閑話~公爵子息と眠り姫~
天気の良い昼下がり。俺はいつもの如くヴィッツ伯爵邸を訪れていた。
ルーカスに本を借りるという口実だったが、目当ては他にあった。ルーカスが本を探している隙に俺は彼の妹を探しに行った。つまらない悪戯をしたせいで顔を合わせればすぐに逃げられてしまう。仲直りしたいのに謝るタイミングを完全に逃してしまっていた。
間が悪いのか、運よく捕まえても、いつも邪魔ばかり入るのだ。謝ろうと声をかけたタイミングで他の奴に邪魔されるのなんてしょっちゅうだった。
正直焦っていた。彼女は俺だけをよそよそしく避ける。気を引きたいがために自覚なく馬鹿なことをした過去の自分を激しく責める。最初にもし、カイルのように接していたら今頃はカイルのように歓迎されていたかもしれないのに。
深く溜め息をついた。
「…貴女が何を考えているか大体察しますけど、あり得ませんからね」
俺の考えを読んだらしいドリーがすかさず突っ込みを入れた。
「そんなのわからない」
「わかるんですよ。貴方の怖いお顔にお嬢様は半分怯えてらっしゃるんですから。カイル様とは雲泥の差ですねぇ」
ドリーの無情な宣告に俺は顔を強ばらせた。
「…この顔だけはどうしようもないじゃないか」
自覚はあった。叶うことなら人好きする顔に生まれたかった。できれば彼女好みの顔が良い。柔和な人好きのするカイルの顔を見る度に嫉妬した。
俺が彼女に想いを寄せていることがわかってから友人達には彼女とは似合わないからやめておけと散々にからかわれた。諦めた方が良い、とも。
しかし、ここまで探して見つからないとなると、どこかに隠れているのかもしれない。それに、そろそろルーカスは本を探し当てるだろう。前に来た時に少しでも時間を稼ぎたくて、わざと次に借りる予定の本を見つかりにくい場所に移動した。この作戦にはそろそろ限界があったし、ルーカスは薄々俺の本当の目的に気づいている。そろそろ彼にも話をつけなければならないと改めて思った。
廊下の突き当たりの部屋の扉が少し開いているのに気づいた。そこは長椅子が置いてあり、談話室のような場所だったと記憶している。そっと覗いて見れば、レイチェルが転た寝していた。傍らには本が伏せてあるので、途中で眠くなったのだろうか。
いけないことだとはわかりつつ、中に入って彼女に近づいた。そのまま、そっと彼女の頬に手を伸ばしてつついたが、起きる気配はない。
ドリーの軽蔑するような眼差しを背中に感じながら、俺は隣に静かに腰を下ろした。
彼女が寒そうに身震いしたのを見て、傍にあったブランケットをかけた。それから暫くしげしげと寝顔に見いった。不意に柔らかそうな髪や唇に目が止まり、ごくりと唾を飲み込んだ。
唇にかかった髪をそっと避けてやれば白い額が露になった。気づいたら吸い寄せられるように彼女の額に唇をつけていた。室内はやけに静かでパラパラと風で本のページが捲れる音がやけに大きく聞こえた。
その後、彼女の睫毛が震えたのを見て、心臓が止まりそうになった俺は慌てて唇を離して部屋を出て後ろ手に扉を閉めた。こんな気持ちになったのは初めてで、心臓がばくばくして顔に熱が集中して唇を指でなぞった。
ドリーが責めるようにそんな俺を見た。
いけないことをした自覚はあった。ただ、衝動を押さえられなかった。
「ティル」
「ル…ルーカス?」
いきなり背後から声をかけられて俺はギクリと背筋を凍らせた。さっきの行為を見られただろうか。
本を抱えて無言で佇むルーカスは表面的には普段通りに見えた。
「………レイチェルを好きなのは構わない。が、妹の肌に触れる権利があるのは将来結婚する相手だけだ。こういうことは困る。いくら友人でもだ」
無表情にそう言いながら、彼は俺に本を押しつけた。俺以外の奴が彼女に触れるところを想像して俺は胸が締め付けられるように痛くなった。
「本気じゃないなら妹にはもう構わないでくれ。借りたいものがあるなら学校に持っていくから」
ルーカスはそう言って追い払うように俺の背中を押した。ぽつりと本音が口からこぼれ落ちた。
「…本気なら良いのか?」
ルーカスが大きく目を見開いた。
「好きなんだ。俺以外の奴が彼女に触れるのは我慢ならない。だから正式に婚約を申し込みたい」
「つまり、認めるんだな。お前が本当に借りたかったのは俺の妹だったと」
後ろめたさもあって俺は視線を反らした。
「借りたいんじゃなくて将来的に嫁に貰いたいんだけど…。借りたら返さなきゃならないじゃないか」
後半はぼそぼそと小さな声で言った。
「図々しいな。まぁ、お前が初めてじゃないが。レイチェルは可愛いからな」
「は?」
意外すぎて呆然とした。
