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55.優しい夢魔は今はなく

四回目の投稿です!くどいので気が向いたら最後修正するかもしれませんね。

昨日の夜からティルの様子がおかしい。心ここにあらずで、話しかけても上の空なのだ。何かあったのだろうか。勿論、受け答えはしっかりしているし表面上は平静を装っている。しかし、考えに沈んでいる時間が多いように思った。


「レイチェル。今日は午後から出掛けましょうか?」


外出は魅力的な提案だ。私のためを思って考えてくれたようだが、彼こそ休養が必要そうだ。

私は彼をじーっと見つめて、ぎゅっと手をとり、引いた。


「…折角ですが、今日は家でゆっくり過ごすことに決めたんです。ティルも一緒に。だから、外出は別の機会にしましょう?」


私は彼を隣に座るように促すと、彼の肩に甘えるようにもたれ掛かった。てこでも動かないぞ、と上目使いで彼を見た。

何があったのか気になるが、聞いても教えてくれない気がした。


「レイチェル?その…それはどういう?」


困惑したようにティルは口ごもりながら言った。どうしたらいいかわからないらしい。引きこもりのプロとしては無為にだらだら過ごせばいいだけなのだが。


「何かしたいことはありますか?」


「…かくれんぼと鬼ごっこは二度とご遠慮したいかな。レイチェルは危ないところばかり隠れるから」


「もう!…しませんし、できません。足が思うように動かないし、すぐ捕まってしまいますよ」


からかうように言う彼に私は膨れっ面を作って言った。ティルは漸く気が紛れたらしく口元を緩めて笑った。


「したいことやしてほしいこと、欲しいものはありますか?好きなものとか、事とか?」


「…今日のレイチェルは質問ばかりだな」


怪しむようにティルは私を見た。


「…だって、考えてみたら私はティルのことをあまりよく知らないんだもの」


最低限のプロフィールしか知らない。昔も今も彼は個人的な話はしなかった。


「それはつまり、レイチェルが俺のことを知って願いを叶えてくれる、と?」


期待の眼差しで見られて私はぐっと言葉に詰まった。


「何でも…は無理です。私にできることなら。あ…。でも、恥ずかしいことは絶対に駄目」


「君が思う恥ずかしいの基準がわからない。例えばどういうこと?まあ、でも、願いはもう叶えてもらっているし、欲しいものは手に入っているから今は特にないかな」


ティルは目を細めて私の頬を撫でた。

あっさり何も望まない、と答えられて私はがっかりした。期待されるとプレッシャーだが、全く期待されないのは面白くない。


「…期待してませんね?」


「そんなことはないけど足も怪我しているし、レイチェルは無理しない方が…」


私はやればできる女だ、と思う。こうなったら目の前の彼をぎゃふん、と言わせてやらねば気が済まない。変な方向に闘争心を燃やした。

ちらりと彼を見る。上手く隠してはいるが、何かを悩んでいるようだ。取り繕うのが上手いが、いつもと違う。

彼にはいつも助けられて貰ってばかりだから、何か返したいと思った。それに、ティルは矛盾ばかりだ。私には頼って欲しいというくせに自分は一人で抱え込んでしまう。確かに私は頼りないかもしれないし、持てる荷物は少ないかもしれないが。

私は拳をぐっと握り立ち上がって杖をついて、ひょこひょこ歩いた。今日という日はまだ長い。ティルをあっと言わせる手段を考えてみよう。


※※※

足音がぴたぴたついてきては私が立ち止まるとピタリ、と止まる。

くるりと振り返ればドリーが無表情に立っていた。


「ドリーはどうして、ついてくるの?」


「ティルナード様のお言いつけでして。レイチェル様が危ないことをなさらないように、と」


「私は小さな子供ではありませんよ?」


私はじとん、と失礼な夫の従者を見上げた。屋敷の中で危ないことはないし、流石に一月近くも暮らせば迷子にもならない。


「レイチェル様が立派な淑女だということは存じてますよ。だから、ティルナード様もお困りでして。しかし、言いつけですからね」


「…本人が来ればいいじゃない」


「気になることがあるとか。レイチェル様もお気づきでしょう?あの人がいつにも増しておかしいのは」


私は頷いた。ティルはおかしい。屋敷の中に危険などないだろうに人をつけるなんて余程だ。

ドリーは頷きながら続けた。


「そうですよね!いつもなら目のやり場に困るくらいいちゃつき倒すティルナード様がレイチェル様が隣にいるのに無反応なのはおかしいです。どこか身体を壊したとしか思えない」


「……そこまで人前でいちゃつき倒しているつもりはないのだけど!?」


人のいないところだけだ。さっきだって部屋には誰もいなかったはずなのに、いつの間にドリーとティルは話をしたのか。んん?と首を傾げた後、今まで気づかなかった事実に気づいて私は赤面した。いつもドリーやマリアはタイミングを見計らったようにひょっこり現れる。あれはつまり…。


「実は気配を消したり、見ないふりしているんですよ。一生懸命。公爵家の使用人には必要な技術なんです。何せ、代々、当主様が恋愛結婚する愛妻家が多いですから。冷めたお子さまの時分にティルナード様の代はそうならないと思いましたが、やはり血筋かふりきれましたね。奥様の溺愛ぶりなら歴代ダントツで一番だと思います。あの激甘な旦那様でさえ砂糖を袋ごと飲まされたような顔をなさるぐらいですから。冷淡に見える人ほど情熱的で愛情深いんですね。多分、相当なむっつりだと踏んでいます。しかし、ご両親のいちゃつきを見ては冷めた眼差しを向けていたティルナード様をあそこまで狂わせるんだからレイチェル様には悪女の素質がありますよ。知ってます?あの人、普段はあんまり笑わないんですよ」


