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しばらく放心の真由は身動きすることもできなかったが、どれくらいの時間、有薗に抱きしめられていたのか、そっと自分の両手を彼の背中に回した。二人はしばらく声も出さず、ただただ抱きしめ合っていた。これは夢ではなかろうか。目を開ければ、夢は醒めてしまうのではないだろうか・・・。
しかし、一度は楽園に向かって開放された真由の心の扉はしばしの夢を垣間見せたのみであっけなく閉じられてしまい、暗い奈落への扉を全開にしてしまった。真由の心の闇は、彼女に幸せな夢を長く見せることなど許しはしないのだ。真由の心のめまぐるしい変化に有薗は気づかない。こんなに近くで抱きしめあっていても悟られないほどに、真由の心は闇に堕ちてゆくことに慣れっこになっている。
有薗は真由の隣に並んで座った。「ゲームに負けたのは僕の方だ。初めて病院のベッドで目覚めた朝、笑顔で颯爽と現れた君、病院を探検するんだと僕の手を取ってくれた闊達な君、編み物が得意だなんてとぼけたことを言って、それに気付いて慌てふためく君。入院は考えるための時間だと発想の転換を図ってくれた君。たった数日間でも、挙げればきりがないほど、君の表情はくるくる変わって、おもしろくて優しくて頼もしくて。僕は入院がちっとも苦にならなかった。みんな覚えてるよ。とても感謝してる。だから復帰ライブを見て欲しい一心で東京のチケットを送りつけた。そして君は来てくれた。あの頃からもう、僕は君に惹かていたんだ」「それはみんな医者として作ってる顔」「作りものなら僕はとっくに見破って飽きてた筈だ。でも、そうじゃない。僕は君に会いたかったし、会えばとても楽しかった。ゲームセットと言われてから、ずっと君のことを考えてた。もう会えないのかと思うとそれはとても我慢できそうになかった。楽しい声を聞きたい。笑顔を見たい。君が思ってる以上に、僕の心の大部分を君は独り占めしてるよ」有薗の熱い告白に対し真由は悲しいほど冷静だった。「私も、入院してた頃のあなたを覚えています。物腰が柔らかくて態度はまじめで、でもどこかちゃめっけがあって。JAMANIAのSONOだとわかってからも気さくに付き合ってくれて、楽しい時間をいっぱい過ごしました。言葉で言い切れないほど、私、楽しかった。幸せだった」「だった?過去形にしちゃうの?」さすがに有薗も真由の言葉が冷たさを帯びていることに気付かないわけにはいかない。どうして?君がゲームに本気になってしまったように、僕も本気だった。なぜ関係を終わらせようとする?「お願い。私のことはどうか、記憶から消してしまって」真由は精一杯沈着を保ちながら、懇願するように言葉を振り絞った。私のことなどきれいさっぱり忘れ去って欲しい。記憶の一切合財を消去してしまって。本気でそう願った。「勝手に終わらせるな!」思いがけない有薗の強い語気に驚いてはっとしたように真由は彼を見つめた。彼女の肩に手をかけ、がっと掴むと有薗もまた、正面から真由を見据えた。「終わらせないでくれ。お遊びのゲームなら終わりにしよう。同意する。でも、これから、新しく始めよう、ゲームなんかじゃない、本気だ」「ごめん、ソノさん」「ごめんってどういうこと?」「私、ソノさんとはお付き合いできない」「どうして。僕のこと嫌いになった?」ううん、と横に首を振る彼女の顔は、今まで見たどんな表情よりも悲しかった。どこまでもどこまでも果てしない悲しさばかりを感じさせた。何が彼女にこんな表情をさせるのか。時折ふと見せる彼女の一面。彼女はいったい心に何を抱えているのか。悲しい顔を見るのが辛くて、有薗は真由の体を自分に引き寄せて抱きしめた。「『父親』を読んだよ」「遠藤周作?」「そう。君が泣いたって言ってた。読んで、君のことを思った。誰もが当たり前のように享受しているこんな愛を、君は知らないのだと思うとせつなかった」「それが今何か関係あるの?」「君はきっと、愛されることに慣れてないんだと思った。そして君自身も、人を愛することに怯えている気がする」「そうかな」「僕は、君を愛したい。君にも、思い切って飛び込んできて欲しいというのは勝手だろうか」「無理」「どうして?」「ソノさんは、本当の私を知らない」「本当の君?」「言ったでしょう、優しくて明るい私なんて、所詮作り物」「そうかな、そうは思えないけど」「私は本当はとても冷たくて無感動な人間」「とてもそんな風には思えない」悪女を振舞うかのように真由はかすかに口角をあげて笑いながら一言「騙されてるねん」と呟いた。「よく笑ってた。いつも朗らかだった。無邪気に清水のスティックが欲しいと言って僕を笑わせた。あれは全部嘘?」「そういうお面を被ってるの」「僕の下手くそなピアノに感動してくれた。あれも嘘?」「・・・」「さっきの涙も嘘?」「・・・」「君は嘘が下手だな」下手すぎるよ、と繰り返しながら真由を抱きしめる腕に力が入る。ぎゅっと抱きしめられて、真由はその腕の強さに驚いていた。『愛』、あの曲のとおり、この人は愛に溢れていて、そしてとても激しいのだと心の奥底で感じた。とてもまっすぐだ。その愛の対象が今、ほかならぬ自分であることが嬉しくてたまらないのに、素直に彼の胸に甘えることができないことがそれ以上に苦しかった。こんなときでも、心の中の冷たく黒い塊が真由の中でじっとりとその表面を光らせて横たわっている。長年抱え続けてすっかり慣れているはずの真由が怯えるほどに、黒い塊はお前は幸せになることなどできないぞと無言で圧力をかけてくる。「ごめん。ソノさんごめん」「謝らないで。謝らないで、ただ素直になってみて?」「ごめん。私はソノさんにふさわしくない。私なんて、ソノさんに愛される価値はないの」「ふさわしいって何?価値って何?僕は君が好きだ、それだけじゃ駄目なの?僕なんて高卒で音楽取り上げられたら何も残らない馬鹿だ、人の気持ちにも鈍感な大馬鹿野郎だ。背も高くないし顔も良くないし自分勝手だし悪いところなんていっぱいある、いいや、悪いとこだらけだ。僕の方こそ君にふさわしくない。だけど僕は君が好きだ。それがいけないことか?」思いがけない有薗の激しい一面に、真由は驚きながら、と同時に自分が彼の情熱に反比例するようにますます醒めていくのを禁じえなかった。「ソノさんは素敵な人だよ。だからこそ、私なんかよりずっとふさわしい人がいる。私は駄目。私なんて駄目なの」「なんだよそれ」頑なで理解不能な真由の言動に有薗の声には不満と呆れといくらかの怒りと焦燥と、様々な感情が含まれている。それがますます真由には苦しく「ごめん」と思い切って彼の腕を振りほどくと部屋を飛び出した。