「うちに来る野郎はレイチェル目当ても結構いるんだ。カイルは違うけどな。お前で何人目になるか」
「……ちょっと待て。聞いてない!」
本気で焦った。
「うちのレイチェルは可愛い上に大人しいからな。自分に自信がない地味な野郎に好かれやすいんだ」
確かに彼女は控えめで可愛いことを思い出して俺は唸った。と同時に俺以外にも彼女に目をつけていた奴がいたのだと気づき、愕然とした。ライバルはカイルや従兄だけではなかったらしい。
「条件次第では協力を考えても良い。ただし、甲斐性なしに可愛い妹はやれん。妹が好きになった奴なら話は違うが…」
俺は唸った。
「そんなのカイル以外は実質門前払いじゃないか。しかし、その話に二言はないな?」
「ああ。条件次第では、な。後悔して泣くなよ?」
ごきごきと腕を鳴らすルーカスを見て、腕っぷしも条件の一つらしいことに気づいた。
ニヤリとルーカスは俺を軽んじるように笑った。腕には自信はあるらしい。俺がひ弱そうに見えるのもあるのだろう。実戦でやりあったことはないが、それで協力が得られるなら心強いことはないと思った。
何せ、顔を合わせれば逃げられてばかりで話ができないわ、仲良くなる取っ掛かりが掴めない状態で藁にもすがりたい気分だった。
※※※
「熱心なことだな」
長い潜水の後、水面に浮かんだところで呆れたようにザクスに声をかけられた。
「実家ではできないからな」
まずワトソンが許さない。
「泳ぎを覚えたい貴族なんて、君の国では君が初めてじゃないか?ティルは一体どこを目指しているんだ?」
陸に上がるために手をかけて、片手で濡れた前髪をかきあげた。息をついて一気に陸に上がった後、布で濡れた体を拭いた。
「最近、彼女が冒険小説にはまっているらしいんだ。それに、いつか何かの役に立つかもしれない」
彼女を守り、頼られる男になりたかった。だから、なるべく苦手は克服するようにしていた。日々体も鍛えている。
「……その麗しの彼女はフィリアじゃないんだろう?」
「…まぁ」
気まずくて曖昧に笑って誤魔化せば、ザクスは再び呆れたように俺を見た。
「私の婚約者が知れば不実だと罵られるだろうな。婚約者のある身で他の女性に想いを寄せるなど」
返す言葉がない。しかし。
「ザクスも知っているだろう?俺とフィリアの間には最初から何もないし、お互い合意の上だ」
むしろ、お互い迷惑しているのだと言えば、ザクスはからから笑った。
「本当にフィリアと結婚するかもしれないじゃないか?」
面白がるように言うザクスを睨み付けた。
「…笑えない冗談はやめてくれ。お互い趣味じゃないから無理だよ」
現状最も起こり得る未来予想図を思い浮かべただけで鳥肌が立った。残念ながらフィリアを異性として見たことはない。鎧と筋肉マニアの彼女に言わせれば、俺は虚弱なもやしっ子らしい。お互い趣味ではない。
「残念。はたから見れば美男美女で実にお似合いなんだがな」
「どんなに似合ってようが本人の気持ちは別だろう?」
俺は渋面を作って言った。
お似合いと言われる度にお互い苦い気持ちになるのは秘密だった。レイチェルにもそんな風に見られて誤解されているかもしれないと思うと、気持ちが落ち着かなかった。ドリーには「そもそも全く興味を持たれてないようなので大丈夫です」と言われて更に傷ついたわけだが。
「そういうものかな」
俺は渇いた肌にシャツを纏いながら息をついた。
「ティルのその大事な彼女の顔が是非見たいものだな。君に百面相をさせる麗しの姫君はさぞや美しいのだろう?」
「ザクスは懲りないな。この間、婚約者に城から締め出されたばかりじゃないか」
「あれは誤解だというのに。怒る彼女は可愛いが、嫉妬が過ぎるのが玉に傷だな。そういうところも可愛いのだが?」
のろけるザクスを見て、肩を竦めた。ザクスは一年の半分を外交で国外で過ごす。行く先々で女性を無自覚で口説いてはその噂が婚約者の耳に入り、城から締め出されるのもしばしばなのだが、全く懲りないのだ。
「…ザクスとフィリアにだけは絶対に会わせたくない」
片想いの今、二人に紹介するのは危険だ。いや、両想いになれたとしても駄目だ。何せ、二人とも俺より女性の扱いに長けているのだ。
「心が狭いな。紹介するぐらいいいじゃないか」
「何とでも言ってくれ。とられたくないんだ。会わせるとしたら俺を好きになってもらってからだ」
「………まさかの片想いなのか?」
気まずくて黙りこんだ俺を同情するようにザクスは見た。片想いどころか今や完全に接点を失って知り合いですらない。その上、婚約者がいる手前、堂々と近づいて誘うのも難しかった。
「何の約束もないのによくもつな。お前が大丈夫でも相手に婚約者ができるかもしれないじゃないか。いつか迎えに行くと言うからてっきり両想いだと思っていたよ」
