閑話~酒は飲んでも飲まれてはいけません(公爵子息の場合)~
頭がずきずきと痛んだ。昨夜の愚行を思い出して、俺は二重の意味で頭が痛くなった。
酔い潰された。酒には強い方だが、あの量は限度を越していた。それでも飲まざるを得なかったのはあの悪魔達は俺が飲まなければレイチェルに勧めただろうからだ。それだけは避けなければならない。
昨夜の記憶はしっかり残っている。酔っぱらった俺は大胆にも子供のように彼女に絡んだ。
繰り返し思い出して、悶々としたのは言うまでもない。
ふと不安がよぎる。酒癖が悪い男だと呆れられただろうか、と。彼女の前で醜態を晒すのはこれで何度めのことか。
ベッドからがばりと身を起こせば、頭がガンガン痛みを訴え、悶絶した。
「大丈夫ですか?あーあ、二日酔いなのに急に起きるから」
丁度盆に水を乗せて廊下側の扉を開けて入ってきたドリーが呆れたように俺を見た。
「レイチェルは?」
彼女の姿を見かけないことが不安を煽った。昨夜のことで愛想を尽かされてしまったらどうしよう、と思ったのだ。
「お隣にいらっしゃいますよ。あなたは記憶にないかもしれませんが、昨夜は色々まずかったので。うっかりなんてことが起きかねなかったから僭越ながら夜通し見張らせて頂きました」
ドリーは俺の意を汲んでくれたらしい。今、俺は彼女の部屋ではなく自室のベッドの上にいる。
「助かった」
酔っぱらった前後不覚な状態でレイチェルに乱暴なことをしていたら彼女に嫌われただろうし、自分でも激しく後悔しただろう。
「もう大丈夫でしたらお通ししても?」
「…それは駄目だ。その…どんな顔をすればいいのか」
昨夜の件が尾を引いていた。絡み酒で醜態を晒した上にとんでもないことを口走ったのは確かなのだ。
「堂々となさればいいのでは?お風呂の件なら昔からむっつりだと皆知ってますよ」
「誤解だ!ただ…レイチェルを離したくなかっただけなんだ」
「結婚しておいて今更離すも何もないでしょうに。心配性だなぁ。結婚している限り、それこそレイチェル様はもうどこにも行けませんよ」
「本当に?」
「多分…ああ、いや。自信がなくなってきました。何せ、あのレイチェル様ですからね」
俺は視線を落とした。
この先やっぱり違いましたなんてことも十分あり得るのが彼女だ。
「まぁ。違っても今更です」
こんこん、と間続きの扉の向こうから控えめなノックの音が響いてきて、会わせる顔がない俺は咄嗟に頭から掛布を被った。
レイチェルが入ってきたらしい。衣擦れの音と気配がして心臓がはね上がった。
「ティルはまだ…?」
「…え…えぇ。まぁ。ほら?二日酔いが酷いみたいですね」
ドリーが笑いを堪えている気配が伝わってきた。
「ところで、近衛の方々はどうなさったんです?昨夜から広間で死屍累々と雑魚寝していらしたでしょう?」
「ライアン様とフィリア様が先程来られて送って行かれました。殿下方はティルが潰れてすぐに王宮に帰られました。今、ワトソンさんが指揮をとって片付けをされています」
「昨夜はどんちゃん騒ぎでしたもんね。爺さんも大変だなぁ」
「でも」
「でも?」
「楽しかったです。気さくな方々ばかりで」
「…そういえば、レイチェル様はあの中に好みのタイプはいらっしゃいましたか?」
びくりと頭から掛布を被ったまま震えた。
俺が離れている間にレイチェルはライアン達とは随分盛り上がっていたようなのだ。思ったよりも酒精が進んだのも、人見知りなレイチェルが部下達とはすぐに打ち解けていたせいもある。俺はレイチェルとは未だに会話が弾まないだけに。
「いたら大問題だと思うの」
「貴族の間では仮面夫婦は流行っているみたいですよ?レイチェル様ならライアン様あたりお勧めですよ。適度に地味で真面目だし」
何を言い出すんだと布団の中でやきもきしたのは言うまでもない。勝手に人の部下を奥さんの浮気相手に勧めるな、と叫びたくなった。
「……まさかティルは私に浮気してほしい、の?」
震える声でレイチェルが言い、俺は思わず「違う」と叫んで、掛布から飛び出しそうになった。何とか思い止まったが。