「ぐ!悪女だなんてあり得ないわ。だって、そういうのはもっと…セクシーな人の…役回りでしょう?貴方が部屋に控えているとティルは知っていたの?」


自分の言葉に自分で傷ついた。


「必ずしもそうではないですけどね。レイチェル様みたいに清楚で可憐で壊れちゃいそうなくらい華奢な方が好きな男性は圧倒的に多いでしょう。うちの主人が代表例です。貴女に知り合ってから他が全く目に入らないくらいですから。気配については知られればいちゃつかせてもらえないから普段より何としても消せ、との厳命を受けてますから。俺だけじゃなく全員です。あの人、レイチェル様以外の気配には敏感ですよ」


ぎゃああ、と悲鳴をあげたくなった。全部見られていたなんて知りたくなかった。

ティルもティルだ。涼しい顔をしていたから全く気づかなかった。大体、人の気配に敏感そうには見えない。毎朝起きた時に私を見て酷く驚くぐらいなのだ。自分で抱き枕にしておいて、あの反応はない。いや、私も彼を下敷きにしたり、逆に抱き枕にして寝ることがあるので他人のことは言えないのだが。


「あの人、他人が傍にいると眠れないんですよ。特に女性関係は昔から色々ありましたからねぇ。ベッドの中から半裸の女性が出てきた時の反応ったら」


「いつも一緒に寝ているのだけど何かの間違いではないの?その時はどんな風だったの?」


気になって聞いてみた。前に聞いた時は好奇心が主だったが、今は上手く説明できないが、むかむかした。


「ご令嬢はベッドの中にいたんですがね。無言で掛布をかけ直して部屋から出て、ワトソン爺を呼びました。一切躊躇わず無表情で。大変でしたよ。ご令嬢は諦めきれずに泣いて帰りたがらないし。服を着せて馬車に乗せるまで手間取りました。ティルナード様は獣並みに匂いに敏感だからシーツもカバーも全替えで、暫くは客間で休まれたんです」


私はさーっと血の気が引いた。以前に私も同じようなことをしたことがあるのだ。悪気はなかったのだが、あの後大変だったのだろうか。馬車に力付くで押し込まれて強制送還されなかったから気づかなかった。そこまで潔癖にも見えなかったが。


「…その。ごめんなさい。私も同じような手間をお掛けしたかもしれません」


ドリーはなぜか笑った。


「まさか。数日は面白いものは見れましたけどね。ベッドの上でひとしきり大きな図体で悩ましげに転がり回るんだもの。一応シーツは変えましょうかと言いましたが、本人が定期交換で良いと強く言うんで。嫌なら一緒に今寝てませんよ。頼んでもないのに自主的にベッドに入ってくるわけがないし、あの人、嬉々として添い寝してますよね?最近の楽しみはレイチェル様の寝顔観賞ですから。変態な主人ですみません」


「寝顔…ミラレテル?」


思考が停止した。処理速度が追い付かずカタコトになった。


「ええ、愛おしそうに頬や髪を撫でながら。ちなみにおはようのちゅー、とおやすみのちゅーが最近の日課です。場所は日によってまちまちですが。額の時もあれば頬の時も。あれ、貴女が寝ている時もされていますからね」


「きゃああっ!」


思い出して顔から火を吹きそうになった。起きている時はよく挨拶と共に顔にキスをされる。そういうものかと思って慣れたのだが、寝ている時までとは知らなかったし、寝顔をじっくり見られているなど思いもしなかった。私から言い出したことだが、乙女心としては口から涎をだらしなく垂らして寝ている姿を見られたくない。しかし。


「前から思っていたのだけど私は女性と認識されていないんじゃ?」


「そんなはずありませんよ。ティルナード様はがっちり女性と認識してますし、今も昔もレイチェル様にめろめろです。人にも物にも淡白なあの人が朝晩欠かさずキスして抱いて一緒に休まれるくらいにはお好きですよ。屋敷の中ですらレイチェル様が困らないように従者をつけるんですから過保護なまでの溺愛ぶりに脱帽です」


「言葉にすると非常に不健全に聞こえるのだけど!?」


「…ご存じないようですので、健全な未婚の男女は一緒のベッドで休みません。好きな女性と一緒のベッドに入ってキス以上は何もないあたり、ティルナード様の忍耐力と鉄の理性には感服しますが」


「やっぱり普通じゃなかったのね」


やってしまったと薄々は気づいていたが、ティルも誰も何も言わず指摘されないものだから何となく普通のように感じていた。それに、一緒に寝ると安心するし嫌ではない。


「ああ、でも。お二人はもう、ご夫婦ですから普通ですよ。それに不眠気味の主人がしっかり眠るためにはレイチェル様が不可欠ですから是非、今後も休んで下さい。普通なんて他人が決めた物差しですから」


