出会いの形
「本当に……これで良かったのか?」
暗い静寂が支配する部屋の中、俺は包丁を握り締めながら自問自答の様に隣に座る彼女に問いかけた。
彼女は壁に寄りかかりながら黙ったままだ。少しも反応してくれない。何故こんな事になったのか、答えてはくれない。ただ窓から覗く半月が彼女の華奢な脚を朧げに照らすだけだ。
「冷たい奴だな。まあ、今日は少し寒いもんな」
夏だというのに自分の脚の感覚が麻痺している、そう感じる程に肌寒い。
彼女の顔を覗くと、その整った顔は普段よりも青白くなっているように見える。
「こうすればマシだろ」
彼女の小さな肩を優しく抱き寄せる。するとポニーテールを揺らしながら力なく顔が肩にのる。
彼女の顔も冷たい。けれど不思議と不快感は無く、その冷たさは心地よく感じた。
「あの日も嫌ではなかったな……」
彼女と再会したあの日、あれから始まった二人の歪な関係も今日で終わりを告げる。そう思うとあれだけ酷かった出会いも少しは脚色されるというものだ。自然と笑みが溢れる。
「俺も少し、眠くなってきたな……」
瞼が次第に重くなって、手足の感覚も無くなってくる。眠気に身を任せ、少しずつ薄れていく意識の中で再会したあの日の事を思い出していく。
▽ ▽ ▽
人は相手によってレッテルを貼る。
『この人は優しい』
そう思われてしまうと優しいのだと期待される。
何故そんな重圧をかけてくるのか?それは人が集団で生きていく中で相手を理解する為に必要であるからだ。
人は未知なものに触れる事を恐れる事が多い。だからこそ理解しようとする。その時に相手の事を抽象化して捉える事で相手を理解した気にする。こうする事で相手と話す時に多少なりとも安心感を得る事ができるからだ。
しかし、皮肉な事にこれは自分と相手で格差が生まれる。人は自身の内側に様々な人格や気持ちが共存している。その為、相手からレッテルを貼られる事で当てはまらない物が生まれる。理解して貰えない部分が生まれるという事だ。
つまり理解しようとレッテルを貼る事は、相手からは自分の事を理解して貰えていないのだと感じさせるのだ。
人間が1人で生きていけるならば無理をする必要もないだろうが、残念な事に1人で生きていくことは相当困難だ。ならば自分に出来る限りで相手の思っている【自分】という役を演じる事が重要になってくる。
つまり何が言いたいかというと【期待の新人君】というレッテルの重圧は酷い。
「中村さん、呼ばれてますよ?」
「えっ?」
春も終わりが近づき、覚えたての仕事からくる憂鬱さに考え事をしながら気を紛らわせる様に作業していた自分を呼ぶ声に我に返る。文字を淡々と映し続けるPCとデスクに無造作に置かれた資料の束から目を離して、声のした隣のデスクを見ると顔だけを此方に出している男がいた。
背は俺とほぼ同じで黒髪のショートヘア、目は細めで男から見ても普通に整った良い顔をしているのは、同期で歳は1つ下の桂木隆だ。
「さっきから岸田先輩がそろそろ資料見せに来いって言ってますよ?」
中村はチェックするから後で来いと言われていたのを失念していた。
「あぁ、ありがとう。行ってくるよ」
仕事に就いたというのにまだ緊張感の無い自分を反省させる為に俺は自身の顔を叩く。そして先輩を待たせてしまった罪悪感から、少し足早に向かった。
▽ ▽ ▽
俺は電化製品で勢いを増している中小企業の正社員をしている。所謂サラリーマンだ。その中でもまだ社畜とは何たるかを理解しきれていない新人である。いや、理解はしたくないが。