「いいえ?ティルナード様はそうは思っておりませんよ」
「良かった。フィリア様にお会いしてほっとしたんです。ティルからは何もなかったと聞いても、ずっと気になっていて」
「はい?」
「私、ティルの今も昔も独り占めしたいみたい。こんな馬鹿なこと、カイルの時には思わなかったのに」
「えぇー?」
ドリーはすっとんきょうな声をあげた。
「昨日のあの人、酒臭かったしうざかったし、重かったし、理性ふっとんで結構物凄いことを口走っていたと思うんですけど?嫌じゃなかったんですか?」
昨夜のことを朧気に思い出した。酔っぱらった勢いでレイチェルに思いきり抱きついたのだ。へばりついて離すのが大変な状態だったのは部下に囲まれて楽しそうにする彼女を見るのが面白くなかったからだ。それに、あいつらに変なことを吹き込まれていないか心配だった。
風呂の件は誓って他意はない。ただ、俺が居なくなったフロアにレイチェルを残していきたくなかっただけで、ドリーの言うような「一緒に入ってくれ」という意味では断じてない。誤解を招くような言動だったのは事実として認めるが。
レイチェルは首を左右に振って笑った。
「昨日も言ったけど可愛いと思いました。だって、私の前ではティルは殆ど完璧な王子様だもの。弱いところはあまり見せてくれないし、いつも涼しい顔をしているし」
「まあね。あの人、涼やかな顔ですけど水面下では白鳥のごとく必死ですよ。知ってます?白鳥は湖の下では物凄い勢いで足で水かきしているんですよ。ティルナード様のピアノは酷かったなぁ。騒音でした。あの人、芸術面の才能は壊滅的で絵も前衛的過ぎて先生が筆を投げた程です。奥様譲りなんでしょうね、多分。絵はどうにもなりませんでしたがね。よかったら今度見ます?確か物置にまだ眠っているはずですよ。ティルナード=ヴァレンティノ画伯の渾身の大作集を」
「ドリー!?」
話が思わぬ方向に転びかけたので、俺は慌てて掛布を押し退け、飛び起きた。と同時に激しい頭痛で頭を押さえた。
「やだ、大丈夫?」
「いやあ、狸寝入りの盗み聞きとは。あなた、昔から覗き見が好きでしたもんね」
「…好きでしていた訳じゃない!レイチェルには見せるな。絶対に」
絵というよりは落書きだ。落書きにも見えないかもしれないそれらを好きな女の子には見られたくない。
絵以外にも見られたくないものはいくつか存在する。一番は日記で絵は二番目に位置する。日記については墓場まで持っていく所存だ。今のところはドリーさえつけているのを知らないのが救いだ。あれだけは誰にも知られる訳にはいかない。
「しかし、どうして絵心がないのにあんなに熱心だったんです?何か描きたいものでも?」
ドリーは不思議そうに首をひねって、レイチェルを見た。
幼馴染みというのはやりづらいものだ。俺の動機の大半はレイチェルが占める。ドリーはそれを理解していて、「レイチェルはそんなに絵に興味があったのか?」と暗に聞いている。
彼女は絵に関しての興味は普通だ。
「…別に良いだろう?自分で覚えたら都合が良かったんだ。全く上達しなかったけど」
絵の得意な友人にレイチェルの絵を頼んだ。ロケットに収まるぐらいの持ち歩ける大きさのそれらは一年ごとに更新していった。ただ、成長するにつれてレイチェルはどんどん屋敷に引きこもるようになったので実物を見て絵を描いてもらうのが難しくなった。
何せ、実物を目にする機会がないのに想像で描けなんて無理な注文だ。なら、自分で描く方が早いが、絵心が壊滅的にないがために無理だった。記憶に焼き付いていても、それはそれだ。それに俺が欲しかったのは「俺に笑いかけている彼女の姿」だ。俺の記憶に焼き付いている幼い頃からの彼女は殆ど俯いているか俺を全く見ない。向けられるのはひきつった顔か怖がるような顔が殆どだ。当時は彼女が笑いかけてくれるのは夢の中か、俺だと気づいていない時に限定されていた。
知られたら気持ち悪がられるかもしれないからロケットの中身もできるだけ見せたくはない。だから、式を挙げるまでは見せない、と彼女には言ったのだ。今更逃げられたくはない。
