56.喜ばせたいと思ったのですが
目覚めて、隙間なく夫となった人の腕に包みこまれている自分に気づいて困った。更に困ったことに体が固定されていて動かない。逃がさないと言わんがばかりにしっかり抱きつかれている。嫌なわけではなく、むしろ、暖かくて安心してうとうとと眠くなる。
二度寝しようとしたところで、彼の大きな手が首筋を撫でた。くすぐったくて笑いが零れそうになるのを堪えた。何度かうなじ付近を撫でた後、彼は私の首筋に唇を落とした。ちくりと甘い痛みが走って私は動揺した。
ティルに意識はない。完全に寝ぼけている。他の女性の名前を呼ぼうものなら叩き起こしてやるところだが、彼は蕩けるように甘い声で「レイチェル」と呼ぶのだ。間違えているわけではないから怒るわけにもいかない。が、面白くはない。彼には意識がなく、目覚めるとすっきりしたような、涼しい顔をしている。私だけあたふたしているのが馬鹿みたいだ。
なら起こせと思うかもしれないが、できるなら寝かせてやりたい。結構遅くまで彼の帰りを待っているのだが、最近はいつも私が眠りに落ちた後にこっそり起こさないように戻ってくるのだ。
ティルの手が滑るように私の胸元を掬うように撫でて、びくっと硬直した。これは初めてのことではない。今までに何度かある。確認するように輪郭をなぞるように撫でた後、おもむろに鷲掴まれて私は頭が沸騰しそうになった。
執拗に確かめるように揉まれて、流石に我慢していた声が漏れた。と同時にティルが起きて、「やってしまった」という顔で私を見た。無意識のことで、咎めてはいけないのはわかっている。だが、無意識だからこそ許せないことがある。これは初めてのことではない。
ただ触るだけなら何とも思わなかったかもしれないが、触り方に他意を感じた。あるはずのものがないのを確認するように執拗に確かめる動きが私のコンプレックスを刺激した。
胸が慎ましいのも年齢より大分幼く見えるのも私は結構気にしている。ないものはないし、身長や体型はどうしようもない。しかし、意識がない時のティルは凄く正直だ。
何度触ろうとないものはない、と私は訴えていた。勿論、なければある人の物を触ってもらえばいいだけの話かも知れないが、狭量な私にはそれを容認できない。ダンスや他の仕方がないことなら許せても、だ。
ティルは誤解だと言った後、なにかを言いかけた。それから何かに気づいたように真っ赤になって、鼻血を垂らした。疲れているのだろうか。ティルを馬車馬のように使っているなら一度王弟殿下には文句を言わなければ、と思った。
ドリーは興奮したせいだ、と言った。
私は自分が面白味がなく、魅力に欠ける女だと知っている。未だにティルとも気のきいた会話ができないし、途切れてしまう。だから、私が楽しくてもティルは退屈していないかと時々不安になる。彼に飽きられて要らない、と言われるのが怖い。間近で体温を感じるのは安心する。だから、別々に休むのは嫌だと思った。
ティルは私に甘い。毎日屋敷でのんびり過ごしているだけの私に「何もしなくていい」と言う。しかし、一応書類上は結婚し、体調も回復した今はそうはいかないと思う。母にも「旦那様が貴女を甘やかすからといって、いつまでも堕落した生活を送るのは駄目よ」と、この間来た時に苦言を呈された。察しの良い母は私が屋敷で何もしていないことに気づいたらしい。「具体的な心構えを教える前に嫁に出すことになったことは本気で後悔しているのよ」と言った。当初は半年後に嫁ぐ予定だったので、私も母もそのつもりで悠長に構えていた。書類上の結婚を同意した時も、意図が全くわかっていなかった私はてっきり結婚式まではこれまで通り伯爵家で過ごすのだと思っていた。公爵家でこのままティルと一緒に暮らすのだ、と病床で聞いた時は目が点になった。私が嫌ならティルが式までうちに住み込むと言ったが、想像して「それだけはできない」と思った。慎ましい我が家に彼の存在は違和感が半端ないし、気を使う。父の頭がストレスで禿げ上がり、ジェームスの胃に確実に穴が開く。ティルが大丈夫でも、うちの兄以外の家族と使用人が全く大丈夫じゃない。加えてサフィー様の「あら?面白そうだから私もご一緒しようかしら?」が決め手になった。小心なジェームスが血圧が上がって天に召されてしまうのを阻止するには他に選択肢はなかった。
