閑話~公爵子息の休日事情~
屋敷に着いて一番に確認したのはレイチェルの隠し事の内容だ。従姉から結婚祝いのお返しをもらったらしいのだが、知らなかった俺としては腑に落ちない気持ちで首を傾げた。隠されると余計に気になるものだ。
レイチェルが湯あみに行っている隙をついてマリアに聞けば、あっさり彼女は衣装箪笥の奥深くにしまいこまれたそれを俺に差し出した。受け取って首を捻った。
単なる透けた薄い布だ。形状からは用途が全くわからない。ガウンのように重ね着にでも使う服だろうか。
とはいえ、もらった以上は一応は使ってみてから礼状を贈るのが礼儀だろう。
「…何に使うものだと思う?」
「レイチェル様にお聞きになれば良いではありませんの?着るようにお願いしては?」
「着る、ということは服か」
マリアは神妙な顔で頷いた。ふとドリーが部屋の隅で無音で大笑いする姿が目に入った。それだけで何となく嫌な予感がした。
これは確認する前にレイチェルに頼んだら大変なことになる予感がした。
「これは何なんだ?」
ドリーに向けて問えば、ドリーも神妙な顔を作り、「レイチェル様に着てくださいってお願いしたらいいじゃないですか?」と口笛を吹きながら言った。
埒があかないと痺れを切らした俺はワトソンにこの布が何かを尋ねることにした。ワトソンもわからないらしく、廊下で二人で顔を見合わせながら首を捻った。「着てもらっては?」と言うからには服には違いない。が、素直に奴らの言う通りにして良いものか。からかわれている雰囲気を察知して俺は警戒した。
丁度その時、サフィーが通りすがって、俺の手の中の布を見咎めたように眉をひそめて言った。
「お兄様、女性物の寝間着なんて握り締めて何をなさってるの?」
「……………これが寝間着、だと?」
予想外の答えに思考回路が停止した。
「正確には下着風の寝間着ですわね。それにしても随分いかがわしいものをお持ちですのね?まさか、お姉さまに着せようとなさって?」
「わざわざ作ったのか」と、汚らわしい物を見るような目で見られて俺は耳まで真っ赤になって、ぶんぶん首を振った。
ワトソンもわずかに頬を赤らめた。
「ちがっ!?誤解だ、これは。その…知らなかったんだ‼」
着てくれと素直に頼む前で良かった。頼んでいたらレイチェルに誤解されて白い目で見られたかもしれない。他意はない。
「また、ドリー達にからかわれたんですのね?」
「いや。レイチェルの従姉からの贈り物なんだ」
唸るように俺は言った。からかわれているとしたら、そちらだ。或いは至極真面目に贈られたのかもしれないが、彼女の従姉は掴み所がないからわからない。
「あら?では試しに使ってみてお礼を書かなくてはいけませんわね」
「無理だ。一緒に寝ているんだぞ?こんなものを着て傍で眠られて何もしない自信がない」
「目的としては正しいと思いますわよ?お二人はご夫婦ですもの。何もない今の方がおかしいのですわ」
サフィーは冷静に突っ込んだ。
「とにかく教えてくれて助かった。危うくレイチェルに頼むところだった」
知らずにセクハラを働いて愛想を尽かされて実家に逃げ帰られるところを想像して冷や汗をかいた。
「頼んでも大事にならない気がしますわ。一通り大笑いして満足したらドリー達が上手く誤魔化すかとりなすかしますわよ」
「……あいつらとは一度話す必要があるな」
俺は深く溜め息をついた。
とにかく、レイチェルが湯浴みから戻る前にこれは元の場所に戻す必要がある。見たことがばれると気まずいし、どういう反応をすればいいかわからない。彼女が隠したがった理由を漸く理解した。
自室に戻ればレイチェルは既に湯浴みを終えてしまったらしい。
仕方がない。後で戻すことにするか。
俺はそれをクローゼットにしまいこんで、あくびを一つして彼女の部屋に向かった。
※※※
レイチェルは最近、ずっと縫い物をしている。ハンカチに刺繍をしているようだ。
随分器用だな、と俺は傍で感嘆しながらそれを眺めた。母の刺繍を思い出して自然と笑いがこぼれた。
布からあちこち解れた糸が飛び出ていて、あれはよくわからないものになっていた。それでも父は母の傑作を誉めて大事に持ち歩いている。
レイチェルは図案通りに丁寧に一針一針刺している。
