50.鬼のいぬ間に洗濯してみましたが
文章が中途半端に途中から消えていました(^-^;すみませんm(_ _)m足の具合の下りです。
兄が来たという連絡を受けて、私は浮き足だった。ティルは今、所用で屋敷を空けている。何でも、先日言っていた彼の口座を共有名義にする目的で銀行に出向いているらしい。
行き先を告げずに上機嫌で出掛ける彼を怪しいとは思っていたが、屋敷を空けるという事実に完全に気をとられてしまっていた。気づいた時にはもう遅かった。
まあ、それは良くないが、いいだろう。こういうことでもなければ、彼は私を置いて出掛けない。最近は私と過ごすばかりだった彼には良い気分転換にもなるはずだ。
家令のワトソンがルーカスを部屋に通した後、一礼して退室した。
「お兄様!」
私は立ち上がり、兄に抱きつき歓迎した。ルーカスは片手で私の身体を受けとめ、ぽんぽん、私の頭を叩いた。
「レイチェル、はしたないわ」
母が苦い顔で私に注意し、私は口を尖らせた。
「母さん、このぐらいは大目に見てやってくれ。こいつも慣れない場所で頑張っているんだから」
「結婚したのだから少しは落ち着かないと。それに、足の怪我もまだ治ってないのでしょう?ルーカスが受けとめ損なったら顔から床に激突していたわ。ルーカスは貴女の旦那様の…ティルナード様とは違うのよ?」
母は気まずそうに言葉を濁した。そうなったら鼻血たらたら流血沙汰で大惨事だったかもしれない。
ティルは手足が長く規格外に反射神経が良い。確実にキャッチするだろう。その前に、私から彼に抱きつくことは殆どないのだが。
「…お兄様なら受けとめてくれます、多分」
私は自信なさげに視線を逸らした。ルーカスはそんな私たちを見て笑った。
「…大事にしていただいているのね。結婚はまだ早すぎるかとは思ったけれど、良かったわ」
母は安心したように私を見て笑った。
「…わかるものなの?」
「髪の艶が良くなったわ。お肌も。元はそう悪くはなかったけれど。着ている物も良家のお嬢様みたいだし、振る舞いも少しおしとやかになったかしら?」
天使の輪ができている、と母は指摘した。髪も肌も日々侍女達に磨きあげられているお陰だろう。身体に残る痣は大分薄くなってきていた。右足はしつこく変色が残っているが、腫れは引いて痛みも大分ましになってきた。糸も明日には抜ける予定だ。
しかし、私は母の言葉に妙な引っ掛かりを覚えた。
「…お嬢様?」
マリアが肩をぷるぷる震わせている。
「…残念ながら既婚者には全く見えないわね。結婚したら少しは落ち着いた物を着るものなのよ?」
「似合っているんだから、いいじゃないか。それに実際、十代で結婚するのは早いし、珍しい。あいつにとっても予定外だったろう」
「…こういう服は普通は着ないものなんですね?」
私は自分の姿を見下ろした。確かに、フリルとレースが沢山あしらわれた薄いピンクの室内着は既婚女性には不釣り合いな代物かもしれない。袖口にはリボンがついていて実に可愛らしい。慣れたせいか何の疑問にも思わなかったが、普通に考えてみたら、これを既婚者が着るはずがない。しかし、誰も指摘しなかった。
いや、でも。それを言えばティルのことだ。新しいものを作ろうと言い出すかもしれない。最近気づいたのだが、彼は私の着せ替えを楽しんでいる節がある。不経済極まりない。
「…ティルには絶対に言わないで下さい」
「どっちでも変わらないさ。あいつはお前に似合うものしか着せないから、暫くは保護色とは縁がないだろうな」
私は渇いた笑いをこぼした。式は半年後だからそれまでは「伯爵令嬢」だ。だから良いのだ、と自分に言い聞かせた。
そこでふと、思い出した。
「お兄様、頼んでいた物ですが…」
兄と母はなぜか顔をそらした。
「すまん。実は厳重な持ち物チェックに引っ掛かったんだ。あの野郎、昔のことを相当根に持っているらしいな」
ルーカスが苦虫を噛み潰したように言い、私は落胆した。