仕事や領地のことは半年後までに覚えれば良いのかもしれないが、同居してみて伯爵家との違いに気づいて危機感を感じた。実際、ワトソンに聞いてみたら領地も産業も全く違うし、覚えなければならないお付き合いのある方々の名前から業者の名前まで結構多くて焦った。婚約当初に時間を巻き戻したい。あの時は彼と本当に結婚すると思っていなかった。だからではないが、紹介を受けた方々の顔と名前をあまり覚えられなかった。
覚えの悪い私は漸く公爵領の基礎知識が追い付いたところだ。手紙ぐらいしか書けない自分が不甲斐ないと思う。行く行くはティルの負担を減らせるように仕事を覚えなければと思う。彼から許可も出たので、今度領地視察や他の仕事を公爵夫妻やサフィー様について教えてもらおうと思った。
ただ、努力しても、どうにもならないことはあるものだ。
マリアに身支度を整えてもらいながら、私は姿見の自分を見た。
「本日はどのように致しますか?」
「…大人っぽくは…できないわよね」
私は息をついた。袖を通したのはふわふわした薄ピンクの可愛らしい上品なドレスだ。チュールとレースが何重にも重なっている。
こちらに住むようになった時、私の持ち物の少なさにサフィー様には驚かれた。このドレスもティルから贈られた物で私の持ち物ではない。元々華やかなドレスの持ち合わせはないし、行事ごとはいつも決まった格好だった。下着も服も数着しかない。今まではそれで障りはなかった。
今の私は既婚者には見えないらしい。せめて落ち着いた物を着るべきなのだが、現在無職の私は苦い顔になった。先立つものがない。結納の時に贈られた袖を通していない品々とその後も作られた物を考えればこれ以上は不要だと判断した。
低いヒールの靴をはきながら私は俯いた。マリアは何かを考え込むようにして私の様子を見た後、髪を丁寧に編み込み始めた。
「…お可愛らしい顔が台無しですわ」
マリアを見て、美人で羨ましいとため息をついた。
「あのティルナード様が夢中になるのです。自信を持ってください。ただの大人びた美人なら袖にされたかもしれませんわよ?あの人、美人にはあまり興味がありませんから」
「そうなの?」
「前のお美しい婚約者様との時は毎日不機嫌でつまらなさそうにされていましたわ。最近は楽しそうによく笑って随分ご機嫌ですが、フィリア様と婚約中は大変でしたわ。兄が」
「ドリーが?」
「ヴィッツ伯爵家の使用人に取り入ってレイチェル様の近況情報を手に入れたり、ルーカス様のご予定を網羅したり。一方でティルナード様がお忍びで伯爵領に通っているのが噂にならないように火消ししたり。特にハーレー元侯爵の耳に入らないようにするのが大変だったそうですわ」
よくよく記憶を辿って思い出して気づいたことだが、ティルと私は彼の婚約期間中にも顔を合わせていた。屋敷でもトーマスの親戚の庭師見習いボブとして、トーマスと三人で一緒に屋敷の庭に咲いた花を見て笑った記憶がある。
「美人なだけで愛されるなら苦労しませんわ。たった一人の大事な方が好きだと言って下さればそれでいいじゃありませんの」
編み込みが終わるとマリアはぽん、と私の肩を叩いた。
私を迎えにきたティルは「綺麗だ」と赤い顔で誉めてくれた。ティルは本当に私に対する評価が甘いし、人を乗せるのが上手い。思わず自分が美人なんじゃないかと勘違いしそうになる。
今日はサフィー様も一緒だ。招待を受けた時に行ってみたい、と言われたのだ。
招待を受けた時、リエラの性格の悪さを実感した。密かに彼女にだけは結婚の報告はしたのだが、「まさか君に先を越されるとは思わなかった」と揶揄するような一文が添えられていて顔から火を吹きそうになったのだ。「君の自慢の旦那様と夫婦で列席してくれると嬉しい」と書かれていて私は動揺した。自覚はなくても周りに指摘されると恥ずかしいものである。
頼んでみればティルは忙しい中で急いで予定を空けてくれた。無理ならルーカスに付き添いを頼もうと思っていたが、それを言えば、彼は「俺のエスコートに不服でも?」と不機嫌な顔になった。