「……手は打ってある。今のところは大丈夫そうだ」
「なぜ言い切れる?」
「ほら?情報収集は大事だろう?」
俺はさっと視線を泳がせた。彼女にそれらしい相手ができそうなら報告を寄越すよう指示を出している。
今のところは彼女の不器用な表情筋のお陰でお見合い話は連敗なのだという報告を受けており、彼女には悪いが、内心はほっとしていた。
「…君は呆れた男だな。ティルの愛しの姫君には同情するよ。だって、君以外の男との縁は結べないじゃないか」
「見ているだけで、別に邪魔はしていない。彼女の見合い話だって、内心は穏やかじゃなくても静観している」
彼女の見合い話を耳にする度に彼女の良さに気づく奴がいるかもしれないとひやひやしているのだ。
「君が関心を寄せている時点で大概の奴は敬遠して諦めるさ」
「なぜ?」
「……向こうにしてみれば、どう足掻いても君には勝てないし、比べられたくはないだろうからね」
「なら、その程度という話だろう?それに、今のところは誰にも気づかれないように配慮している。彼女の兄にはとっくに感づかれているけど」
「なんだ?麗しの姫君には兄がいるのか」
「元々は彼がきっかけだったんだ。彼がいなければ彼女とは出会えなかった」
「…それは。気の毒な話だな」
「どういう意味だ?」
レイチェルは俺と出会わなければ良かったというザクスを睨んだ。
「もし、その出会いがなければ彼女は今頃は適当な相手と結ばれて普通に幸せだったかもしれないだろうに。お前みたいにしつこい男に好かれて大変だと思ったんだ」
ザクスはにやにやとからかうように言った。俺は図星を突かれて黙りこんだ。
彼女が内に引きこもるようになったのは俺のせいでもある。俺の何気ない言葉は元々内気だった彼女の性格に拍車をかけたそうだ。笑うのが下手になったのだってそうだ。そのことに負い目と後悔は未だにある。
「ティル?」
「何でもない」
彼女にはいつか、傍で笑って欲しいと思った。
※※※
出掛けに隣部屋に入れば、長椅子で転た寝しているレイチェルを発見して自然と口許が緩んだ。カーテンの隙間から木漏れ日が差し込んで、彼女はどうも気持ちよくなったらしい。
傍に近づいて手元に開かれた本のタイトルを覗き込んで、俺は一瞬、固まった。彼女が読んでいる小説は巷で人気の大衆向けの恋愛小説だった。ただし、内容が大人向けのものだ。それに、ストーリー展開が俺にとっては非常に面白くない。伯爵令嬢が公爵子息に捨てられて侯爵子息と結ばれるなんて冗談じゃないと思う。我が身に置き換えれば今や絶対に許容できない話だ。
小説を好む彼女の手には絶対に渡らないように身の回りの世話をやく従者には言いつけていた。それが何故、彼女の手にあるのか。
本をそっと取り上げて、俺は胸を撫で下ろした。問題の頁にはまだ差し掛かっていないらしい。場面は丁度、公爵子息が伯爵令嬢を簀巻きにして海に捨てる部分だった。
黙って本をドリーに押し付ければ非難の目を向けられたが、気づかないふりをした。そのまま手の届かない場所にやるように指示して、彼女の横に腰を下ろした。
そっと頬を突っついてみるが起きる様子は全くない。小さく身震いしたのを見て、俺は慌てて傍にあったブランケットで彼女の身体をくるんだ。
長い髪をすいて整えてやれば彼女は不機嫌そうに小さく唸り声をあげた。どうも良くない夢でも見ているらしい。起こすべきか悩んだ。寝ている姿が悪いわけではないが、一緒にいるのに勿体無いと思う我が儘な自分に溜め息が漏れた。
短期間で彼女の身に次々に起きた不幸を鑑みれば休息は必要だ。ただ、気になるのは先程から恨み言のようにぶつぶつと呟かれる「ティルナード様」という単語だ。はて、何かしただろうかと胸に手を当ててみるが、昔ならともかく最近はこれといって身に覚えがない。強いて言うなら、例の隣国の王子の事後処理で屋敷を開ける時間が増えて、彼女と過ごす時間が激減したことか。
髪を撫でて額にキスを落とした。寝ているレイチェルにキスをするのは最早日課になっていることを当の本人はまだ知らない。最近はレイチェルが起きている時間に帰れないこともしばしばだった。とはいえ、もう少しでこの状態も落ち着くのだと、つい急いてしまいがちな自分に言い聞かせる。
ブランケットにくるんだまま、寝台に運ぼうと抱き上げたところで思わぬ抵抗にあって、俺は呻き声を上げた。危うく彼女を取り落としそうになるが、なんとか耐えて長椅子に彼女を抱いたまま座り込んだ。
視界の端に、いつの間にか戻ってきたらしい、無音で爆笑するドリーの姿を見つけて俺は鳩尾を押さえながら睨んだ。本当に器用な奴だ。