「手元が狂うから、あまり見ないで。退屈でしょう?天気も良いし、出掛けて来たら?」
俺の視線に気づいた彼女は布から目を上げて困ったように俺に言った。
「退屈はしていない。こういうものなのかと思うと面白い」
基本的に俺はレイチェルを眺めるのが好きだ。全く飽きないどころか、時間が足りない。一緒に過ごせなかった時間が長い分、彼女が伯爵邸の中でどう過ごしていたのかが何でもない時に伺い知れて楽しくさえある。
「ティルは刺繍もできそうだわ」
レイチェルは手を動かしながら複雑そうに俺を見た。
「いや?刺繍はやったことがないな。簡単な釦つけと繕い物ぐらいなら何とか。教えてくれたらできるかもしれないけど」
「…釦つけと繕い物はできるのね」
感心したようにレイチェルは言った。
「近衛はほぼ男所帯だし、訓練やら捕り物やらで服が解れることがあるんだ。王宮仕えの侍女にでも頼めばいいんだろうけど」
レイチェルは不思議そうに首を傾げた。なぜ、そうしないのか問いたげだ。
「面倒が多いんだ」
制服がまともな状態で返って来ないわ、頼んでもないのに押し掛けてくる侍女が多いわで面倒になってしまった。自分でやった方が効率的で早いと気づいた。今じゃ、そこらの侍女に負けない自信はある。なまじ上手くなったものだから部下からも頼まれることが多い。出会いを求めている侍女からは恨まれているぐらいだ。まさか俺がやっているとは夢にも思っていないだろうが、近衛に繕い物の謎の乙女がいるという噂が立っているらしい。
「ティルは結婚しなくても一人で生きていけそう」
「レイチェルは本当に意地悪だな。ところで、そろそろ休憩にしませんか?」
俺はうずうずしながらテーブルに顎を乗せてレイチェルに提案した。
レイチェルを傍で眺めるのは楽しいが、あまり、こちらを見てくれないのは不満だった。最近わかったことだが、俺は父親に似て淋しがり屋らしい。
刺繍の邪魔はしたくない。だから、キリが良いところで切り上げてほしい。
「もう少し」
「それはどのくらい?」
「あとちょっと?」
集中して手先を動かしながらレイチェルは疑問系で小首を傾げた。
我慢できなくなった俺は身体を起こして彼女の身体を後ろから抱き込んで頭に顎を軽く乗せた。
「……重いのだけど。休憩なら先にしていても…」
レイチェルは漸く手を止めて上目使いで俺を見上げた。
「一緒がいい」
俺は彼女の手から道具を取り上げてテーブルの上に置いた。
いっそ刺繍も覚えて手伝えれば彼女ともっと一緒にいられるのでは、と思った。
レイチェルは苦笑いしながら俺を見つめた。
「子供みたい」
「元からこういう性格だよ。趣味に君をとられるなら禁止するしかないな。そんなに急ぐなら手伝おうか?」
ぎゅっとレイチェルの手に指を絡めた。
「…それでは意味がないの」
レイチェルは頬を染めて目を伏せて、少し不機嫌に唇を尖らせた。
何だ、その反応は?
心の中で動揺しながらも努めて平静を装った。俺は彼女を信じている。レイチェルに限って浮気はしない…はずだ。
先程まで楽しいと思っていたのはレイチェルが自分のために刺繍をしていると思っていたからだ。
「ね、ティル。本当に私のことは放って楽しんで来ても」
レイチェルは俺を気遣うように言った。
「俺が傍にいると不都合でも?」
「そうではないけど、ここ最近休みはずっと私と一緒でしょう?」
「問題はないだろう」
「私と違って友達付き合いがあるのではないかと」
「…よくわからないけど、それなりにはしているよ。今日は元々誰かと会う予定はないし、レイチェルは俺に一人で楽しんで来い、と?」
友人は大体が王宮勤めだから職場で顔を会わせることも多い。地方に住んでいる奴とも手紙のやり取りをしたり、共通の友人の結婚なんかで会ったりはしている。
元々今日はレイチェルと二人でゆっくり過ごす予定で空けていた。
恨みがましい声を出せば、レイチェルは考え込むように顎に手を当てて、暫くして窓の外を見て小さく頷いた。
「ティルが退屈じゃないなら外で一緒に日向ぼっこでもしましょう…か?」
レイチェルは自信なさげに提案した。俺は「一緒に」の部分を聞いて頷いた。