馬車に三人で乗り込む。サフィー様は向かいに、私たちは隣り合って座った。
「…サフィーは行かなくても良かっただろう?」
「お姉さまと二人きりになりたい邪なお兄様のお気持ちはよーくわかりますが、私がご一緒しては不都合でも?」
「不都合だらけだ。普段は誘われても行かないくせに」
「お兄様こそ、普段は誘われても行かないではございませんの」
私は驚いて二人を見上げた。
「面倒だからだ。昔から、ああいう場でやたらと結婚相手を紹介されたし、迫られることも多かったから」
「…花嫁に告白されたこともありましたわね」
「断然フィリアの方が多かったけど困る。それに、今から結婚しようという相手の前で他の男に目移りして告白するなんて非常識だ」
私はそこでルイスの顔を思い出した。彼女もカイルの隣でティルに熱っぽい眼差しを向けていた。
「お兄様達と違って世の中の愛のない政略結婚はそういうものですわ。必ずしも好き同士が両想いで結婚なさるわけではなくってよ?お兄様達と違って」
私は赤くなって俯いた。
最初は一応は政略結婚の形をとっていたような気がする。実情は政略的な要素は全くなく、こちら側に好条件すぎる不審な点がばかりが目立つ婚約で警戒していた。私の後ろ向き思考は周囲を欺くために「名ばかりの妻を求めているのでは?」と勘繰ってみたものだ。
「…やけに絡むな」
ティルは涼しい顔で重ねていた私の手に自分の指を絡めた。
「…今のように毎日見せつけられればそうなりますわ。独り身には堪えますわ。お兄様達もお父様達も。人目を憚りませんし?」
苦い顔をするサフィー様に見つめられて私は居心地が悪くなった。
「サフィーも相手を見つければいい話だろう?」
「ええ。そうすることにしましたの。今日ご一緒することにしたのもそのためですわ」
サフィー様を私は凝視した。
今から行く先にはサフィー様のお眼鏡にかなう方はいそうにない。ギルバート様の親戚筋とリエラの親戚筋、それに友人関連だけだ。婚活なら規模の大きい王宮の夜会が一番だと思う。
「今から結婚なさる方々も仲睦まじいご夫婦になるのでしょう?先人に学ぼうと思ったのですわ」
サフィー様は扇子をぱちんと閉じて胸を張った。
「…あの二人は参考にしない方が良いと思います」
男女逆転カップルとはリエラ達のことだ。リエラが男らしくワイルドにリードして少女のようにギルバート様がついていく。昔から二人はそんな感じだった。
「お姉さまの話を聞いて私の理想に近いと思いましたの。お兄様の理想とは真逆ですわね。お兄様はお姉様をお姫様のように守ってリードしたいようですもの」
「別に俺のことは良いだろう」
「…実際はわからないように大分リードされていますわよね。お兄様はご自覚はあるようですが」
「ああ。まあ、いつも結局レイチェルの思い通りになっているな。けど、好きだし、そこも堪らなく可愛い」
ティルは頬を染めて呻くように言った。サフィー様は砂糖を丸かじりさせられたような複雑な顔をしている。
「…待って。人聞きの悪いことを言わないで下さいね。私はいつも、ティルを思い通りになんてしてませんから!」
風評被害も良いところである。むしろ、私こそ彼の掌の上で面白いように転がされているのに、まるで私がティルの主導権を握っているみたいな言い方だ。
「この間はお尻に敷いたじゃないか」
面白がるようにティルは言った。
「もう!どうして、そういうことを!あれは本に書いてあったから。そうすれば、もっと仲良くなれると書いてあったんです」
「色んな意味で甘かったな。ああいう甘さなら悪くない」
ティルは赤い顔で唇を指で撫でた。
そこでクッキーを食べさせあったこと、キスをしたことを思い出して、全身が火照って爆発しそうになった。あれはティルも悪いと思う。多分、彼は最初から私が色々間違っているのに気づいていて指摘しなかったのだ。
「お兄様、お姉さまが可哀想だから、からかうのはそのぐらいにして差し上げて。大体、何をなさったか想像はつきますが、相変わらずお熱いこと」
呆れたように見られて、私は更に小さくなった。今更ながらに大胆なことをしたと反省した。
「新婚はそういうものだろう」
ティルは上機嫌に言った。