目覚めた彼女は目をぱちくりさせて、周囲をキョロキョロ見回した。俺の膝の上に乗っていることに気づいた彼女は身体を強張らせた。警戒するような、冷たい目を向けられて俺は心臓が凍りつきそうになった。
ドリーはひぃひぃ笑いながら、俺が彼女に襲いかかろうとして返り討ちにあった、とわざと誤解を招くような発言をした。レイチェルは自分の身体を抱き締めて後ずさりしながら「やっぱり…」と呟き、疑惑の眼差しを向けてきた。ちょっと待て。やっぱり、とは何なんだ。
確かに寝ている間に寝顔を見たり、意識がない彼女に断りなくキスをするのは良くないことかもしれない。ただ、俺達は一応は想いを通わせたのだ。このぐらいは許してくれてもいいじゃないか、と心の内で不満を呟いた。彼女とはまだキス以上のことはしていない。昔ならともかく今は夫婦まではいかなくても恋人ぐらいの間柄にはなったと勝手に思っていただけにうちひしがれた。
よくよく話を聞けば誤解だったとわかり、ひとまずは息を吐いた。全然良くはないが良かった。
彼女の夢の中のティルナード=ヴァレンティノは最悪だった。どうも直前に読んでいた小説の影響を受けたらしい。
しかし、まず、あり得ない話だ。レイチェルの期待を大幅に裏切って申し訳ないが、式を挙げたら心置きなく二人きりで暫くはいちゃつかせてもらう予定だ。そのための行き先の候補も既に決めてある。明言しないのは言えば彼女に逃げられる可能性を考慮してのことだ。
レイチェルの行動パターンは大体把握してきている。未だにわからない部分もあるが、彼女は基本的に恥ずかしいと思うことからは逃げようとするようだ。
今忙しいのだって、休暇をとるための仕事の前倒しで、後に控えている新婚生活を思えば全く苦にはならなかった。
だから、彼女の夢が現実になることは絶対にない。
彼女の身体を抱き直せば、何も知らないレイチェルは「時間は大丈夫なの?」と不思議そうに俺を見上げた。
※※※
「忙しいなら無理しなくても…」
領地関連の仕事の合間に彼女の顔を見て一息つこうと部屋を覗けば、彼女は縫いかけの花の刺繍から顔を上げてつれない言葉を俺に投げ掛けた。
最近の彼女は刺繍に夢中らしい。想いを込めて丁寧に一針一針縫う姿を見て、誰に贈るのかはわからないが、贈られる相手が羨ましいと思った。
「レイチェルは寂しくないんですか?」
つい不満が口をついて出た。彼女は滅多に我が儘を言わないし、敷地から出ようともしない。一人にしても寂しがっている様子はない。俺ばかりが彼女に恋い焦がれているみたいだ。
「そういうわけでは…」
彼女が申し訳なさそうにするのを見て、つい意地の悪いことを口にしたことを反省した。ただでさえ、彼女には俺の不安を取り去るために大分我が儘を聞いてもらっているのだ。書類上の結婚を早めて公爵家にいるのだってそうだ。
「君が望むならやっぱり式まで俺が伯爵家で過ごしても…」
「それはティルの負担が大きいし、私の家族が全く大丈夫じゃないから気持ちだけ頂いておきます。貴方は私を甘やかしすぎです」
困ったように笑う彼女に俺はすぐさま返答した。
「君や君の家族ともっと仲良くなりたいんだ。それに、奥さんを甘やかすのが夫の特権でしょう?君もその家族もまだ大分よそよそしいんだけど」
彼女のためなら別段、伯爵家から行き来するのは苦にはならない。
紛れもない本音だ。レイチェルもヴィッツ伯爵一家も基本的に遠慮がちで控えめだ。何かにつけて金品を要求してきたハーレー元侯爵とは大違いだと思った。
「……慣れないからですよ。まだ戸惑っているんです。普通はそういうものだと思います。これでも十分甘えています」
「本当にそうかな?君はカイルとはすぐ打ち解けてたじゃないか。昔から俺とだけは仲良くしてくれなかった」
不貞腐れたように言えば、レイチェルは慌てたように顔を上げて言った。
「カイルと貴方は全然違うわ。それに、友人の妹と仲良くなる方が問題だと思います!……何を企んでいるのかわからなくて凄く戸惑ったんだから。今だって時々怖いのよ?都合の良い夢でも見ているんじゃないかと。大体、貴方にその気が全くなくて私が一人で勘違いしてしまってたらどうしたの?」
「ザクスじゃあるまいし、俺はその気もないのに勘違いさせるようなことはしない。大体、実際には俺が最初からその気でも君はなかなか勘違いしてくれないどころか、今も昔も良い感じになる度に逃げられる。君をその気にさせるのはなかなか難しい」
レイチェルは身を捩った。これは多分恥ずかしい時の反応だ。傍で観察するようになって大分わかってきた。
疑い深い彼女には遠回しに気持ちを伝えても通じないことは長年の攻防で織り込み済みだった。だから、ストレートに口説くことにしたのだ。結婚したからといってまだ安心はできない。