今日ティルがいないことを知った私は実はルーカスに杖と私の着古した普段着のドレスを持ってきてもらうように頼んでいた。一度持ち込んでしまえばティルも渋い顔はするが、認めてくれるだろうと考えたのだが。妙に勘が鋭い彼はそれすらも読んでいたように先手を打っていたらしい。
「いっそ、その格好で練習してやればいいじゃないか」
「こんな高そうな服、破ったらと思うと怖くて歩けるわけがありません」
私が転ぶ分には構わないが、ドレスはそうはいかない。私が大人しくしているのも、この部屋の調度品にあった。室内にはやたらと高そうな家具が溢れている。ヴィッツ伯爵邸の殺風景な私の部屋とは大違いだ。
「…あいつは服の中身の心配をするだろうな。ドレスが何着破けようが、中身が無事なら怒らないだろう。ただ、流石に怪我をしたら怒るだろうから無理はしないほうが賢明だとは思う。あいつは怒らせると俺より怖いから」
私とルーカスは想像して身震いした。ティルは普段はあまり怒らない。ただ、冷気を漂わせて静かに怒るようなのだ。
「…やめておきます」
「そうだな。糸が抜けたら歩けるんだからそれまでは待て。明日には抜けるんだろう?」
ルーカスは呆れたように言い、私は頷いた。
「許可してもらったものだ」
ルーカスが鞄から出したのは数冊の本とお気に入りの装飾品、小物類と使い慣れた文房具類だった。
「これは良くて、何で杖と服は駄目なのかしら?」
「杖状の物と着古したドレス限定で制限をかけていらっしゃるからですわ。たとえ、身内からの差し入れでも許可しないように、と。それと食べ物も」
マリアがたまりかねたように口を挟んだ。
さながら気分は囚人だ。しかし、食べ物も駄目とはティルは私を動物か何かだと思っているのだろうか。
「まあ、食べ物は普通に駄目だろうな。万一、毒が入ってたら大変だ」
「ルーカス!」
母が咎めるように言った。ルーカスの言葉で漸くティルの意図がわかった。
「これだって厳重にチェックが入ったんだぞ?毒が仕込まれてはないか、と。俺たちが知らない間に仕込まれてないとも限らないからな。あいつは本当にお前を大事にしている。馬車の事故で神経質になっているんだ。だから、大目にみてやれ」
母は思い出したように蒼い顔をした。
私はドリーの言葉を思い出した。あの事故はティルにも怖い思いをさせたらしい。
「犯人が野放しなのもな。当たりはついていても、尻尾が掴めないらしい。だから、暫くは不自由だろうが大人しくしてやれ」
兄の言葉に頷いた。元々引きこもり体質だから支障はないといえば、ない。
「お兄様にお願いがあります」
私はマリアをちらりと見た。マリアは何かを察したように素早く退室した。本当に勘の良い侍女だ。
「…調べて欲しいことがあるんです」
私はルーカスに仔細を話し、例の釦を渡した。
「別に構わないが、ティルには頼らないのか?…多分、あいつ、言わないだけで落ち込んでいるからな」
「ただでさえお仕事を休ませてしまったのに」
足に目を落とした。
「慣れないだろうが、少しずつでいいから頼ってやれ。そうすれば喜ぶ。お前が昔から意地っ張りなのはあいつも知っている。だから無理に踏み込んで来ないだろう?一人で抱え込むな」
「わかっています。ただ、確証がないことで振り回したくないんです」
「ほう。レイチェルは結構酷いな。愛しの旦那様は振り回しては駄目でお兄様なら遠慮なく振り回しても良いのか」
母も気まずそうに視線を逸らした。私も自分の問題発言に漸く気づいた。
「う」
「他意がないのはわかっている。あいつはお前のためなら頑張りすぎるきらいがあるからな」
鬼い様はにやりと笑って私の頭をくしゃくしゃ掻き回した。
※※※
「…誰か来ていたんですか?」
帰宅したティルは首もとの釦を緩めながら言った。覗いた鎖骨に視線が釘付けになりそうになった。旦那様にハァハァする私は現在進行形で安定の変態だ。
彼の視線の先には差し入れの本がある。