「お兄様なら新婚でなくなってもしそうですわね。お父様がそうですもの」
そうこうする内に馬車が到着した。車止めでティルは私とサフィー様の手を順番に引いて下ろした。その後で私の腰を抱いて手をとった。私は今、杖を持っていない。晴れの場で目立つし、傍近くにティルが付き添うからと却下されたのだ。
会場に入れば、随分注目された。ただでさえ、ティルとサフィー様の美貌は目立つ。二人に見とれて、ため息をつく声が漏れ聞こえた。おまけな私は全然悔しくなんかない。
式は滞りなく進行した。花嫁姿のリエラは綺麗だし、花婿姿のギルバート様は凛々しかった。誓いの成句の後の口づけは二人らしいと苦笑いしたが。
見知った顔が私達に近づいてきた。アニーとグウェンだ。
「久しぶり。随分ひどい目にあったらしいね。全く見えないけど」
グウェンは相変わらず憎まれ口ばかりだ。私はべっと舌を出した。隣に立つティルは複雑そうに眉を寄せて私を見た。腰をぎゅっと引き寄せられて私は自分がはしたないことをしている事実に気づき、咳払いした。ティルは不安そうに私を見つめた。
「…レイチェルの妄想じゃなかったのね」
アニーは私の腰を抱くティルを驚いたようにしげしげと見上げて頬を染めた。
「はじめまして。レイチェルの婚約者のティルナード=ヴァレンティノです。レイチェルの親戚の方ですか?」
彼はしれっとした顔で言うが、実際ははじめましてではない。
アニーは変装したティルと会っている。今のティルの方が遥かに男前ではあるのだが。銀髪にサファイアブルーの瞳にすっと通った鼻筋、長身で端正な美貌は異彩を放って人目を引いていた。周りは皆、釘付けで、遠巻きに女性達がひそひそと色めき立って話しているのを肌に感じた。
「どこで釣り上げたのよ。こんな大物」
まるで私が巨大マグロを一本釣りしたような口ぶりにむっとした。
「…人聞きの悪いことを言わないで。それに、捕まったのは私の方だわ」
逃げたら追いかけられ、そして捕まったのだ。現在進行形で私は彼に捕まっている。ガチで。具体的にはがっしり腰を抱かれて、腕の中にいる。
「そうですね。レイチェルとは最初から俺の一目惚れで…」
「こ…この話は不都合がありすぎるから今度にしましょうか!」
頬を染めて馴れ初めを語り出しそうになったティルの口を背伸びして手で塞いだ。バランスを崩して倒れそうになったが、ティルは私を難なく支え、残念そうに見た。そんな顔をしたって駄目なものは駄目だ。
ダリアからティルののろけ話の概要を聞き付けた私は頭が痛くなったのだ。何でも嫌味で私のことを貶すつもりでティルに絡んだ令嬢はたっぷり長時間のろけ話を聞かされて涙を流したらしい。そして、嫁馬鹿と呼ばれるようになったという。
もっとも普段の彼は冷たい美貌の「氷の貴公子様」として有名である。この話は眉唾物として扱われていたのだが。その二つ名は水と油のように相容れないし、混ぜるな危険扱いである。
「…レイチェル。足を怪我しているんだから背伸びは危ないよ」
ティルは苦笑いしながら、私の腰を抱き直して髪を優しく撫でた。
周りは呆気に取られたような顔をしている。私は最近まで知らなかったが、ティルはあまり笑わないらしい。笑っても冷笑か愛想笑いといったところで、今のように甘さは含んでいないという。私にはこれが平常運転なのだが。
「ティルは人前で平然と俺の妹といちゃつくな。周りの迷惑だから」
ルーカスが苦々しい顔で私たちに声をかけた。ずっと見ていたらしい。
「君の妹が可愛すぎるから、つい」
しれっと信じられないぐらい人前で甘い台詞を言う彼に私は言葉を失った。
「当然だ。レイチェルが可愛いのはいつものことだ」
私はよろめいた。大分目が悪い夫と兄の夢の競演に穴があったら入りたい気持ちだ。申し訳ない気持ちでアニー達を見れば魂が抜けたような顔をしていた。
「本当にあなたが憎…いえ、羨ましい限りだわ。一体どうやったの?」
「何も。避けて逃げたら気に入られて追いかけられて捕まっただけだわ。特別なことはしてない」
ある意味、盛大に喧嘩を売っただけだとも言える。今思えば鼠が猫に挑戦状を叩きつけるような無謀な行為には違いなかった。よく無事だったな、私。いや、無事じゃないのか?