「…ドリーは口が上手いのね」


私は息をついた。上手く丸め込まれたような気もするが、私からはやめるつもりはない。


「そういえば、ドリーはティルが何が好きか知ってる?」


「レイチェル様です。そんなの聞くまでもありませんし、屋敷中が存じてますよ」


キリッと即答するドリーに頭が痛くなった。


「…人ではなくて。趣味とか食べ物とかあるでしょう?」


「これといっては何も。あの人、何でもできますから何にも興味がないんです。身体を動かすのは好きですね。使えるものも。逆に昔は実用的でないものは嫌いでしたよ。小説や絵本、音楽や演劇。食べ物は甘いものが嫌いで。嫌いなものはわかるけど好きなものは俺もわかりませんね。レイチェル様?」


「…ティルは私が奥さんで本当にいいの?」


ドリーの話を総合すると、私は彼の嫌いなものの集合体のようである。役に立たないし、彼の嫌いなものは私が好きなものだ。趣味が合わないように思う。辛いが今からでも、なかったことにした方がいいのではないか。


「手続きがわからないのだけど、両親に相談してみた方がいいかしら?」


「待った!相談する必要はない。心配で様子を見に来てみれば、どうしてそうなるんですか?」


ティルが長いコンパスで私の傍に歩いてきて、私をひょいと抱き抱えた。


「…何となく?価値観の不一致は夫婦の不仲の原因だと聞いたことがあります。ところで、何で抱っこしたんですか?」


「念のためです。ここまで来て逃げられたら敵わない。ドリーは余計なことばかり言うな。レイチェルは俺のことは俺に聞いてください」


ティルの私を抱く力が強くなった。


「事実でしょう?レイチェル様に好かれたいがばかりに小説を読み漁ったり、ピアノの練習をなさったり。ワトソン爺に無駄で必要ない、と言って切り捨てた人と同一人物とは思えませんね」


「小説は参考になったさ。ピアノだって弾く内に悪くはないと思った。他にも色々、変わったことはある。園芸の楽しみを覚えたし、好きがどういうものかわかった。楽しいも一緒にいたいも他の馬鹿にしていたことも。とにかく、レイチェルのお陰で世界が広がったんだ」


ティルは私を熱っぽく見つめた。


「…はいはい。告白は結構ですが自室でして下さいね。レイチェル様も。さっきからお伝えしているようにわが主人の愛はふりきれていますから。疑問ですが、どうしてティルナード様のお好きなものに興味を?」


そこで私は忘れかけていた初心を思い出した。


「確かティルを喜ばせたかったんだわ」


「…貴女と結婚できて十分ティルナード様はお喜びで幸せの絶頂ですよ。浮かれた顔が腹立つくらい。そして、さっき、その幸せの象徴が悪気なく主人を絶望のどん底に突き落とそうとなさったんですがね。レイチェル様、本当に悪女!結婚して、まだなにもさせてもらえない内に離婚って不憫すぎて涙が止まりません」


「私と一緒にいるだけでティルは幸せということ?」


「そうですね」


「もっと喜ばせるにはどうしたらいいかしら?」


「そりゃあ…むぐっ!ワトソン爺さん」


ワトソンが穏やかに微笑みながらドリーの口を押さえていた。本当に公爵家の人々は主従含めて神出鬼没である。


「レイチェル様に余計なことを申し上げてはなりません、ドリー。貴方は昔から口が軽くて悪いのが困ったところです」


気配を全く感じなかったが、いつからいたのだろうか。


「お茶の準備が整いましたので、どうぞお部屋にお戻りになって下さい。それと、レイチェル様には奥様よりお預かりした物をお届けしております。ティルナード様は奥様がお呼びですのでお立ち寄り頂くように、と言伝てを賜っております」


ワトソンが恭しく一礼をした。

ティルは私を一度床に下ろして、「先に行っていて下さい」と言って、公爵夫人の私室に向かった。

部屋に戻ると、テーブルの上にはお茶の用意がしてあり、机の上に「倦怠期の夫婦の甘い夫婦生活のすすめ」という本が置いてあった。倦怠期、というわけではないのだが。

もしかしたらドリーとの立ち話を聞かれていたのかもしれない。栞が挟んでいるページを読んだ。恥ずかしいが、これなら何とかできそうだと思った。

ティルはすぐに部屋に入ってきた。大した用事ではなかったらしい。私は本の手順を決行することを決めた。彼が座った後、私は杖をついて、ひょこひょこ歩いてティルの膝の上に思いきって座ってみた。

ティルは驚いて私を見たが、私は文句があるかと睨んでやり過ごすことにする。暫く無言で見つめあった後、ティルは不意に口許を押さえて顔を反らした。勝った、と私は達成感を覚えた。


「今日は一緒にゆっくり過ごすといったでしょう?」


私はえへん、と小さな胸を張った。

おっと、とバランスを崩しそうになった私をティルは反射的に横抱きに抱え直した。

さっきから本の通りにしてみているが、何かが間違っているような気がしてならない。本は相手に抱えてもらうことなど書いていない。だが、ここまで来ればやけくそである。

皿の上のクッキーをつまみ、私はそれをティルの口に持っていき、「口を開けて下さい」と言った。ティルは素直に口を開き、私はそれを口の中にいれた。

食べるティルの姿にときめき、可愛いと思った。これはまずい、病み付きになりそうだと思いながらも、欲望に打ち勝てずもう一枚運ぶと、ぱくりと指ごと食べられた。


「っ!」


びっくりして私は固まった。口の中に入れられただけで指は無事だった。ティルはそのままペロリと私の指を舐めた。


「っっ!」


私は反射的に手を引っ込めた。

挑戦的に笑って勝ち誇ったように見てくるティルを見て、私は遊ばれていることに気づいた。彼はこれで私が引くと思ったらしい。初心はとうに忘れ去って、負けそうになる心を奮い立たせながら私は気を逸らすようにテーブルを見た。