「…ティルの絵は見てみたいわ。けど、駄目ですよね?」
興味が混じった上目遣いで見上げられて、俺は「う」と言葉に詰まった。
「本当に下手なんです!」
叫んでしまって、また二日酔いの頭が痛んだ。
下手すぎて何を描いたかわからないのがせめてもの救いか。実はレイチェルばかり描こうとしていたのだが、あれは人物画かもわからない状態だとドリーは言っていた。
「ドリーは知っているのに私は知らないなんて狡いわ。ドリーは私よりティルの奥さんみたい」
拗ねたように頬を膨らませたレイチェルを見て、意志がぐらついた。正直、最近のレイチェルは可愛い。可愛すぎる。これは夫の欲目ではないはずだ。
前ほど言葉を呑み込まなくなり、俺に興味を示してくれて親しくなろうとしてくれているせいだ。その事が純粋に嬉しい。だから、ついつい彼女からの「お願い」に頷いてしまうのだろう。打算でやっていないから恐ろしい。フィリアに「でれでれしている」と言われる所以でもある。
仕方ないことだ。昔のレイチェルは今のようには俺を全く頼らなかった。そればかりか顔を合わせれば避けに避けられたし、贈り物は絶対に受け取らなかった。
気づいたら、「午後から一緒に見に行きましょうか」と頷いていて、ドリーはやれやれと呆れたように俺を見た。
※※※
午前中は二日酔いのダメージが抜けず、レイチェルと一緒に手を繋いだまま横になって微睡んで過ごした。彼女の時間が勿体ないからと遠慮したのだが、昨日の分も一緒に過ごしたいと言ってくれて幸せを噛み締めた。
ただ、微睡みの間に、例の刺繍は完成したのだと聞いて、がっかりした。机の上に見当たらなかったから誰かにあげてしまったのだろうとは思っていた。
昨夜ルーカスが来たので彼に渡したのかもしれない。俺もいつか彼女から貰えるのだろうか。「欲しい」と思う気持ちは飲み込んで、彼女に「良かった」と笑いかけた。ねだって貰うのではなく、彼女の意思で贈られたい。頼むのは簡単だが、それでは意味がないように思う。面倒くさいと言われようが、幸せの度合いが違う。
隣で子猫のように丸くなってすー、すーと無防備に転た寝を始めたレイチェルの髪を空いた方の手で撫でながら、繋いだ方の手は指を絡めて握りしめた。
友人達は過ごす時間が長くなればなるほど飽きたり、嫌な部分が見えて幻滅するものだと言うが、全くその気配はないどころか重症なことに前より好きになった。
隣にいる彼女に恋煩いを未だにしているのだから呆れるばかりだ。
触りたい。もっと近づきたい。
手を繋ぐだけで、或いは抱き締めるだけで満足できるはずがなく。日増しに募る欲求不満と日夜闘い続けている。レイチェルの前では格好をつけているが、俺は王子様なんかではない。彼女に関しては自信も余裕もない。
涼しい顔を装っているのも余裕がある素振りをしているのもあからさまに表に出せば逃げられるからだ。彼女ががっついた男が苦手なのは知っているからこそ、根気よく距離を縮めてきた。今では無防備に腕の中で寝てくれるぐらいには親しくなった。あまり無防備過ぎるのもどうかとは思うが。ゆっくり積み上げてきた信頼関係が酔った勢いで一夜にして、ぶち壊しにならなくて本当に良かったと思う。
むくりと身を起こして、俺は片手でくしゃりと前髪をかきあげ、眠るレイチェルに視線を落とした。
本当は今すぐキスをして、いつものように抱き締めたい。しかし、今は酒臭いから駄目だ。嫌われたくない。それだけのことが辛い。
ため息をついて、三人の悪魔達に恨み言を呟いた。ここ最近、酒は控えていた。
父も結婚前は酒豪だったらしいが、めっきりやめたらしい。理由を聞いても曖昧に笑って答えてはくれなかったが、今ははっきりとわかる。
ゆっくり手をほどいて、酒臭い身体だけでも流そうかと思ったが、天の邪鬼な彼女は敏感に気配を察知して、ぎゅっと握り直してきた。
目を擦りながらレイチェルはもぞりと起き上がり、「どこに行こうとしたの?」と首を傾げた。
「湯を浴びようと思って」