最初は彼の気を引きたくてやったわけでも悪気があったわけでもない。
「…それは普通じゃないわよ?」
「アニー。レイチェルは本当に特別なことはしていない。そいつに長年付きまとわれた被害者だ」
グウェンの険を含んだ、あまりな言い様に私は顔をしかめた。それも事実かもしれないが、微妙にねじ曲がっている気がする。
「お互いに一目惚れで相思相愛だったの。自覚がなかったから随分遠回りしたけど」
私は正直な話をした。恐らく、これが真実に近いのだろう。「お互い一目惚れ」に違和感はあるが。
「グウェンの言うこともだけど、それは無理があるんじゃない?だって」
ちらりと私たちをアニーは見た。言いたいことはよくわかった。
ティルと私は身長差がかなりある。加えてティルは端正で大人びた色気のある容姿をしているが、私はちびっこで平凡、童顔で色気がない。目付きも悪い。ティルと昔拗れてしまった原因はそこにある。
最初ティルは私を貶した。その後、急に態度が軟化して激甘になったのだが、私は彼の言うことが信用できなかったのだ。
殿下は私たちを小型犬と大型犬と揶揄していたし、兄妹に見えても夫婦に見えたことはない。私は唇を引き結んだ。
「過程はともあれ、お兄様とお姉さまが今は暑苦しいくらい愛し合っているのは確かですわ」
横で黙って聞いていたサフィー様が渋い顔で言った。
「…えぇ。それはもう、わかりすぎるぐらいわかりますわ。だって、あの、ださくて着るものに無頓着なレイチェルがお嬢様みたいな格好をしているし、レイチェルの手をとるティルナード様は見たことがないくらい優しくて甘い微笑みを浮かべているし。枯れた老人のようだったレイチェルは乙女のように頬を染めているしで、本当にびっくりよ!」
「枯れた老人は流石に酷いと思うのよ」
「あなた、現実の恋愛には全く興味ないって顔をしていたし、素敵な男性がいても目もくれなかったじゃない」
「それは…ティルのせいで」
私はもごもごと言い訳した。
「俺、ですか?」
昔からティルは王子様みたいだった。彼の優しさと激甘っぷりに一旦慣らされてしまうと他が見えなくなった。彼が迎えに来てくれなかったら私は一人で枯れたまま一生を終えていただろうから恐ろしい。
迷子になった時もかくれんぼの時もそうだ。図書館に連れ出してくれた時も女の子扱いをしてくれた上に「子守りじゃない」と庇ってくれた。これで、ぐらつかない方がおかしいと思う。ティルは私を鉄の心をもつ血も涙もない女のように思っていたかもしれないが、ふらふらと彼の手の内に落ちないように予防線を張るのに必死だった。全部勘違いなら私が居たたまれないからだ。
「とにかく全部ティルのせい、だわ」
「枯れたのもそうなの?その辺の話が気になるところだわ。詳しく」
アニーが詰め寄ってきて、ティルも納得いかない顔をしていた。
ティルが最初の婚約をした時点で私は既に彼に恋に落ちていた。彼が心の中を占めるようになった時点で私の潜在意識の中の男性の理想とする基準値が軒並み上がった。忘れてしまってからも恐らくは無意識に彼と比べていたのではないかと思う。
ちらりとティルを見上げて、くらりと目眩がした。
私はすっかり理想が高くなり、八年も前から彼以外とは結婚はできても、恋愛ができなくなってしまった。贅沢なことに最早彼以外は受け付けないようだ。あの美形の殿下と間近で腕を組んでも冷静で、全く何も感じないどころか不快感を感じる私の恋の病は重症だ。最近でも、一般的に格好よくて素敵だという男性を見ても、全く心動かずときめかない。
「その話はまた今度。アニーはその後はどうなの?」
「何もないわ」
「アニーは選り好み過ぎるんだ。リエラも言っていただろう?」
グウェンが呆れたように言った。
「…選り好みじゃないわ。自慢したい、人に羨まれたいと思うのはいけないこと?」
アニーが私とティルを見ながら口を尖らせた。私は苦笑いした。アニーの昔からの夢はお金持ちの格好良い男性と結婚することだった。
「…人の旦那と比べている時点でアニーはな」
「だってレイチェルはティルナード様と結婚するのに狡い」
「幸せかどうかは別物だぞ?人から羨まれるような相手と結婚できても、それが幸せとは限らない。世の中の政略結婚の大半がそれだからな。アニーは欲張りだ。同年代で金持ちでフリーなんて好条件が転がっているはずがない。そこの公爵子息だってフリーに見せかけて、ずっと一人の女に売約済みだっただろう?八年も前から」