それにしてもクッキーは美味しそうだ。


「…美味しいですか?」


「…甘い。レイチェルも食べれば?」


私は「いいの?」と顔を輝かせた。本には書いていないが、構うものか。もう既に本の筋書きから大分コースを外れている。私も食べたいし、そろそろ恥ずかしさの限界を突破しつつある。もう膝から降りて、普通に二人でのんびりお茶をした方がいいのではないか、と考えた。

そこで、妙にティルの顔が近いことに気づいた。息がかかりそう、と思った次の時には唇を塞がれていた。舌が口の中に侵入してきて私は戸惑った。口の中にクッキーの甘さが広がると同時に頭が痺れたようにぼーっと気持ちよくなった。クッキーの甘さかキスの甘さかよくわからない。


「ん…」


唇が離れると、私はティルの首にしなだれかかるように捕まって肩で息をした。余韻で身体が痺れて力が入らない。こうしないと落ちると思った。実際にはしっかり支えてくれているので落ちないとは思うのだが。


「ほら、甘かったでしょう?」


彼をぜえぜえ言いながら睨み付ければティルは悪戯が成功した後のようににっこり微笑んだ。不意打ちを食らって腰が砕けそうになる。確かにこれは甘い。甘すぎるが、クッキーの甘さなのか何なのかよくわからなかった。


「甘…いけど、意地悪だわ」


「甘いのは苦手だけどこういうのは悪くないな。お返しに今度は俺が食べさせましょうか?」


くすり、と笑ってティルは長い指でクッキーを摘まんで私の口許に運んだ。口を開けるのを躊躇ったが、誘惑に抗いきれずに私はおずおずと口を開いた。恥ずかしかったが、暫くしてクッキーの美味しさもあいまって、慣れてしまってどうでも良くなった。

何回かお互いにほのぼのと食べさせあいっこをして、あっという間にクッキーは空になった。間食の後のお茶をずずーっと飲み、ほっこりしながら私は違和感に気づいた。なんだか姿勢が斜めに傾いている、と。

漸くティルの膝に乗ったままだと気づいて慌てて降りようとした。


「…自分から乗っておいて途中で降りますか?」


私は固まった。ティルは更に続けた。


「晩餐までゆっくり一緒に過ごしてくれるんでしょう?勿論、このままで」


外を見た。まだ日が高い。晩餐までの時間を計算して目眩がした。忘却の彼方に忘れ去っていた羞恥心を今更ながらに自覚すると同時に自ら進んでティルの膝に乗った事実を指摘されて耳まで赤くなった。


「ティルがこのままだと重いと思うの」


深刻な顔で自己申告した。自分から乗っておいて何だが、腕と膝の負担を考えれば早く降りた方がいいと思う。


「全く?」


にっこりとティルは「俺が大丈夫なら何も問題ないですよね」と笑い、私はぐっと言葉に詰まった。


「…退屈でしょう?」


「退屈なら俺の部屋から本をとってきましょうか?レイチェルの好きなものがあったはずだ。勿論、このままで」


一瞬解放されることを期待したが、抱いたまま移動するつもりらしい。


「喜ばせたかったのに、どうして、こうなったのかしら?」


よくよく考えれば、夫になる人の膝の上に乗ってお尻に敷いて、腕に負担を強いた上に苦手な甘いものを口にたらふく詰め込んだ酷い女である。

参考にした文献が間違っていたのだろうか。


「…ああ。俺を喜ばせようとしてくれたんでしたね?なら、尚更このままでいてください。貴女が誰に騙されたのかはわかりませんが、折角だから心行くまで堪能しておきたい。ついでに少し頭の整理に付き合ってもらえると助かります」


前半はよくわからなかったが、何かに悩んでいるらしい。このままがいいのだ、と言われたので私は膝から降りるのは諦めた。


「私で役にたつなら。何を悩んでいるんですか?」


私はティルの頬にそっと触れた。


「悩んでいるわけではないんです。わからなくなっていて気持ちが悪いというか。重要な何かを見落としているようで」


ティルは悩ましげに息をついた。例のオークション絡みだろうか。力になるようなことはないかと考えて釦のことを思い出した。


「…釦なんですが」


ティルは私をまじまじと見た。そういえば、彼には話していなかった。だが、もう結論が出たのだから良いだろう。以前に似たものを見たことがあったのでルーカスに頼んで知人や友人、親戚筋を当たってもらった。私の交遊関係は狭い。