オフィスもそれなりに広く、この経理担当の部署で日々頑張っている。そしてオフィスの中でも少し目立つ、ガンプラが飾ってあるデスクに到着する。
「すいません、岸田先輩。提出遅れました……」
「俺の存在を忘れていた以外の答えだったら許してやるよ」
そうニヤニヤして顎髭を触りながら応えるのは岸田俊吾先輩だ。
俺と桂木が新人の為、俺達の仕事内容を確認してくれている。普段はマイペースで優柔不断だが、流石は社会人というか、公私はしっかりと分けていて仕事中は割と真面目にしている。
余談だが、自称ムードメーカーと名乗っているが女性からは少し距離を置かれている事に気づいていない。理由としてはムードを変えようとして結果的にぶち壊すからだ。
「本当に遅れてたって部分もありますけどね」
「遠回しに忘れてたって認めてるよな?まあ素直でよろしい。堅苦しいのは無しの方が俺も楽だ。桂木もお前も俺のことは敬意を持って岸田さんと呼べ」
先輩、もとい岸田さんはそう言って俺の資料に目を通した。まあ、本人が言うんだったらこれからは岸田さんと呼ばせてもらおう。
「流石、期待の新人君だな。ミスは少ないし、後は俺が少し修正しておく」
正直言って全然出来ていないが岸田さんはやる気を出させる為にもこんなことを言ってくれる。けれど教わったばかりというのは仕事をしている上で言い訳には出来ない。頑張らなくては……
「ありがとうございます。もう少し頑張ります」
「あぁ〜頑張ってくれるのは良いことだが、あまり1人でやり過ぎるなよ?桂木と上手く分担してやれ。別に俺ら上司に甘えたって怒らないしな」
「岸田さんにはわざわざチェックしてもらっていますし、桂木ともちゃんと分担しています。大丈夫ですよ」
そう言うと岸田さんは顔をしかめて頭を搔いた。
「本当かぁ〜?役割分担ってかなり重要だぞ?まあ経験が必要か、無理せず頑張れよ」
岸田さんは俺に次の指示を出す為に資料を漁っているがこの散らばった紙の山から探し出すのは一苦労しそうだ。
「中村、すまんが探している間にいつものコーヒーを買ってきてくれ」
「え、あっはい。了解です」
なるほど役割分担って俺がパシリって意味で教えてるんですね。心の中で毒づいた。
岸田さんの少し焦りのある声を聞きながら俺はオフィスを後にした。
▽ ▽ ▽
ビルの中には休憩スペースがあり、そこには自動販売機と簡易な喫煙所と申し訳程度の観葉植物が規則的に置かれている。自販機の中が栄養ドリンクとコーヒーの多い理由を最近理解した中村である。
会社の部署はまあまあ多いという事もあって人が多かったりするが今は少ないようだ。
(岸田さんと俺のと、桂木にもなんか買ってやるか)
3人分のコーヒーを買ってオフィスへと戻ろうと自販機から振り返ると同い年くらいの女性が後ろに立っていた。
俺の口元辺りに頭がくるくらいの身長で華奢な体をしている。おとなしそうな顔で目が細く「ジト目」という感じだ。普通に整った顔立ちと言えるだろう。石鹸の様な爽やかな香りの綺麗な黒髪はポニーテールにしている。残念な事に胸部装甲は紙のようだ。いや、別に悪いとは言ってない
そんな彼女は真顔で俺の顔を見上げていた。その目は少し怒りを宿しているかの様に見える。
(は、早く買いたいのに邪魔ってことかな?)
苦笑いしながら、俺は右にズレる。
彼女はじっと見ながら右にズレる。
(合わせてるってわけじゃないよな?)