グウェンはちらりと私を見た。
「…周りに自慢したいし、生活には困りたくない。それだけは譲れない」
「レイチェルはどう?」
面白がるようにグウェンは私に聞いてきた。
考えてみた。金持ちと結婚したからといって贅沢な暮らしができるとは限らない。それに私は贅沢な暮らしには興味はない。ティルの財産は彼のもので私のものではないし、お金目当ての結婚ではない。
「わからないけど、ティルがいればどんな生活でも良い」
「ティルナード様が平凡顔でお金がなくても?」
「そちらの方がむしろ有り難いわ」
想像して理想だと思った。平凡顔の彼とならそわそわしなくて不安を感じなくて済むかもしれない。同じくらいの生活水準なら気後れしないし、社交もいらない。生活水準が下がっても大好きな彼と一緒にいられるなら苦ではないように思う。むしろ今より一緒にいられるのではないか。
「…君の未来の奥さんが君の没落を夢見て目を輝かせているんだけどいいの?」
グウェンは口許をひくつかせて、ティルに向かって私を指差した。返品するなら今だ、と顔が失礼にも物語っている。
「レイチェルが喜ぶなら俺は構わない。爵位がなくても彼女の身の回りの世話をしながら生きていけるだけの生活力はつけてあるし、家事もできるから全く困らない」
「…君がレイチェルを養いながら世話まで全て焼くのか」
呆れたようにグウェンは言った。私も驚いた。
「レイチェルに家事はできないだろう?ついでに身支度も。市井で生活するならレイチェルが慣れるまでは俺が身の回りの世話を焼くしかない」
ティルに身支度も含めた身の回りの世話を焼いてもらう、と想像しただけで頬が火照った。やっぱり無理というか、駄目だ。暫くして慣れて感覚が麻痺して順応しそうだから怖い。
「…君が傍にいたら一生できないままだと思う。前から思っていたけど君は昔からレイチェルを甘やかし過ぎなんだ。迷子になれば探しに行くし、外に連れ出してやろうとするし、レイチェルの趣味には嫌な顔をせずに付き合うし」
「グウェンはティルと昔から知り合いだったの?」
仲が良さそうには見えなかったから意外だ。
「顔見知り程度にね。君らの仲の良さは有名だったから。もたもたせずに早くくっつけば良かったんだ。周りは皆、やきもきして迷惑していたよ。大分気を遣われていたんだぞ?ルーカスの妹である前に公爵子息が君を気に入っているから君に迂闊なことはできない、と。可愛がられて密かに大事に守られていたんだ。昔も今も、多分これから先もずっと」
「…仲は良くなかったと思う」
「どこが?彼が個人的に誘うぐらい君達は大の仲良しだっただろう?誕生日に個人的に誘われた女の子は君だけだったし、遠乗りも町歩きもそうだ。興味がない女の子をわざわざ誘うはずがない。彼が君の誕生日に毎年贈り物を用意していたのは知っているか?宝石やオルゴールなんて高価なものを用意してルーカスに突っ返されたり。大体、嫌いな女に会うために月四以上通わないし、嫌いな奴にキスしたりしな」
私はびっくりして顔を上げた。
「見たのか?」
グウェンの言葉を遮るようにティルは震えながら赤い顔で言った。
初耳だった。その前に外から見た昔の私たちの仲良しぶりを今更に突きつけられて意識が飛びかけていたのだが、知らない事実に無理矢理現実に引き戻された。
「偶然ね。唇じゃなく額にというあたりが君らしいけど。レイチェルといる時の君は本当に隙だらけだったからね。君は大事なものは壊さないようにしまっておくタイプだろう?」
「…キス、したの?」
まさか、と思った。当時ならあり得ないことだ。いや、当時もされていたと知っても不快には思わなかっただろうし、今となっては今更だ。それでも、動揺して無意識に唇がぱくぱくと動いた。ぎぎぎっとティルの方を見れば、彼は気まずそうに顔を逸らした。
「…出来心で、つい」
されたのは今ではないのに額に熱が集中した。
「どうして?」
「そのぐらい好きだったんです。俺が短気で待てないのはレイチェルもよく知っているでしょう?後で悪いことをしたと後悔したんですが、嫌われるのが嫌だったから絶対に言えなかった」