「それに、存在を忘れられないためにアピールは大事だと思う。君は少しでも放っておくと俺と結婚した事実さえ忘れかねない」
レイチェルは頬を膨らませた。
「まだ忘れてしまったことを根にもってるの?」
「いいえ?」
「…私はそんなに忘れっぽくありません。貴方が私と結婚したことを忘れてしまっても逆に根にもってやるんだから」
べっとレイチェルは舌を出した。昔ならあり得ないやり取りに頬が緩んだ。
「…何で嬉しそうなの?ティルは変だわ」
「レイチェルもたいがい変だろう」
「う…。知ってます。でも、ティルには負けると思う。だって、貴方、私が憎まれ口を叩いても嬉しそうなんだもの。変よ」
普通は怒るところよ、とレイチェルは言った。
「…やっぱりレイチェルは忘れっぽい。昔の君はこんな風に近くで俺に気安い口をきいてくれなかったのも忘れた?」
指摘してやれば彼女は耳まで赤く染めて、ぴくぴく動かした。
「…ティルは変」
「好きな子と仲良くなれて嬉しいというのはそんなにおかしいかな?レイチェルは怒っている顔も可愛いと思う」
ザクスがのろけてきた時には呆れたが、俺も彼とそう変わらないらしい。今なら彼の気持ちがよくわかる。レイチェルにこんな顔をさせられるのも俺だけなのだと思うと、感慨深かった。
至近距離でまじまじと彼女を観察するように覗きこめば、「やっぱり変だわ!」と、レイチェルは真っ赤な顔でぷいっとそっぽを向いてしまった。
「……私と居て退屈したり、呆れたりしてない?」
不安げに聞いてくる彼女に俺は即座に首を振って否定した。彼女はどこまでも臆病で心配性だ。まだ俺に騙されている可能性を捨てきれていないらしい。そんなところも含めて可愛いと思う俺の恋の病も重症だ。
「全然?」
「子供っぽいと思ったりは?」
閉口した。これに関しては否定はできない。ただ、この件に関してはお互い様だ。失った時間を取り戻すように、俺達は昔に戻ったように時々憎まれ口を叩きあったりもする。ただ、そのやり取りが愛おしいと感じるのは昔の二人なら絶対にあり得なかったことだからだ。
「お互い様だよ。俺も君も子供っぽいところは多少はあるだろう?」
「…気にしているの。貴方に似合うのは大人っぽい女性だもの。昔から綺麗な女の人ばかり貴方は連れていたし。私にはないものばかりだから」
彼女は自信なさげに自分の身体に視線を落とした。彼女が自分の容姿にコンプレックスを感じているのは知っていた。そして、それは俺のせいでもあった。
ただ、誤解がある。俺は別に好きでレイチェルの言うところの「綺麗な女性」を連れていたわけではない。厳密には断ってもついてきたのだ。この件については否定すればするほど怪しまれると思った。
「そうかもしれないけど、俺が好きなのは君なんだ。好みばかりはどうしようもないだろう?」
拗ねたように目を伏せる彼女の髪を掬って、こちらを向かせて視線を合わせて反論すれば、レイチェルは動揺したように身体を震わせた。逃げようと動いたのがわかったが、逃げるとわかっていて逃がしてやる気はない。
腕の中に囲いこんで逃げ道を塞ぐと、可愛いレイチェルは赤い顔で身を縮こませて石のように固まった。
「……意地悪」
「どっちが。こんなに好きだと伝えているのに未だに疑うんだから。周りがどう言おうが関係ない。最近、不釣り合いだとか嫌みを言う奴が多いのは僻んでいるからだと思うようになったんだ」
「……何を僻むと言うの?」
きょとんとした顔でレイチェルは疑問を口にした。
「ほら。俺達があんまりに幸せそうでお似合い過ぎて羨ましがってるんじゃないかって。俺の奥さんが可愛すぎるから皆妬んでいるんだろう、と」
俺が満足げにしみじみと頷きながら言えば、ぎょっとしたようにレイチェルは目を見開いた。
「まさか、それを外では言ってませんよね?」
ぎぎぎっと彼女は俺を見上げた。
俺は考え込んで答えた。
「何人かには言ったかな。嫌みを言ってくる奴に羨ましいなら素直にそう言えって」
レイチェルは頭を押さえながらふらふらとよろめいた。俺は慌てて彼女の身体を支えた。レイチェルは何故か赤い顔で俺を睨んできた。
「……もう社交場に行けません」
唸りながら悶える彼女に俺はすかさず突っ込みを入れた。彼女は大事なことを忘れている。
「君は元々そんなに社交場に顔を出さなかっただろう?君が出席する催し物は少なすぎて昔から招待を受けるのが大変だった。それを逃すと君は屋敷から殆ど出ないから」