「結局誰のものかわからなかったんです。でも、私はあれと同じものを随分前に見たような気がします」


「そうなんですか?どこでかは覚えてませんよね?」


私は頷いた。確かに見た記憶はあるのだ。全く同じではなかったのだが。どこで見たのか。

ティルを見て、私は小さな頃、その人に手を引いてもらった記憶がある、と思い出した。


「どこかで迷って誰かに手を引いてもらったんです」


その時に袖口に飾り釦がついていた。デザインが似ていた。他にもその人は誰かに似ていたような気がする。


「ドッペルゲンガー?」


私はティルを指差した。


「はい?」


「ティルにそっくりでした」


「…レイチェルはまさか俺が貴女を殺そうとした、と?」


ティルは恨みがましそうに私を見た。


「違います!ただ、ティルにそっくりな方で。銀髪に深い蒼の瞳をしていて、凄くきれいな顔立ちの男の人」


「父さんじゃなく?」


「公爵様は優しげな顔立ちをされています。ティルとは似ているようで似ていません」


「俺は祖父に似ているらしいですからね。父は祖母に似ているんです。悪かったですね。全く優しくない顔で」


ティルは拗ねたように「これでもレイチェルを怖がらせないように努力しているんだ」と呟いた。


「そういう意味ではなく。私はティルの顔も好き。…というか、そういう話でもなく、親戚にいらっしゃいませんか?」


ティルは頬を赤らめた後、思い出すように上を向いた。


「いや。うちが旧王家の血筋なのは知っていますよね?まあ、色々あって円満に今の王家に玉座をお譲りしたわけですが。分家筋に 遠縁はいますが、祖母の家系や母の親戚になります。この前貴女が会ったのもうちの祖母方の遠戚です。ああ、でも、確か旧王家が現王家に膝を折る際に政略結婚を一回しているな」


恐ろしい話を聞いて魂が抜けそうになった。世が世ならこの人は王子様だったらしい。王子様じゃなくて本当に良かったと思う。


「確か先代の国王の王兄が銀髪だったそうですよ。先々代は髪色が違うその人を次代の王に指名しなかったとか」


「髪の色が違うくらいで?」


そんなの横暴だと思う。どの親の形質が遺伝するとはわからないし、結婚を繰り返して他家の血筋が入れば違う髪色、瞳の子供も生まれるだろう。


「旧王家の象徴ですからね。銀髪は国内ではうちだけです。ついでにストロベリーブロンドが現王家の血筋の象徴で蒼の瞳はうちの先祖が嫁いだ時によく遺伝するようになったとか」


「その方は今どちらに?」


「…亡くなりましたよ。国王に手をかけようとして不敬罪に問われて。あれはでも、国王が悪い」


「どういうことですか?」


「公然の秘密ですが、国王は王兄の婚約者に手を出したんです。それで婚約者は湖に身を投げて」


ティルはそこで、はっと気づいたように口をつぐんで、私の髪を撫でた。


「気持ちの良い話ではないし、忘れて下さい。とにかく故人が馬車の事故を起こすのは不可能だ。生きている人間ならまだしも」


「…元宰相様は何かご存じではありませんか?」


裏社会の繋がりと言えば、残るは彼しかいない。確か大捕物で勾留されて失脚、と父が読んでいた新聞記事には書いてあった。

ティルは複雑な顔で唸るように言った。


「ここだけの話ですが、宰相の屋敷は藻抜けの殻で人が暮らしていた形跡はなかったんです。不思議なことに誰も顔を見たことがなかった。大昔に火傷を顔に負ったとかで顔の半分以上は仮面に覆われてましたし、誰も彼の私生活は知らなかった」


「意味がわかりません」


「捕まえられなかったんです。まるで最初からいなかったように、誰も何も知らなかった。正妃様でさえ彼の顔や所在はわからなくて。経歴は何もかもがでたらめでした。唯一知っている国王は亡くなっていてどこの誰かわからず仕舞いだ。十分な証拠はあっても被疑者不在のまま事件の幕引きとなりましたが、公表できるはずもない」


「幽霊みたいですね」


「幽霊に政は不可能です。深夜に唄うお化けピアノみたいにどこかで仕掛けがあるはずなんだ」


「…婆やさんが犯人だったという、あの」


私は思い出してくすくす笑った。

ティルが昔、話してくれた話の中で印象に残っていた。昔の彼とは会話という会話をした記憶が少ない。

彼が一緒の部屋にいるだけで酷く気まずくて不安で緊張したし、どういうつもりなのか、どんな話題をふればいいのかわからず困っていた。何せ、全く会話しなくても間を開けずに来るのだ。兄に言っても「嫌なら自分で言え」と言うばかりで取り合ってくれなかった。来る度に何かを期待するように見られてはがっかりさせて、その度に申し訳なく思ったし、つまらないのなら他の女の子のところに行けばいいのに、と思ったのは一度や二度ではない。実際にそうされたら酷く傷ついただろうから本当に天の邪鬼で我が儘な女だと思う。


「でも、変ですね。何も手がかりがないなんて。何かは残りそうなものだけど。誰も姿を見ていないなんておかしいです」


「わからないことだらけで、お手上げなんです。誘拐犯とオークションの主催者も消えた元宰相も。馬車の事故を起こした犯人の目的も。もしかしたら、俺の巻き込み事故かもしれない」


「…それは許せませんね」


私は低い声で呟いた。ティルがびくり、とこちらを見た。


「ティルを狙ったのなら許せません。危うく死ぬところだったんですよ?」


「…怒るポイントがそこですか。思い出したんですが、レイチェルはもう少し警戒心を持った方がいい。この間も俺だったから良かったものの違う奴ならどうなったことか。それに…怪しい奴に手を引かれるのはどうかと思う。昔から方向音痴で迷子になりやすいにしても。何かあったらどうするんだ」