昨夜は結局湯も浴びることができずに泥のように眠りについた。平素なら一晩くらい入れなくても気にしないし、頭に響くから後回しにするところだが、レイチェルが傍にいるなら別だ。
「…気にならないし、具合が良くないのなら無理しなくても良いと思うわ」
「このままだとレイチェルにくっつけないから不満なんだ」
「くっつけますよ?」
ピタリとレイチェルが身体を寄せてきたので俺は唸って身体を捻って離れようとした。
「キスができない」
レイチェルは不思議そうに暫く俺をじっと見つめた後、顔を近づけた。避けようとしたら手を掴み直されて、更にバランスを崩して俺は彼女に押し倒される格好になった。
そのまま彼女は躊躇いなく俺にキスをした後、口を開いた。
「契約違反」
「はい?」
上に乗るレイチェルを見上げた俺は間抜けな声を出した。
「…キスをしたら抱き締めてもらう約束でした」
口を尖らせて不満げに言う彼女を思わず抱き締めたくなったが、ぶんぶん首を振って持ち直した。
「深酒した時は対象外だ。酒臭いせいで君に嫌われたくない」
「それぐらいで嫌いになりません」
くすくすと面白そうに笑ってレイチェルは俺の身体にもたれた。
「今後は控えます」
レイチェルの背中に腕を回しながら俺は上に乗る彼女に誓った。
「楽しいから、たまになら良いと思います」
「面白がらないでくれ。格好悪いところはなるべく君には見せたくないんだ」
身体を起こしながらレイチェルの柔らかで滑らかな頬に手を伸ばして、ふに、とつまめば彼女は唇を尖らせた。
「頭の痛みは収まった?」
「大分ましになりました。ところで」
「何?」
「本当に見せなきゃ駄目ですか?なんというか、物凄く恥ずかしいんだ」
「嫌なら無理にとは言わないけど、見たいです。だって私はティルのことをあまり知らないもの。ティルは私のことをよく知っているみたいだけど」
「それは仕方ないことだ。レイチェルは俺の初恋で、ずっと見てきたんだ」
近づけなくなってからは遠目に彼女を思いながら見てきた。勿論、レイチェルには見られている感覚はなかっただろう。
「だから、今度は私の番だと思います。ティルのことが知りたいわ」
「本当の俺は君が思うより格好悪いかもしれない」
「これ以上格好良くなられたら、私が困ります」
「俺は君の前では完璧じゃなくても良いのか?」
「完璧な人より、少しくらい欠点があった方が落ち着くわ」
「でも、レイチェルは完璧な王子様が好きだったろう?」
レイチェルは呆れたような顔で俺を見た。
「私は王子様でも、公爵ご子息様でもなくティルと結婚したと思うのだけど?」
目頭が熱くなった。
「…その、レイチェル」
「はい?」
「やっぱり君が好きだ。物凄く。困ったことに離したくないんだ」
腕の中の彼女に視線を落として、髪に頬を擦り寄せて自然と口をついて出ていた。
「あら?私はティルを離すつもりはありませんよ。今更間違いで嫌だと言っても、もう逃がさないんだから。ティルは知らないかもしれませんが、私は物凄くしつこいんです。覚悟して下さいね」
腕の中で、えへん、と小さく胸を張りながら、いつかの俺の台詞を言うレイチェルに自然と笑みが溢れた。
「俺達はやっぱり意外と相性が良いと思うんだ」
※※※
覚悟を決めて俺はドリーを伴って絵が仕舞われている倉庫にレイチェルを案内した。苦手なことを知られるのは凄く勇気が必要だった。ドリーや家族を除けば初めてかもしれない。
「こんなところがあったんですね」
感心するようにレイチェルは言った。
「公爵家の敷地は広いですからねぇ」
先導するドリーはからからと笑った。
「でも、何で捨てなかったの?」
「俺もそれ、疑問に思いました。ティルナード様の性格なら苦手の証拠隠滅と言わんがばかりに一番に捨てそうなのに」
モチーフにした人間に愛着があるからだとは言えなかった。そうとは見えなくても俺にとってはレイチェルを描いた絵なのだ。乱暴に扱えるはずもなかった。
「ああ、あった。ありましたよ」
埃を被った箱をドリーが引きずり出してきた。蓋を開ければ、昔描いた絵の束が出てきた。