彼女が社交場に顔を出すのは年に数度あるかないかだった。逆に言えば、それを逃せば視察以外で基本的に屋敷に引きこもりっきりの彼女とは会えないのだ。ドリーやルーカスは俺をストーカーだと言うが、想いを寄せる女性と少しでも同じ空間で時間を過ごしたいと思うのは普通のことだと思う。ただでさえ、レイチェルの存在はフィリアにはさんざん俺の妄想や幻呼ばわりされていたのだ。
レイチェルは何かを思い出したように首を傾げた。
「そういえば行く先々でやたらとティルが出席していたような?社交場には滅多に行かないのに不思議」
レイチェルは本当に鈍い。
実は俺も彼女とためを張れるぐらい社交嫌いだ。必要がない催し物には基本的に出席しない。何せ、社交場で散々縁談を持ち込まれては辟易していたのだ。
「……都合の良い偶然はないよ」
ぽつりと呟いた。
勿論、全て手を回して招待を受けていた。婚約を申し込むにしても出会わなければ始まらない。何せ、個人的な招待も見合いの申込みも鈍い彼女には全て人違いで片付けられてきたのだから。
運命的な再会の確率に賭けていたら、彼女とは一生結婚できなかっただろう。最初の出会いこそが偶然の産物による奇跡だったのだとさえ思う。あれがなければ俺は恋を知らないまま、本当の幸せを知らないまま、どうでも良い相手と結婚したに違いない。
「ティルは絶対に嫁馬鹿だと思われたわよ?」
「何か不都合が?」
俺は全く困らない、と真顔で返せばレイチェルは僅かにひるんだ。
「不都合だらけです!普通の男性は不名誉で恥ずかしいことだと思うらしいわ」
彼女の口から語られる普通の男の基準は従兄だ。残念ながら俺は彼とは大分違う。
「それは君の従兄や他の男の話だろう?俺はそうは思わないし、君と結婚できたのは幸運だと思う。それに、入る隙間がないぐらい熱愛中だと噂が立てば邪魔は減るから俺には好都合だ」
唖然とする妻の頬をいとおしげに撫でれば彼女は再びふらふらと俺の胸にもたれかかってきた。気のせいでなければ頭から湯気が出ている。
「ティルナード様、そのぐらいで」
ドリーの言葉ではっとしたようにレイチェルは我に返った。俺は内心で舌打ちをした。良いところだったのに。
「……わざとだな」
「結婚式前に若奥様が心停止したら洒落になりませんからね。愛妻をここぞとばかりに口説くのは結構ですが、程々にしてください。ただでさえレイチェル様はティルナード様のお顔に弱いんですから」
「……この顔だけはどうしようもないだろう」
むすっとして言えば、ドリーは苦笑いした。
「いえ、いいえ?レイチェル様はティルナード様のお顔が大好きみたいですから。甘く口説かれたら心臓がもたないだろうという配慮です」
「ドリー!?」
レイチェルが慌てたように叫んだ。
「ドリーは昔、怖い顔だと言っていたじゃないか。この顔のせいでレイチェルが怖がっているんだ、と」
「貴方は気づいてないみたいでしたけど、レイチェル様は度々貴方に見とれてましたからね。昔も今も」
「……本当に?」
レイチェルを見れば、困ったように渋々頷いた。
「…顔だけじゃなく全部が好き。だから」
そこで彼女は言葉を区切った。
呻くように告白した彼女を見て全身の血が逆流した。
「私も貴方のことは言えないみたい」
彼女はおずおずと俺の手をとって指輪をなぞるように撫でた。
ああ、俺は死ぬんじゃないかと思う。あの俺から逃げてばかりだったレイチェルの口から「全部が好き」なんて一生聞けないと思っていただけに。
げんきんな俺はそれだけで上機嫌になった。名残惜しいが彼女と過ごす時間を増やすために仕事を終わらせようと椅子から立ち上がった時、控えめに彼女に腕を引かれた。
「あの…。ティル?」
レイチェルの目線に気づいて、「今日はまだだったな」と少し屈んだ。完全に届くように屈まないのは、背伸びして抱きつくように俺の首に手を伸ばす可愛いレイチェルを見るのが好きだからだ。
俺はおずおずとつま先立ちをして唇を合わせる彼女を抱き締めた。
律儀なレイチェルはまだ気づいていない。俺は毎日の日課のキスを唇にしてほしいなんて一言も言っていない。言わないのは恥ずかしがりながらも毎日口にキスしてくれるレイチェルが可愛いからだ。この日課が始まってから新婚なのだと実感が湧いたし、屋敷で待つ彼女のために早く帰らないと、と前以上に仕事の能率が上がっている。
ドリーが「性格が悪い」と白い目を俺に向けてくるが、全く気にならなかった。それに嘘はついていない。
「頑張ってね?」
疑問系で小首を傾げながら言う彼女の華奢な身体をぎゅうっと潰さないように抱き締めながら暫く悶えた。
ああ、できるなら、このまま彼女といつまでもいちゃついていたい。
「…………ティル?」
「はいはい。嫁萌えは大概にしないと愛想尽かされますよ?ほら、休憩は終了して仕事に戻りますよ」
「なるべく早く終わらせます」
