの正解のようでもあり、まだ物足りない気もする。しかしタケシにはもう十分すぎた。何年付き合っていても自分にはついに許されなかった有薗の巣への招待を、いともたやすくなしとげた人間がいる。かなわない、もう絶対的に別れは覆らないのだと知ったタケシはもはや有薗と目を合わそうともせず、涙をこらえようともせず、最後にひとつだけ、と言って問うた。「トモは俺のこと、一度でも好きだったことある?」

 有薗は、自分の答えがどれほど残酷なまでに鋭利な刃となるかを判りながらも、正直であることを選んだ。

「今も、好きだよ」

 好きだと言いながらも絶望の淵へ突き放つ。浮気を繰り返すことでも、俺に無関心なことでもなく、あなたの一番冷たいところだ・・・。有薗が去った玄関に、タケシは突っ伏して声を出して泣いた。わあわあと泣いた。もう二度と愛しいあの人がここへ来ることはないのだとこみあげる悲しさに、ひたすら泣き続けた。


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