ドリーは口許を押さえた。幼児の描く絵に似たそれらを前に大爆笑を堪えたいらしい。本当に正直で失礼な従者だ。
レイチェルはなぜか顔を赤くして肩を震わせて「やだ」と呟いた。
「…これ、ドリー以外には?」
「見せるもんか。…ああ、いや。絵の先生は見たな。何を描いたか検討がつかなくて戦かれたけど」
俺は熱心に絵の教授の継続を頼んだのだが、涙を流して断られたのだ。手を尽くしても人並みレベルにするのも不可能だと言われて絶望した。
それでも描くことは好きだし、諦めてはいない。喜ばないかもしれないが、いつか海や異国の風景を描いてレイチェルに贈りたいと思う。
「恥ずかしいから他の人には見せないで」
蚊の鳴くような声でレイチェルは言った。
「ああ、うん。下手すぎて恥ずかしいから見せないさ。というより、どうしてレイチェルが恥ずかしがるんだ?」
そんなに絵の下手な夫は駄目なのかと少し傷ついた。さっきは欠点があった方が可愛いと言ってくれていたが、実物を目にして幻滅したのかもしれない。
「だって、この絵のモデルは私でしょう?」
心臓が止まりそうになった。今まで人物画とすら認識されなかったせいか本人に見せてもわからないと鷹をくくっていたのだ。恥ずかしさのあまり頬に熱が集中した。
「うへぇ!?レイチェル様だったんですか。生産性がないことにまるで興味がないティルナード様が随分熱心で怪しいと思ったら、道理で」
失礼なドリーは身震いした。
「…わかったのか?どうして」
「何となく。そうじゃないかと」
「下手すぎて恥ずかしい?」
モデルに選んでおきながら下手に描いて怒っただろうか。気持ちが萎れていった。
「そうじゃなくて。ティルが私ばかり描いているから」
「しょうがないじゃないか。好きなんだから」
迷わず即答していた。
レイチェルは身体を小さく震わせた。気のせいでなければ全身が赤く染まっている。
「もうっ!困った人ね」
そう言いながら、レイチェルは絵を優しく指で撫でて笑った。
「一枚貰ってもいい?」
「駄目ですよ。本当は見せるつもりはなかったんだから」
「…でも欲しい」
「絶対に駄目。持ち出し禁止です」
珍しく粘り強くねだられて俺は唸った。彼女の願いは叶えたいし、欲しいものは贈りたい。が、これは絶対に駄目だ。俺が恥ずかしい。贈るなら、せめて上達してからだ。
「物々交換ならどうですか?」
レイチェルは俺を見上げて言った。
「物によります。が、代わりに何をくれるんですか?」
ちょっとやそっとの物では譲らないぞ、と固く決意した。
これから、この絵を彼女の傍で見つける度に渋い顔をして心のなかで悶えることになることは間違いないだけに。
レイチェルは懐から薄い包みを取り出して、俺に差し出した。
「…ティルの誕生日に何もできなかったから。遅くなったけど」
包みを開ければ、ここ数日彼女が刺繍を施していたハンカチが出てきて俺は息を呑んだ。ハンカチには何かはわからないが、見事な花とイニシャルが縫ってあった。
俺に最初からくれるつもりだったらしいと気づいて、遠回しに邪魔したことを後悔した。涙で視界が霞んだ。何せ、彼女に残るものを貰うのはこれが初めてだ。
「ありがとうございます。大事にします」
そこで絵に目線を落として、苦悩して唸った。
「…上手く描けるようになるまで待ってもらえませんか?」
「嫌です。待てません。いつになるかわからないもの。それに、私はこれがいいんです」
却下されて俺は息をついた。
「…わかりました。一枚だけですよ」
最終的に俺は折れた。ここまで欲しがってくれているものを断る理由はない。
レイチェルは嬉しそうに一枚だけ選んで胸に抱き締めた。
「何に使うんですか?」
「別に。見て眺めるだけですよ?」
「それだけ?」
拍子抜けしたように声を上げればレイチェルは唇を尖らせた。
「好きな人の描いた絵をただ眺めてはいけませんか?ティルは本当に夢がないのね」
「悪かったな。そんなものより、他の物の方が」
それこそ高価な贈り物や本の方が喜びそうだと思うのに、レイチェルはまるで宝物を見つけたようにそれを大事に抱き締めている。本当に変わっている、というか、彼女がよくわからない。