ワトソンから報告を受けているだろうに素知らぬ顔をする彼に私は舌を巻いた。試されているのかもしれない。
「お兄様とお母様がお見舞いに。ティル?」
ティルは私から少し離れた位置でぴたりと立ち止まった。普段ならそのまま隣に座るのに変だな、と思った。何かを待っているように思う。
私は彼を見上げた。もしかしたら、ルーカスに頼み事をしたのがばれたのか。或いは杖と古着を持ち込もうとしたことを怒っているのか。心当たりがありすぎて一つには絞れない。
後ろめたいことがある私は警戒するようにティルを見上げた。ティルと二人暫く無言で見つめあう膠着状態が続く。
どのくらい経っただろうか。ドリーが痺れを切らしたように身体をくの字に折って吹き出した。ワトソンがごほん、と咳払いをしてドリーを睨み付ける。
「だ…だから言ったでしょう?レイチェル様は絶対にご自分からは抱きついてきませんって」
ドリーの言葉にティルは肩を落とした。私は呆気に取られた。
「…ルーカスには抱きついたらしいじゃないか」
ティルはむすっとして呟いた。
まさかの私からのハグ待ちだったらしい。全く心臓に悪いことをしないで欲しい。急に止まって黙るから怒らせたのだと焦ってしまった。
「レイチェル様、今からでも」
「できませんし、しません!」
私はドリーの言葉を遮った。ただでさえ、最近はくっついて過ごすことが多い。加えて、室内には今マリアとドリー、ワトソンが控えていて固唾を飲んで見守っている。
ルーカスにするのは何とも思わないが、ティルにするのは恥ずかしいし、ハードルが高過ぎた。
「レイチェル様」
ドリーが懇願するように言った。大分わかるようになったが、絶対に面白がっている。
私はティルを横目でちらりと見た。やっぱり無理だ。端正な美貌と無駄に滲み出る色気は結婚したからといって慣れるものではない。ふらふらと飛び込みたくなる衝動は何とか押さえた。今、抱きつけば確実に冷やかされるのだと心を奮い立たせる。
ティルは私の心の葛藤に気づいたのか、少し機嫌を直して隣に座った。
「銀行に行ったんですか?」
「ええ。手続きは無事終わりましたよ」
ティルはそう言って私に預金額と名義を見せた。私は見た瞬間、くらりと意識が遠のいた。額が想像していた桁をゆうに越えていた。それをさらりと「共有名義」に変更してしまう彼の頭を疑いたくなる。私が結婚詐欺師だったらどうするつもりなんだ。
「これで困ることはありませんね?」
ティルはそう言って、私の左手をとった。
「…怒らないんですか?」
警戒を解いた私は脱力してティルを見た。
「何を?」
「ワトソンから聞いたんでしょう」
「杖が欲しかったんでしょう?それなら用意してありますよ。糸が抜けたら歩くのは構わない、と約束しましたし、杖がないと、かえって危ない」
ティルはそう言って部屋の隅を差した。松葉杖が置いてあった。私がどれ程それを熱望していたことか。思わず、それに飛び付きそうになってやめた。ティルに彼の上着を取り上げられた時のことを思い出したのだ。別に私はいつも無機物とお友だちなわけではない。
私は考え込んで、松葉杖に抱きつくかわりにティルの腕にしがみついた。
「ありがとうございます」
にっこり笑ってお礼を言うと、ティルはなぜか赤い顔でふらりとよろめいた。
「…正直、納得がいかない」
「心中お察ししますよ。どんな高価な贈り物も喜ばない愛しの奥様が松葉杖一つで喜ぶんだから複雑でしょうね。ああ、泣けてきそう」
ドリーが無表情でよよよ、と泣くふりをした。彼は色々失礼だ。これが平常運転らしいから最早諦めているが。
「納得がいかないが、仕方がない。約束は約束だからな。ああ、でも、こんなに喜ばれると複雑なんだ」
ティルはちらりと恨めしそうに松葉杖を見た。
私は密かに小さな胸をそっと撫で下ろした。鬼の居ぬ間に洗濯をしていたことがばれたわけではないらしい。
「ところで、ルーカスとは何を話したんです?」
私はびくりと身体を震わせた。ティルは本当に嫌なタイミングで切り込んでくる。本当にわざとじゃないのだろうか。