「…レイチェルはでこにちゅーぐらい許してやれ。唇でも、どうせファーストキスの相手も彼だったんだろう?そう変わらないじゃないか。君がはっきりしないで期待させるような態度をとるから。好きなら好きで言えば良かったし、嫌いなら嫌いできっぱり振ってやれば、ややこしいことにならなかったんだ。君は彼を生殺しに近い状態でほったらかすという、最も残酷なことをしたんだぞ?無自覚だからたちが悪い」
私は言葉に詰まった。
「ややこしいことって?」
アニーが首を傾げた。
「お互い気があるのにタイミング悪く彼に婚約が決まったせいで拗れたんだ。ヴァレンティノ公爵子息も迂闊だと思うけど。気になる相手がいる、ぐらい親に言っておけばややこしいことにならずに済んだのに」
「つまり、ティルナード様はずっとレイチェルが好きだったってこと?」
アニーが驚いたように目を瞬かせた。
「レイチェルが最初からそう言っているじゃないか。この二人は一目惚れの両想いだったんだ。レイチェルが意地っ張りだから認めて折れて結ばれるまでに八年もかかったけど。短気な割にはよくもまぁ、気長に待ったもんだ」
グウェンは付き合いきれないとばかりに肩を竦めた。
「八年も!?嘘でしょう?」
アニーはまじまじと私を見た。言いたいことはわかるが、失礼だと思う。
「…アニーもグウェンも失礼だわ」
「事実だろう。君が早く折れてやらないからだ」
「意外だな。グウェンはティルの味方はしないと思っていたけど?」
「気の毒だろう?二十も近いモテないわけではない男がわが従妹が最初で最後の交際相手なんて」
「…別に恥ずかしいことじゃない。婚約者が全部初めてで最後だというのは」
ティルがグウェンに反発するようにぎゅっと私の腰を抱いた。前は気づかなかったが、彼はグウェンが苦手なようだ。
聞き耳を立てていた周囲が一瞬ざわつき、視線が私に突き刺さった。
「…レイチェルは本当に贅沢だと思うわ!」
アニーが睨むように言った。グウェンは「お互い初めては経験不足な分。最大の不幸だとも言えるけどもね」と肩を竦めた。
「…私も最初で最後が全てティルになるのだけど」
思えば異性との抱擁もキスも抱っこもティルが初めてだ。
「レイチェルは知らないかもしれないけど彼のように身持ちが固い男は本当に珍しいんだぞ?彼の年ぐらいになれば大体の色事は経験済みだ」
「愚兄殿、自分の物差しで計るのは良くないぞ?私の可愛いギルも私が全部初めてな訳だが?随分盛り上がっているじゃないか。主役を差し置いてレイチェルは相変わらずだな」
「リエラ?」
花嫁衣装を着たリエラは相変わらず格好よく不敵な笑みを浮かべて立っていた。
「…実の兄を愚兄とか言うなよ。今日は花嫁なんだから少しはしおらしく大人しくしたらどうなんだ?」
「心配はいらん。既に諦められているからな!大体、しおらしい私など私ではない」
胸を張ってリエラは不敵に笑った。
「…ギルはリエラに喋らせちゃ駄目だろう。こいつは素で喋らせると台無しだ」
グウェンが顔を覆いながら呻くように言った。
ギルバート様は頬を染めてリエラの後ろに影のように付き従っている。この二人は昔から本当に変わらない。
「なんだ?令嬢モードで話して欲しいのか?そうならそうと仰って下されば良かったのに。お兄様ったら」
ぞわりと私とグウェン、アニーとルーカスの肌が粟立った。違和感が半端ない。ティルとサフィー様は不思議そうに首を傾げた。
「…リエラ、ギルバート様、結婚おめでとう」
私は気をとり直してリエラに声をかけた。
「ありがとう。レイチェルは無事で良かったな。事故で怪我したり、変なストーカー被害にあったり、無断で商品としてオークションで安売りされたり大変だったんだろう?」
リエラはさくっと何でもないことのように言った。彼女なりの気遣いだろう。
「何とか。身体の痣は引いたし足も大分良くなったわ」
私は足を軽く持ち上げようとして、隣に立つティルに無言で制止を受けた。
「そういえば、結婚祝いをありがとう。こちらからのお返しは喜んでもらえたかな?」
「お返し?」
ティルは首を傾げた。
ティルに相談してリエラにささやかな結婚祝いを贈ったのだが、リエラからもらったお返しについては少々不都合があって報告していないから当然の反応だ。
私は笑顔を凍りつかせ、さっとリエラの腕を引いて足を引きずりながら隅に連れていった。聞かれたくない話題だ。
「あんなの!着れない、わ」