彼女の額にキスを落として誓った。
「あの。あまり無理はしないで下さいね」
「あははー。心配要りませんよ。ティルナード様にとってレイチェル様と過ごす時間は完全な別枠ですから。昔も今も」
俺の考えを読み取ったドリーが茶化すように言った。思えば昔もヴィッツ伯爵邸に通うために強行軍でスケジュールを組んでいた。しかし、全く苦ではなかった。
「癒しは大事だし、新婚はむしろ、これが普通だろう?」
レイチェルを抱きしめたまま俺は言った。
「ティルナード様はわかってないなぁ。世の中にはお互いに愛人のいる冷めきった新婚夫婦も存在しますが?お貴族様の結婚はむしろ、それが普通です」
嫌なことを言うドリーを睨んで、レイチェルの肩に手を添えた。
「レイチェル。わかっているとは思いますが、俺は心が狭いので俺以外の愛人や恋人、夫は認めません。もし、作ったらその時は…」
「「その時は?」」
ドリーとレイチェルの声が見事に重なった。
「…貴女を連れて人里離れた辺境に二人きりで引きこもります。俺以外の男が二度と目に入らないように。今度こそ」
「ティルナード様、発想が変質的で怖いです。軟禁は犯罪です」
ドリーがすかさず突っ込みを入れた。
「そもそも、私が浮気なんてあり得ません。モテないし、相手にしてもらえないもの。けど、私以外が目に入らないように二人きりで引きこもるのは良いかも?」
自己評価が低いレイチェルは可笑しそうにふふっと微笑んだ。
俺は彼女と二人きりの甘い新婚生活を一瞬想像した。
「………今から殿下に辞表を提出して爵位はサフィーに譲ってきます」
「駄目ですからね、ティルナード様。新妻といちゃつきたいって理由で爵位譲渡や辞職が通るとでも?」
「実は前々から健康に問題があったんだ」
「超健康体が何を仰るんですか。レイチェル様もティルナード様を誘惑なさるのは程々になさって下さい。ティルナード様に言うことを聞かせられるのは貴女だけなんですから」
「えーと。冗談ですよね?」
「ティルナード様は本気ですよ。この人、拗らせてきた一方通行の長ーい片想いが成就したせいか、今相当浮かれてますから。レイチェル様を甘やかす気満々なので迂闊なことを口にしない方が身のためだと思いますよ?」
レイチェルはなぜか硬直した。割と本気だった俺に対して、彼女の方はどうも冗談だったらしいと気づいて少しがっかりした。
「…ティルが将来詐欺に遭わないか心配」
「この人が理性を失うのはレイチェル様が絡んだ時だけですから全く心配は要りませんよ」
「そう?」
「普通の詐欺なら引っ掛かりませんが、レイチェル様なら幾らでも搾り取れるでしょうね。一度限界突破できるか試してみますか?」
「レイチェルになら身ぐるみを剥がされたっていい。ただ、俺の奥さんになってずっと傍にいてくれるなら、だけど」
「ドリーもティルも私を何だと…。別にティルの財産や容姿目当てで結婚するわけではありませんからね?」
「ええ。レイチェル様がそういう方で良かったです。貴女が贅沢好きで遊び好きな、ティルナード様の身体と財産目当ての奥様であれば、公爵家の財政は傾いたでしょうね。むしろ、慎ましやか過ぎで心配ですが」
ドリーに同意するように俺は頷いた。彼女は公爵家に住むようになってからも我が儘という我が儘は言わない。
「私は贅沢で我が儘ですよ?ティルを独占したいと思うぐらいには。焼きもちやきだし」
「それを慎ましやかと言うんです。ティルナード様は喜ばないで下さい。貴方達は本当に安定の馬鹿ップルなんだから」
ドリーは砂糖袋を丸々飲まされたような複雑な表情で言った。
「羨ましいならドリーも結婚したらいいんだ」
「当面はご遠慮します。俺がいなくなったら、貴方に突っ込みを入れる人が誰もいなくなるでしょう?貴方の手が離れるまではお側にいますよ。ああ、俺ってば若くして子持ちの母のよう!」
「誰が誰の母だ!お前に生んでもらった記憶はないからな!」
「確かに腹は痛めてませんが、残念ながら貴方が生まれる前からお側にいるんですよね、これが。おしめを替えて差し上げたこともありますよ?ごみくずを見るような目で見られましたが。そして、そんな可愛いげのない貴方のお子様の面倒も見るのでしょう。ああ、俺ってば献身的」
「…まだ頼んでないだろう?嫌ならみなければいいんだ。お前は子供には悪影響だから俺だって頼みたくはない」
「はいはい。でも見ますよ。頼まれなくても出歯亀のようにしゃしゃり出てやりますよ。ティルナード様に育児は期待できないのでレイチェル様を俺がお助けしないと」
「…俺だってやればできる。子供は苦手だけどレイチェルとの子供なら…うん。頑張れる。ドリーに任せるぐらいなら。父さんにできたんだから俺にできないはずがない」