「…怪しい人にはついていきません。多分、あの時は体はティルだと認識していたから。手を引いてもらったのだって、あの人がティルに似ていたからだわ」


「…昔の貴女は迷子になっても俺の手はとらなかったでしょう?その銀髪の男の件は最近の話ですか?」


「…八年前くらい?ティルが婚約する直前だったかしら?」


「余計に納得いきませんね。貴女は確か俺の手は拒否しましたよね?」


「あれはおんぶだったでしょう?それに、私と噂になったら貴方が困ると思ったから。最初に変な顔でダサいドレスだって言ったでしょう?そんな子を連れ歩いているのを誰かに見られたら貴方が誤解されて恥ずかしい思いをするんじゃないかって。誕生日にダンスに誘われた時だって私は下手だし、周りに親しい仲なのだと誤解させては迷惑なんじゃないかと」


昔からティルは王子様のような綺麗な顔立ちをしていた。悪戯をやめてからの彼は戸惑うくらい優しかった。凄く女の子にモテていて、気づけば完全に遠い世界の人になっていた。婚約する前も常に女性に囲まれていた。


「…そうなっても構わなかったんだ」


「はい?」


「不思議じゃありませんでしたか?昔、自分でも言っていたでしょう?いくら子供でも、婚約していない男女を二人きりにするのは問題がある。レイチェルは他のルーカスの男友達と二人きりになったことはありますか?」


私は首を傾げて考え込んだ。言われてみれば、なかったように思う。誰か、それこそ兄が傍にいたし、そうでない時は他の子も一緒だった。カイルとだってなかった。

そういえばティルとはどんなに気まずかろうが、従者が傍に控えていたものの、二人きりだった。兄に聞いても苦い顔をしてはぐらかされたが。


「俺が頼んだんです。勿論、婚約を前提において。そうでなかったら、あの鉄壁のガードを潜り抜けられるもんか。ルーカスが出した条件を爵位と最後の条件以外俺はクリアしたんです。あいつを倒すのが一番大変でしたが。俺はあの時からずっと貴女に決めていたんです」


一瞬ルーカスが書き連ねた妹の結婚相手の条件、という冗談のような項目を思い出した。私はまじまじと見た。あの条件は不平等条約みたいなもので、満たしても、その先に待つのは私との結婚というだけで男性側には一切得がない。

ティルは密かに兄に私の婚約者として認められていたらしい、という恐ろしい事実を今更ながらに知って呆然とした。兄も兄だ。妹可愛さに公爵子息に何て言う条件を呑ませるんだ。呑んだティルもティルだが。


「…そういう話はしなかったじゃない」


「言いましたよ、何度か。好きだから婚約してほしい、とストレートに。その度に断られましたが。本人の同意が得られることが最後の条件だったので何度枕を涙で濡らしたことか。身から出た錆でしたから仕方がなかったんですけどね」


「あれを満たしてもティルに得はないように思うのだけど」


「ありますよ。好きな女の子と結婚して一緒にいられる権利を得られるんだから。勿論、レイチェル本人の意思で俺を選んでもらわないと意味がないから最後の条件は必須でした」


「ティルなら、もっと簡単にできたでしょう?」


それこそ、ティルが私を本当に妻にと望み、公爵家から申し出があれば私も伯爵家も嫌でも断れなかったはずだ。


「多分できましたが、好きになってもらえなかったでしょう?俺は貴女の心も全部欲しかったし、レイチェルの意思で俺に心を開いて好きだと言ってほしかったんです。形だけの政略結婚で貴女を縛り付けて手に入れても俺を見てもらえなければ意味がない。他の奴に心があれば、それこそ虚しいだけだ」


「ぜ…全部?」


「俺は俺を貴女に受け入れて欲しいんです。俺と手を繋ぐのは今でも嫌ですか?」


私は首を左右に振った。昔も別に嫌だったわけではない。何を考えているのか、近づいて許されるものかわからなくて怖かっただけだ。


「キスするのは?」


私はまた首を振った。キスは彼としかしたことがないが、嫌じゃない。むしろ、好きな人がファーストキスの相手で、その人ともうじき結婚できる私は贅沢なんじゃないかと最近はよく思う。


「気持ちがなければ嫌だと思うものですよ。嫌々傍にいてほしくないし、嫌々気持ちに答えてほしくない。そんなのはお互いに不幸だし、無理矢理手に入れても心を開いてはくれなかったでしょう?」


私は頷いた。昔、お見合い相手に無理矢理キスされそうになった時は肌が粟立ったし怖いと思った。だが、ティルにはそういったことは感じなかった。


「…ところで、何で俺に似た男の手を怪しまずにとったのか具体的に聞かせて頂けるんでしょうね?危ない奴だったらどうするつもりだったんですか?今もそうだけど、貴女ぐらい本気になれば誰だって押さえつけられるんですよ?今から試してみましょうか?」


ぐらり、と身体が傾いたと思ったら、天井が見えた。私は長椅子の上に仰向けになっているらしい。というか、ティルに押し倒されたらしい。

潰さないようにしてくれているが、身体は固定されていて動かない。その状態でティルは私に覆い被さろうとして、私はティルの広い背中に手を回した。

ティルの動きがぴたりと止まった。


「……ここは抵抗する場面なのに、どうして背中に手を回すんですか?」


「…抵抗しろとは言わなかったわ。それに、さっきは受け入れて欲しいって言った」


空気を読めと言われても、こういう経験がないので、わからない。ティルは私に抵抗してほしかったらしいが、私ははっきり言ってティルになら手荒に扱われても良いと思っている。故に抵抗する理由も意思もないし、押さえつけられても不快ではない。