レイチェルが刺繍道具を再び手にとって立ち上がろうとしたので、俺は微笑んですかさずそれを取り上げた。
「ティル?」
「それを持って行ったら休憩にならない。誰にやるつもりかわからないけど」
ぼそぼそと後半は聞こえないぐらいの小さな声で呟いた。
やりかけの見事な刺繍に目を落として、贈られる誰かに嫉妬した。ルーカスか家族にでも贈るのだろうと予測した。
レイチェルはやれやれ、と駄々っ子を見るような目で俺を見た後でマリアに頼んで敷布と掛けものを用意した。
縦長に丸められたそれらをレイチェルは小さな体で両腕で抱きつくようにして持って、ふらふらと酔っぱらいのように歩き出そうとしたものだから、俺は彼女の腕から荷物を奪い取った。
マリアは面白がるように目だけで笑っている。わざとだ。
「持つから。マリアも。レイチェルにはどう見ても無理だろう?」
レイチェルの足の怪我はうっすら跡が残ったものの完治した。もう杖は使っていない。歩くのは問題ないが、平常でも彼女の体より大分大きいそれを持ち歩くのは無理だ。
「このぐらい持てますよ」
ムッとしたように言うレイチェルに俺はふう、と息をついて指摘した。
「前が見えていなかったじゃないか」
「見えてます」
後ろに目がついていない限りはそんなはずがない。
「はいはい。そうですか。いいから。力仕事は俺に任せて下さい」
目を離せばすぐ無理をするレイチェルを嗜めるように言った。
彼女と二人で邸の外に出て、中庭の大きな宿り木のある木の下に向かった。木陰から丁度木漏れ日が差し込んでいて、木の葉がさわさわと揺れている。
敷布を頼んだのはここで日向ぼっこをしようと考えていたかららしい。俺は木の下まで着くと敷布を敷き、掛布をその上に置いた。
後から追いかけてきたマリアがお茶と軽食を入れたポットと篭を置き、すぐに下がっていった。
俺とレイチェルは隣り合って木に凭れるようにして敷布に腰を下ろした。
「良い天気ですね」
レイチェルは目を細めながら言った。
「屋敷に引き込もって刺繍に没頭するには勿体無いぐらいには」
「…もう!ティルは根にもつタイプだわ」
「無駄に記憶が良いから仕方ない」
見つめあって自然と唇が重なった。
唇を離すと俺達は顔を見合わせてくすくすと笑った。
肌を撫でる風が心地よかった。会話はなかったけど、ふとした瞬間に目が合う度に幸せだと思った。
お茶を飲み終えた後、レイチェルはおもむろにぽんぽんと膝を叩いた。意図がわからず俺は首を傾げる。
「お腹も満たされたところでお昼寝はいかがでしょう?」
赤い顔でレイチェルは視線を泳がせながら言った。
「レイチェルが枕になってくれるということですか?」
まじまじと彼女の膝を見つめて確認のために聞き返せば、彼女に「言わせないで」と言わんがばかりに軽く睨まれた。
遠慮がちに横になり、レイチェルの膝の上に頭を乗せれば、レイチェルの指が俺の頬に触れた。
「…寝心地は悪くない?」
不安げに覗き込んできたレイチェルを見て、俺はぼーっと赤い顔で彼女を見つめた。
「凄く良いし、夢みたいに幸せだ」
「大袈裟」
「そんなことはない。ずっと前からの憧れだったんだ」
「膝枕が?」
驚いたようにレイチェルは言って、傍らに置いていた掛布を俺にかけた。
「昔、こんな風に介抱してくれたことがあったでしょう?」
彼女は目を丸くして、「あ」と声を漏らした。
「…そんな昔のことを覚えていたの?」
「あの時はドリーが早く来てしまって凄くがっかりしたんだ」
「ティルって意外と甘えん坊だったのね」
呆れたようにレイチェルは俺の髪を撫でながら言った。
「レイチェル限定です。他の女性にされると不愉快なんだ」
「…されたことがあるの?」
「膝枕は流石にないけど、髪を触られたり、腕にしがみつかれたり、抱きつかれたりは…」
するすると白状しかけて俺は言葉を詰まらせた。レイチェルは「ふうん?」と髪から手を離して不機嫌に口を歪めた。
「レイチェル?」
「…ティルは意外と隙だらけで無防備だわ。婚約直後も私の目の前で無防備に転た寝するんだもの。頭を膝に乗せるのなんか凄く簡単でした。意識がない時に私に襲われたらどうするつもりだったの?」
レイチェルは胸をつんと反らして俺に説教するように言った。