頬を染めて言えば、レイチェルが噎せながら言った。
「………式もまだなのに何の話を!ドリーはどこを目指しているの?」
「でも確実に何人かは作るでしょう?目指すはティルナード様のお子様の乳母ですかね?知ってます?実は俺がティルナード様とサフィー様の乳母だったんです」
「違います。最初から話し相手兼専属の執事だったんです。短い間でしたけど乳母は他にいましたからね!大体、お前たちはろくなことを教えなかったじゃないか」
「二人が仲が良いのはよくわかりました。ドリーは本当にティルが大好きなのね」
レイチェルは渇いた笑いを洩らした。
「否定はしません。こんなにからかい甲斐のある方に巡り会えたのは旦那様のお陰です。感謝しないと」
「そう考えると巡りあわせは不思議ね。私が今、こうしているのもお兄様のお陰なのかも?」
レイチェルはくすくす笑った。俺の奥さんは本当に可愛いと暫く見とれた。
「レイチェルと出会えたことは感謝しているけど、ドリーと出会ったことは少し後悔しているんだ。生まれる前から決まっていたこととはいえ、父さんはもう少し考えられなかったのかと。あの人は勘と閃きで生きているところがあるから」
「またまたぁ?そんなこと言って俺のことが大好きなくせに」
「俺がひねくれた一因はドリーにあるんだからな」
「私はティルとドリーは名コンビだと思います。ドリーといる時のティルは凄く楽しそう。私もドリーのことは好きよ」
「レイチェル様。ティルナード様と結婚をやめて俺としますか?ティルナード様みたいに甲斐性はありませんが、明るく楽しい家庭を約束しますよ?あいたっ」
「俺が許すわけがないとわかってて言っているよな?」
レイチェルの前で深々とお辞儀をしながら調子の良いことを言うドリーを軽く小突いた。
「その前にレイチェル様がティルナード様にぞっこんだからあり得ませんって。ただの冗談ですし、本気で焦ることないのに相変わらず余裕がないんだから」
「ドリーは知っているだろう?俺は独占欲が強いから好きな物は一人占めしたいんだ。俺の中ではレイチェルが好きな奴はもれなく警戒対象だ」
レイチェルに視線を移しながら言うと、ドリーはやれやれと肩を竦めた。
「最初から貴方だけは特別だから心配いりませんって。ご自分で言っていたじゃないですか。俺とだけ打ち解けてくれなかった、と。貴方はその他大勢の好きな方々と違って特別だったんです。お誘いを受けてもらえなかったのだってそうです。本当に鈍いなぁ」
「意味がわからない。特別なら近づきたい、仲良くなりたいと思うものだろう?」
彼女の言動は真逆だった。昔も婚約当初も甘さとは無縁なものだ。むしろ、昔から最近に至るまで疑われたり、拒絶されたしょっぱい記憶しかない。プロポーズをすれば「からかわないで」で、個人的に誘えばいつも「ごめんなさい」か「やめておきます」、「人違いです」だった。聞けば、二人きりではないとはいえ他の奴とは割と出掛けていたらしいのに。
後は大体、後ろ姿が記憶の殆どを占めている。近くで笑うレイチェルの昔の記憶は全くない。どころか、正面から顔をつきあわせたのも片手で数える程だ。
レイチェルを見れば何故か真っ赤になって固まっていた。
「ティルナード様は昔のレイチェル様にカイル様のように大歓迎されたらどうします?」
「物凄く浮かれて喜ぶだろうな。が、同時に何を企んでいるのかと警戒する。俺に打ち解けるレイチェルなんてレイチェルじゃないし、まずあり得ない。何かを企んでいるのなら別だけど。とんでもないお願い事をされる前触れじゃないかと疑いながらも、取り敢えずは遠慮なく堪能するだけして、守れない願い事は却下する」
主に「二度と顔を見せないで」とか、「傍に近づかないで」とか、そういう類いのお願い事をされても断固拒否だ。それは俺が辛いし、守れない。どんなに可愛く頼まれても無理なものは無理なのだ。
「レイチェル様も同じ気持ちだったんです。ほら。普段は怖い怖いお兄様のご友人にいきなり優しくされたら警戒するでしょう?」
「………もう、やめて」
レイチェルはなぜか耐えかねたように、ばたばたと部屋を逃げるように出ていった。
「今のの何が恥ずかしかったんだろう?」
「ティルナード様は女心がわかってないなぁ。もう少し、勉強しないと」
「俺が悪いのか?」
今のはドリーが悪いだろう、と俺は思った。それに、もっと際どい話の時はまだ大丈夫そうだったのに意味がわからない。
「はいはい。さ、仕事に戻りましょうね?夕方には気持ちも落ち着いてらっしゃるでしょうから」
納得のいかないものを感じながら、俺は彼女と過ごす時間を確保するべく仕事に戻ったのだった。