結婚に合意した時点で、ある程度は受け入れているし、どういうことかは理解している。ただ。


「…できれば暗い方が良いのだけど?その…明るいのは凄く恥ずかしいし、湯あみするまで待って貰えると…」


私は赤い顔をつと逸らして、沢山注文をつけながら、もじもじと言った。

ティルはきょとんとした顔をした後、「湯あみ?」と呟いて物凄い勢いで上から飛び退いた。あまりに激しい勢いで飛び退いたものだから、着地に失敗して頭を軽く打ち付けた。大丈夫だろうか、と身を起こして彼の頭を擦ろうと手を伸ばしたらティルは動揺したように叫んだ。


「な…何の話ですか!?」


「何のって…。えーと…違うの?そういうことなのかと思ったのだけど」


私たちは見つめあった。噛み合わない。お互いに誤解があるようだ。

その時、爆笑するドリーの声が室内に響いた。


「笑うな。笑い事じゃないからな!」


ティルは頭を擦りながらドリーを睨んだ。


「い…今のはティルナード様が悪いですよ。あの流れで襲いかかったらそうなるのが自然かと。お二人は相思相愛のご夫婦ですし?不審者ならともかく、夫に受け入れて欲しいと真剣に迫られた後に無理です、と大暴れして拒否できませんって」


「警戒心をもってほしかったんだ!見ず知らずの男について行くのは危ないだろう?それに、明るいのにするか」


「暗くなったらなさるんですね?狼のようにレイチェル様に襲いかかる、と」


「しない!式まではそういうことは駄目だと伯爵家側には言われているし、それが結婚の条件だから反故にはできない。それに、レイチェルの気持ちは無視したくない」


「さっきはレイチェル様もウェルカムモードでしたけど?」


「だとしても、お前が部屋にいるとわかっているのにするか!そういう趣味はないし…他の奴に見せたくはない。それに、正しく理解しているように見えない。またうちの家族の誰かに上手く丸め込まれている可能性が高い」


ティルは疲れたように「後で確認しないと」とふらふらしながら言い、私の髪を撫でた。これは公爵家の誰かに言われたわけではないのだが。


「いいですか。防犯訓練です。もう一度俺が襲いかかるから力の限り抵抗して下さい」


「無理です」


私は即答した。


「…なぜです?」


「全く嫌ではないし、ティルは優しすぎるもの。さっきだって全然怖くなかったから」


「俺も無理だと思います。普通にいちゃついているようにしか見えないし、貴方、レイチェル様に乱暴なことはできないでしょう?本気で乱暴なことをしようと思ってないから怖くないし、訓練にはならないから、やるだけ無駄だと思います。さっきだって、頭を打たないように優しく倒して、潰さないように気を付けていましたよね?それに、貴方が言うようにレイチェル様の抵抗はたかが知れているので、闇雲にやるより人体の急所に絞って教えて差し上げた方が良いでしょうね。それでも誘拐される時はされるでしょう」


「…どうすればいいんだ?」


「どうするもこうするも現状維持でいいんじゃないですか?護衛が常についていて、それ以外は基本的にティルナード様がぴったり張り付いているんです。今は必要ないし、数で来ない限りは披露する機会はないでしょう。また今度サフィー様の授業の時にレイチェル様も一緒に受けられては?」


私は頷いた。


「それにしてもティルナード様の双子は気になりますね。確か、当時は既に王兄様は亡くなられていたはずです」


「…双子じゃないからな」


「存命ならおいくつだったんですか?」


「当時なら三十代前半ですかねぇ?今もご存命なら四十の渋いおじさまですか。レイチェル様?」


「ティルの家系はあまり老けませんよね」


公爵夫妻は四十を越えているが、未だに二十代に見える。


「レイチェル様もそうなる…というか、今でもティルナード様と並ぶと犯罪の匂いが…。ティルナード様、魔王みたいな顔で睨まないで下さいよ。そんなんだから氷のプリンスなんて渾名がつくんです」