「レイチェルは忘れているかもしれないけど俺は最初から君と結婚したくて婚約したんだ。襲われたら凄く喜んだだろうな。あの時、君は全く俺に興味がなさそうだったし?」
レイチェルはみるみる内に耳まで真っ赤になった。
「補足すると、俺は君以外の気配には敏感だ。ワトソンやドリーに確認してもらえばわかることだけど。君の従兄も言っていただろう?レイチェルの傍だと随分隙だらけなんだな、と」
思い出したらしい。彼女の肩が小さく震えたのがわかった。
「……もう寝たら?」
「勿体無くて寝られない。前にしてもらった時は随分悔しかったんだ。何で、起きなかったんだって」
レイチェルは吹き出した。
「ティルは本当に大袈裟だわ。膝枕ぐらいいくらでも」
「本当に?」
「え…ええ?」
俺は食いつき、レイチェルは戸惑うように頷いた。約束をとりつけようとして、ふと思い出した。
「そういえば、昔した約束の内容を更新したい。君に嘘をつかないのは大丈夫だけど、許可なく近づかない、触らないというのは絶対に無理だ。既に我慢できていなくて大分破ってしまっているし」
レイチェルに触れるのに、いちいち本人の許可をとらなければならないなんて拷問だ、と思う。婚約当初もなるべくは声をかけてから触れて節度ある距離は保ってはいた。が、両思いの今は無理だ。
「まだ覚えていたの?今更だわ」
呆れたようにレイチェルは息をついた。
「今更だと思う…が、曖昧に濁しておくと君はふとした時に例の約束を持ち出さないとも限らないだろう?」
これは確信に近い。
不平等な約束は早急に撤廃して後顧の憂いは断っておくに越したことはない、と俺は思った。特に喧嘩した時などに持ち出されたら不都合だらけだ。
「構わないけど、更新って具体的にどうするの?」
「もっと仲良くなるためにお互いの要望を出し合うのは?」
昔した約束も守れば俺にも、それなりに見返りがあった。が、今は全く足りない。
レイチェルは頷き、試しに俺の要望の一つを聞いて赤面して首を凄い勢いで振った。
「無理無理無理無理無理!無理ですからね!」
「レイチェルからキスするのはそんなに難しい?」
「…毎日は無理。大体、私からキスしたらティルは何をしてくれるの?」
「お返しにレイチェルにキスするのは?」
レイチェルは考えるように目を上げて、半眼を閉じて口を開いた。
「それ、ティルと二回キスすることになって結局一緒じゃない」
俺は舌を出した。
「…気づいたか」
「もう!」
レイチェルは唇を尖らせた。
「俺とキスするのはそんなに嫌ですか?」
「嫌じゃない…けど自分からは凄く恥ずかしい。……そうね。キスの時にティルが抱き締めてくれるなら考えてもいいわ」
俺が二つ返事で頷けばレイチェルはみるみる内に顔色を変えた。俺にはレイチェルがそんなに抵抗する意味がわからない。別に口にしろ、とは言っていない。
他にも一緒に過ごす時はなるべく他のことをしない、などお互いの要望をだしあい、ちょっとした約束をした。
こうして、俺は無事に昔の約束を撤廃することに成功した。
「それは今日から?」
「勿論」
レイチェルは周囲をきょろきょろと見回した後、心を落ち着かせるように息をついた。それからゆっくり、俺を覗きこむように顔を近づけた。思いがけず唇と唇が重なって、俺は眼を見開いた。
彼女がやたらと躊躇った意味がわかった。
「…レイチェル。大変申し訳ないけど、この姿勢だと抱き締められない」
俺はぼーっとする頭で仰向けで膝に頭を乗せたままレイチェルに指摘した。
レイチェルは俺の指摘に気づいたように唇をわなわなと震わせた。先程のキスがまさかのノーカウントな事実に気づいたらしい。
「後で!後ででいいですから」
「さっき、キスする時に抱き締めてと言ったのはレイチェルでしょう?」
俺はゆっくり身を起こしながら頬を掻き、それから狼狽える彼女がおかしくなって笑ってしまった。
「…笑わないで」
「ごめん、ごめん。レイチェルが可愛すぎてつい」
笑いがおさまると、彼女を抱き寄せて唇をぴったりと合わせた。
木漏れ日が差す木の下で、見つめあって額を寄せあって、また笑いあった。お互い気持ちが通じあっているというのは実に幸せだと実感したのだった。