仕方ないので俺は左にズレる。
彼女は俺に伴って左にズレる。
「すいません、すぐに退きますね?」
埒があかない判断した俺はそう言ってコーヒーを右に抱えて左側に手を出しながら通ろうとすると彼女は俺の左手をーー
叩き落とした。
左手と思考に衝撃が走る。それと同時に頭がフル回転を始めて何故こんな事をされたのか考えるが案の定何も出てこない。
というか女子から暴力振るわれたのは初めてだ。それも初対面にやられる人なんていないだろう。
「すいません、止むを得ず手を出してしまいました。そうするしかないと判断したので」
綺麗な声だと思った。その顔に似合った可愛らしくもあり綺麗な声。声は小さいが聞き辛いという事も無く自然と耳に入ってくる。まあ、言っている言葉の意味はわからないけど。
「ど、どうしたんですか?何か失礼なことでもしましたか?」
あくまでも丁寧を心掛けたが、叩かれた左手で彼女の頬を叩きたいのを我慢するかどうかは彼女の返答次第だろう。女性を叩くなって?男女平等の精神に則っているだけだ。
「実は今日財布を忘れてしまいまして、飲み物を我慢しようと決めていたのですが無理でした」
真顔で真面目そうな顔をしといて財布忘れたとか言われたら少し面白いな。仕方ないから叩いたことについては許そう。
「お金を貸せばいいんですね?」
「いきなりすいません、倍にして返すので」
100円程度を倍にして返してもらわなくてもいいけどね。
「さっきのすいませんは叩いたことの二重の意味がありますので」
何故かドヤ顔っぽい顔になった。少し子供っぽかった顔が更に強くなり、背と相まって中学生くらいに見える。余計にイラっとして眉間にシワがよる。
「そ、そうですか。別に叩かなくても良かったんじゃないかなとか思ってるんですけど、あははは……」
あまりにも躊躇がなかったからなんとも思ってなかったのかと思ったが、あくまでも冗談ぽく言ってみる。
「我慢しようと決めていたのに目の前でコーヒーを3本も買われたので流石にイラッとしまして」
危なかった。もしさっきの真顔で財布忘れたカミングアウトが無ければ今頃往復ビンタは確実だった。
「は、はぁ。まあいいですけど……200円で足りますよね?」
「あなたは私に200円だけで今日を乗り切れという鬼畜なのですか?」
あれ、俺達は親友とかだっけ?初対面だよね?図々し過ぎない?
「……分かりました。2000円渡しますので、絶対に返して下さいね?」
「この世に絶対なんて存在しないですが、仕方ないですね。返してあげましょう」
「君は借りてる立場だってわかってる?」
「人を馬鹿にするなんて酷い人ですね。それくらいわかっています。明日2000円返してあげます」
倍にして返すとか言った期待も返してくれ。分かってたけどさ……
中村は財布から少し躊躇いながらもなんとか2000円を取り出して彼女に手渡しする。考えてみると、返してもらうにしても名前も知らないし、部署も知らない。
「えっと、どこの部署なんですか?俺は経理担当の中村優人です」
「私は広告担当の中里彩音です」
中里……何故かその名前に引っかかりを感じた。聞いた事があるような気がするが、関係ない人だろう。
「じゃあ、行くんで。また明日」
「はい、また明日です」
それが俺達の出会いだった。いや、正確には『再開』だった。
けれどこの頃の俺は引っ掛かりを感じるだけで思い出すことも無かった。もし思い出していたならば、もっと違った運命を辿っていたのだろうか……
▽ ▽ ▽
中村がオフィスに戻ったのを確認して彼女はお金を財布へ入れる。忘れたというのは彼と話すための口実だった。
頬に手を当てて表情を確認する。しっかりと無表情を保てていたのか不安に感じたからだ。彼と少し話をしただけで無表情は崩れていた。人とまともな会話をしたのは何時ぶりだろうか、彼女は憶えていない。だから彼の前では少し表情を崩してしまうことがあるかもしれない。少し不安だけど、それよりも彼にまた会いたいと思う方が勝ってしまった。
彼はまだ思い出せていない様だ。ならば気づかれるまでこの【無表情】を演じよう。彼女は心の中で決意する。
「また明日、会おうね。優人君……」
中里は昔の事を思い出しながら、そう呟いて少し笑っていた。
「お前はコーヒーを買いに行くだけなのに迷子にでもなったのか?仕方ない、先輩が優しく丁寧に残業しながら教えてやるよ」
(あいつからも残業代を取ろう…)
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