「ドレスの話をしました」
「ドレスの?」
「結婚したから落ち着いた物を着た方が良いのでは、と」
嘘はついていない。
「ああ。必要ありませんよ。似合うものを着ればいいし、風潮であって決まり事ではない。高位の者と色や形が被るのはよくないらしいが、最高位の王妃様は気にしない方ですからね。そうでなくても貴女は上の方だから心配しなくても…。レイチェル?」
忘れかけていたが、この人は公爵子息だった、と私は別の意味で冷や汗をたらたらかいた。
「そういう心配はしたことがありませんでした。出席する行事は少なかったし、ドレスもあまり派手なものは持っていなかったもの」
私は呻いた。
「これからも心配は要りませんよ。困らないように準備はしますし、ある程度は断れますからね。王家主催以外は」
「王家主催は断れませんよ!」
当たり前だ、と私が言うとティルは首を傾げた。聞けば、サフィニア様と公爵様は時々堂々とずる休みをするらしいのだ。あまりに胆が据わりすぎていて驚いた。
「で、他には何を?」
ティルはにっこり笑った。それだけじゃないだろう、と言っているのだとわかった。
「た…食べ物の話を、ですね」
「食べ物?」
「プ…プリーモのチョコレートが食べたい、というような話をしました」
ティルはきょとんとした後、苦笑いした。「言ってくれれば買ってきたのに」と。急に不都合が生じて食べたくなったのだから仕方がない。多分、今は味がしないのだろうが。
私達がそんな話をしていた時だ。フットマンのアレクがティル宛の手紙を持ってきた。王家の封蝋がしてあるそれを見て、ティルは不思議そうにペーパーナイフでそれを開けた。
さっと中身に目を通した後、一気に顔色が変わったのがわかった。
「レイチェル、少し用事ができたので屋敷を空けます」
彼は難しい顔で言った。一体何があったのだろうか。ごくりと唾を飲んだ。
「どこに?」
「ちょっと王宮まで。殿下を殴りに行くだけなのですぐに戻りますから大丈夫です」
「全く大丈夫じゃないのだけど!?」
私は思わず突っ込んだ。王族を殴るなんておそれ多いことだ。
ティルは長椅子に座り直して、はぁ、と息をついた。
「出張で明後日から数日使節として隣国に行くことになりました」
「近衛騎士なのに?」
近衛騎士が外交に付き添うことはあまりないと聞く。殿下あたりが外交に行くことになったので、その護衛だろうか。
数日でもいないのは寂しい。それでも、ここは送り出すべきなのだろう。
「いってらっしゃい。どうか気を付けて」
「…行きたくないし、何のために近衛を選んだのかわからない」
「はい?」
「元々夜勤が少なくて出張や遠征がないから選んだんです。長く屋敷を空けたくないから」
ティルはそう言いながら、私の髪に指を通した。私はくすぐったくて目を閉じた。
「ティルは家がそんなに好きだったんですか?」
意外だ。アウトドア派だと思ったらインドア派だったとは。
「…好きですよ。ああ、大好きだ。離れたくないんだ。自分でも不純な動機だとはわかってるんだ」
私に視線を固定したまま彼は熱っぽく語った。さっきから別のものが好きだと言われている気がしたが、気のせいだろうか。
「休み希望が妙にすんなり通ったと思ったら、これだ。最初から計画していたんだったら殿下は性格が悪い」
渋い顔で言うティルの背中をぽんぽん励ますように叩いた。
隣国は海に面していて海産物が美味しいらしい。いいな、と密かに私はティルを羨ましく思った。私は国外に出たことはない。昔から本や風景画を見て、憧れるだけだった。
私が異国の想像をしている間に、ティルが「妻同伴可能なら喜んで行くんですけどね」と言い、「それじゃあ、出張じゃなくて、ただの新婚旅行ですからね?」とドリーだけはすかさず突っ込みをいれたらしい。後からマリアにその話を聞かされて、私は耳まで赤くなり、いたたまれない気持ちになったのだった。