「ティルだって私の手作りを欲しがるくせにおかしな話だわ」
そこまで言われて漸く納得した。
「今度また」
「はい」
「描こうかな。君をモデルに。他にも二人でしたいことが沢山あるんだ」
したいこと、とレイチェルは唇を動かして、思い出したように渋い顔で言った。
「いいけど。遠乗りは駄目よ?馬には一人で乗れないからティルに絶対に迷惑をかけてしまうもの」
彼女は馬が怖いらしい。そして、一人で馬に乗れないのは俺にとっては好都合だった。
「一緒に乗るから怖がらなくても。珍しい花が咲いている花畑を見つけたんだ。レイチェルもきっと気に入ると思う。ただ、馬車では入れない場所だから」
昔と違って、彼女を抱えて馬に乗れるぐらいには身体は大きくなった。今なら従者の手を全く借りなくても彼女を乗せておろすことができる。
ちらりとレイチェルを見れば気持ちが揺れているのがわかった。
「空気も綺麗で近くに小川が流れているんだ。暑い日に小川に足をつけて二人で涼むのも悪くないんじゃないか?屋敷だとワトソンが絶対に許してくれないだろう?」
レイチェルは行く気になったらしい。俺の服を掴んで上目使いで聞いた。
「…置き去りにしない?」
「するはずがないだろう!」
人気のない場所ならレイチェルも思いきり甘えてくれるに違いないという邪な気持ちはあれど、彼女を置き去りにするなど論外だ。相変わらず信用がない。レイチェルは俺を何だと思っているんだろう。
「レイチェル様。心配しなくても二人きりではないので大丈夫ですよ。俺とマリアも同行しますから」
「…まさか、ついて来るつもりか?」
「何をそんなに驚いているんですか?当然です!護衛なしで遠出デートなんて何があるかわからないじゃありませんか!それが罷るとでも?まずワトソン爺さんが許しませんって」
珍しく真っ当なことを言うドリーに唸った。俺一人なら放っておくくせに、と心の中で一人ごちた。
「…ついてくるのは仕方ないが、絶対に視界に入らないように一定の距離は保てよ?」
「わかってますって。オペラデートの時みたく、つかず離れずの距離で景色に紛れて生暖かく見守らせて頂きますよ。ただ、今の情勢だと、それもすぐには無理でしょう?それまでにレイチェル様はサフィー様と乗馬も習っては?」
レイチェルはドリーの提案に頷き、俺はがっかりした。
馬車の事故の犯人が捕まっていない事実を思い出して、俺は苦い顔になった。
「その後の進展は?」
「気になることが一つ。エーベ子爵…宰相様について」
「何かわかったのか?」
「出入りの業者に聞いたところ、ある時点から別人のようになったとの情報がありましてね。垣間見ただけですが背格好と雰囲気が変わった、と。あと、一族の墓が」
「墓?」
「調査の一貫でロバートが見に行ったところ、掘り起こされた形跡がありまして」
レイチェルは口元を押さえた。
「別人になったという時期は?」
「丁度、例の元王兄様が亡くなられた時期と被ります。というか、エーベ子爵様はおかしいんです」
「何が?」
「元家庭教師によれば、落第生で性格も気弱で大人しくて優しい人で、大それたことをできるような人ではなかったと」
良くも悪くも優秀で狡猾な元宰相の人物像からはかけ離れ過ぎていた。
「入れ替わりか。とすると、本人は土の中だな」
顎に手を当てて俺は言った。
「恐らく。数少ない目撃証言によれば、おどおどした猫背で小柄な生来病弱な方だったそうですね。人相が元宰相様とは大違いなんです。王宮でお見かけしたお姿はご健勝そうで大柄な方でしたから」
「エーベ子爵と入れ替わっている人物が元王兄殿下だとしたら、彼は存命ということになるな。エーベ子爵の死因と何のために入れ替わったのかという疑問が残るが」
入れ替わりのために殺されたなら大問題だ。
「恐らくは病死でしょうね。流行り病にかかっていたらしいんです。入れ替わりの目的と元宰相様の現在の居場所を知るには陛下に頼むしかありませんが…。手がかりは恐らくは前国王陛下の遺品にあるかと」
「何も残っていないかもしれない。国王陛下は父王を嫌っていたから」