リエラが贈ってきたのは扱いに困る寝間着だ。簡単に言うと、非常に極薄の布とレースでできていて向こう側はしっかり透けている上に丈が短い。加えてリボンをほどけば簡単に脱げる。
あれは寝間着というより透けているただの布だ。一回だけ勇気を出して袖を通してみたが、鏡の前の無惨な姿に泣きそうになった。あれでティルの前に出るなんて私が無理だ。
「君が喜ばせたいと言ったのだろう?あれぐらいしないと、ああ見えて意外とお堅そうな君の旦那様の理性を吹き飛ばすのは無理だと思うがね」
「…理性を吹き飛ばしたい訳じゃなくて喜ばせたいのよ」
意味合いと目的が違う。リエラに相談するんじゃなかったと私はため息をついた。数日前に手紙でリエラに相談したのだが、今一つ伝わらなかったらしい。
「君の旦那様は確実に喜ぶには違いないが?」
「そ…そういう喜ばせ方は最終手段にします!それに、ああいうのはスタイルに自信がある方が着けるものだと思う」
私には、あの無惨な姿を見てティルが喜ぶようには思えない。
「何で喜ばせたいんだ?」
「誕生日に何もしなかったし、貰ってばかりだから。お菓子とか小さな花束とか。結納も沢山頂いたし」
婚約当初も今もちょっとした手土産を彼は持ってくる。
クローゼットにぎっしり詰まった結納の品々を思い出す度に胃が痛くなる。そうでなくても私は今は名ばかりの妻だ。
「なるほど。だが、贈り物は気持ちだろう?別に膝枕とかマッサージとか肩たたきぐらいでいいんじゃないか?物を贈るならちょっとした物だな。焼き菓子は?得意だっただろう?」
「甘いものは苦手らしい」
この間はすっかり忘れていて、しこたま彼の苦手なクッキーを口に突っ込んだのだが。
「愚兄殿に聞いたんだが、ハンカチに刺繍するんじゃなかったのか?」
「事故で全部外に荷物が投げ出されて買った糸もハンカチもない」
「また買えばいいじゃないか」
「今は無職で収入がないから無理。今までは領地経営の手伝いの報酬があったけど、結婚したからないのよ。貯金も少しならあるけど持参金に充てる予定だし、他にも結婚してから必要な物ができるかもしれないと考えると…」
無駄遣いはできない。しかし、適当な物は贈れない。
「旦那様にねだれば?彼は元々君の持参金も用意するつもりだったんだろうし、路頭に迷わせる気はないだろうから問題ないな」
リエラの言いたいことはわかる。
「リエラの意地悪。ティルに贈る物をそのお財布から出すのはおかしいでしょう」
「君が見立てたなら喜ぶとは思うがな。ではルーカスに借りるしかない。或いは内職するかだが」
「そうだけど、ティルが」
ちらりと離れた場所にいる彼を見れば目が合った。
ルーカスにお金を借りてもティルに内緒で買い物は無理だ。
「金を借りれば確実に誤解されるだろうな。内職も」
リエラは私の心を読んだように言った。
金銭に困窮していると思われる。
「となると、やはり膝枕かマッサージとか肩たたきとか?」
「…やっぱり形に残る物も贈りたい。サプライズで」
「刺繍でサプライズはどのみち無理だろう。旦那様以外にも使用人が君にべったりなんだろう?侍女から報告がいくだろうし、完全に本人の目に触れないなんて不可能だ」
リエラの指摘に私はため息をついた。
時間だけはある。しかし、本人の目の前で本人に贈るために刺繍をするのはプレッシャーだ。最近は仕事で不在がちといっても、帰宅時に不在中の話はお互いにするし、休日はなぜかティルは出掛けないので基本的に一日中一緒だ。
そもそも刺繍しようにもハンカチと糸を入手しないといけない。
「そうだけど、どうにかならない?」
「義父母に相談すれば?或いは義妹か」
「…厚かましく思われないかしら?」
「思わんだろう。暫くは居心地は悪いかもしれないがな」
「居心地が悪い?」
「暫く生暖かい目で見られるだけだよ。少しの辛抱だ」
「う…でも、それしかないわね」
材料がないことには何もできない。私はリエラにアドバイスの礼を言ってティルの元に戻った。
「さっきのお返しって何のことです?」
何とはなしに聞かれて、私はぎくりと固まった。
「…………リエラの勘違いです」
誤魔化すようにそっぽを向いて追求を逃れるように視線を逸らした。あれは彼の目には触れさせたくはないし、袖を通す機会など二度とないだろう。
ティルは怪訝な顔で私を見たが、それ以上は聞いて来なかった。私は胸を撫で下ろした。
 