「レイチェルとは二歳しか離れていない。誰が犯罪者だ!」


私は発育が悪い。それが昔からコンプレックスだった。

美形で大人びたティルと平凡でちびっこで貧乳な私。ティルもやっぱり、大人美女の方が好きなのかもしれない。


「レイチェルも。頼むから無事に式が終わるまでは何も考えないで下さい。離婚は断固拒否します。俺は貴女がいい」


「ティルナード様。式が終わってからだと色々手遅れですよね。相変わらず腹黒いんだから」


ドリーは冷静に突っ込んだ。


「どうして、考えていることがわかったの?」


「八年も見ていれば分かる時もあるんだ。わからない時も多いけど。レイチェルはそうやって理由をつけて、いつも俺から逃げようとする」


ティルは恨みがましそうに言いながら、私の体を抱き締めた。


「…ところで、銀髪の男について教えてくれませんか?どこで会ったんですか?」


「よく覚えてません。あ…でも」


「でも?」


「ナイトメアの話をしました」


「ナイトメアの?」


ティルは首を傾げた。


「詳しくは覚えていないんですが、夢魔の話をしたような?」


「夢魔、ですか?」


ティルは顔を曇らせて口許に手を当てた。


「関係ないかもしれませんし、この話は忘れて下さい。変な話をしてすみません」


ティルはドリーに目で指示を出した。ドリーは心得たというように小さく頷いた。


「レイチェル。これからは知らない奴にはついて行かないで下さいね。…いや、知っている奴でも勿論駄目だ」


私は「また子供扱いして」と不満を口にしようとしてやめた。真剣に、不安そうにこちらを見るサファイアブルーの瞳と目が合ったからだ。


「…今度こそ約束ですからね」


ティルは声を震わせて私の指に自分の指を絡めた。今度こそ、という言葉に何度か反故にした「何かあれば一番に相談する」約束を思い出した。ずきり、と胸が傷んだ。


「約束します」


私は今度こそ守ろうと心に誓った。

ティルは何かを怖がるように喉を上下させ、眉を下げた。


「ずっと一緒よ」


私は彼の胸にもたれて頬を擦り寄せ、手をぎゅっと握った。


「レイチェル?」


「ティルは本当に怖がりだわ。大丈夫。貴方がいるから、私はもう迷子になりません。それに迷子になってもティルは何度でも迎えに来てくれるのでしょう?」


私はくすくす笑った。ティルは私の手を握り返して困ったように言った。


「できるなら迷子にならないで下さいね。昔、貴女が行方不明になった時は誘拐されたんじゃないかと血の気が引いたんですよ?レイチェルは酷い」


「ごめんなさい。でも、あれは犬が」


間抜けな理由だ。昔から私は彼の手を煩わせてばかりだ。


「何度だって迎えに行きますよ。でも、そんなに頻繁に行方不明になるなら屋敷に閉じ込めておかないといけないな。レイチェルの人権を無視したくないから最終手段になるけど」


ティルは冗談めかして言った。上手く隠しているが、瞳が不安で揺れているのがわかった。


「それでティルが安心できるなら私を好きにして良いわ」


ティルはぎょっとしたようにこちらを見た。


「貴方の不安が解消できるならどうぞ?」


何なら監禁してくれて構わない、とあっけらかんとして私は両手を揃えて差し出した。

ドリーも絶句した。


「レイチェル様。貴女、物凄い殺し文句を使いますね」


「ティルが私を閉じ込めてしまいたいのは半分本気みたいだし、そうした方が良いならそうします。泣かせたいわけではないし。ああ、でも」


「でも?」


「寂しいから会いに来てね。一日二回…とは言わないけど一回ぐらいは顔を見に来てくれなきゃ嫌」


私は絶句する彼を見た。

贅沢を言うなら一日一回はキスして、抱き締めて夜は一緒に寄り添うように寝てほしい。それさえ守ってくれるなら本当に閉じこめられてもいいと思う。


「…流石にしませんよ」


「それは会いに来てくれないということ?」


「そうじゃなくて!わざとですか。貴女を閉じこめたりはしません。他人の目に触れないように隠してしまうなんて。俺は貴女を愛人ではなく妻に望んでいるんだから。結婚式では招待客の前で貴女にはしっかり愛を誓ってもらって契る予定です。こうでもしないと、貴女はすぐ忘れてしまうでしょう?」


「忘れませんよ。私はナイトメアのお姫様ではないもの。ちゃんと思い出したでしょう?疑い深いんだから。信用がないのかしら?仕方がないけど」


私は彼の身体にじゃれつくように抱きついてみた。小柄でふにゃふにゃした私の身体と比べると随分逞しく大きくなってしまった、と改めて実感する。

私が昔心配した通り、彼は逞しく格好よくなったが、私は小さいままだ。だが、予想を裏切って未だに私を好きでいてくれるのは幸せでもある。


「疑い深さならレイチェルには負けますよ。ここまで気を許してもらうのに随分かかった。今、とても幸せです。凄く。だから、怖い」


「なら、やっぱり閉じ込めて鍵をかけてしまったら?」


引き込もりの私には異論がない。彼が顔を見に来てくれるなら、だが。


「そんなことはしませんよ。縛っても意味がない。貴女が俺の傍以外のどこにも行きたくなくなるよう努力します。貴女の居場所が常に俺の傍だと思えるように」


私は不意をつかれて腹の奥がじんと熱くなった。全身に熱が集まる。


「ティルは欲張りだわ」


「なぜ?」


「だって、そんなの…」


言葉で普通に「好きだ」と言わされるより恥ずかしいと思った。鍵の開いた鳥かごから鳥が逃げないように、縛らない代わりに自ら捕まることを選んで彼の傍が好きでたまらないと言わせてみせる、と言っている。

ティルも気づいたらしい。みるみる内に赤くなった。

彼の望みがやっとわかった。言うのは恥ずかしいが、言えばもっと仲良くなれるかもしれない、と思った。それに、私がそう言えば彼は本当にずっと傍にいてくれるかもしれない。それは凄く幸せなことだ。


「私はティルが好きで好きでたまりません。だから、ずっと私を貴方の傍において下さい。お願いします」


私は赤い顔で請うように彼の服をぎゅっと掴んで言った。

言うと同時にがばりと抱き締められて深く口づけられて窒息しそうになった。

空気のふりをするドリーと目が合ってしまって私は小さくなるのだった。

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