もし、仮にこうなることを予測して予め嫌われるように振る舞っていたとしたら元国王陛下は愚王という噂と違って随分強かな人物だ。しかし、目的がわからない。
愚王と侮られながら元王兄と悪事を共謀して彼に何か利があっただろうか。
仮面舞踏会の一斉検挙で国内の主だった悪徳貴族の大半は芋づる式に投獄できた。これには元宰相の残した交友関係のリストが大きい。しかし、疑問が残っていた。
予め感づいていたように宰相は煙のように姿を消していた。感づかれていたとしたらなぜ、悪徳貴族達には情報を流さなかったのか。リストだけが残っていたのも不自然だ。当時は処分する暇がなかったのだろう、と安易に片付けられたが、よくよく考えれば身の回りのものを全て整理していたのに、一番に処分したいリストだけ残るのはおかしな話だ。
「まるで見えない糸で操られているような、不愉快な感じだ」
「知らない間に誘導されている、と?」
「レイチェルが巻き込まれたのも計算づくかもしれない」
ばら蒔かれた餌を追いかけさせられている…そんな気がしてならない。彼女を巻き込んだ目的はわからない。
「わかりませんね。失うばかりで得るものがない」
取引相手の巨悪が捕まれば、これまで得ていた利益がなくなる。それは悪徳宰相としては大きなデメリットのはずだ。
「自分を探して捕まえてほしいのかしら?」
レイチェルがぽつりと呟いた。
「え?」
ドリーと二人で顔を見合わせた。
「元宰相様の目的が違うとしたら?」
「レイチェル様。失礼ですが、元宰相様が捕まりたかったのなら、なぜ仮面舞踏会の時に逃げたのでしょう?」
「時期ではないから、かしら?他にもやらなきゃいけないことがあって捕まるわけにはいかなかったとか」
「腐敗した王宮から膿を出すために悪役を買って出た、というわけですか。だとしても納得がいかないな。馬車の事故で貴女は死にかけたんだ」
しかし、元宰相が悪人ではなかったとしたら、馬車の事故は腑に落ちない。あれは立派な殺人未遂だ。
「計算外だったのだと。殺す気はなかったんだわ、多分。ドリーも言っていたでしょう?ちょっと怖がらせてやれ、程度の悪戯だったと。まさか馬車の扉が開いて私が外に放り出されるとは予想外だったのでは?」
「それにしたって、なぜレイチェルが一緒にいる時をわざわざ狙ったんだ?」
「ティルを確実に巻き込むため、かしら?ティルを動かせば王弟殿下が動くわ」
「レイチェル様を巻き込めばティルナード様の逆鱗に確実に触れます。それが元宰相様には好都合だったと。しかし、次は何をさせたいんでしょうかね?」
「…オークションか。殿下に相談しないと」
俺は呟いていた。カタログには信じられないことにレイチェルの名前があった。しかし、黒幕の大半には寸でのところで逃げられた。
レイチェルは何かを思い出したように目を泳がせた。
「レイチェル?」
「あの…ティル。実は昨日、あの後、殿下に個人的にお食事に誘われたのだけど」
俺は内心、動揺しながらも何とか口角をつり上げた。
「へぇ?殿下に」
「行くんですか?」
ドリーが楽しそうにレイチェルに聞いてきた。
「気は乗らないけど、個人的に言っておきたいことがあって」
行かない、と言ってくれることを期待していた俺は肩を落とした。
「何をです?」
「ティルには秘密、です」
一瞬頭が真っ白になったが何とか立て直して俺は食い下がった。
「…俺も一緒に行きます」
「駄目。ティルは明日お仕事でしょう?」
レイチェルは小首を傾げて言った。ライアンあたりから聞いたらしい。
「ティルナード様、お仕事はしないと駄目ですよ」
ドリーがしたり顔で言った。が、お前にだけは言われたくない。
「心配しなくても今回はお食事をするだけみたいだから大丈夫です。それに今回はサフィー様とマリアも一緒です」
俺は最終的に折れた。あまり食い下がって彼女に軽蔑されるのは嫌だ。それに、彼女はきちんと俺に相談してくれたのだ。
マリアとサフィーに言い含めて、また厄介事に巻き込まれそうなら引き上げさせよう、と思った。




