7.前門の虎、後門の狼で逃場がありません
前門の虎、後門の狼とはこのことをいうのだろうか。私は本日、二度目のピンチを迎えている。
間抜けにも腰を抜かしてしまった私を、銀仮面の男は横抱きに抱えて別室に運び、長椅子に腰掛けさせた。私の目の前には悪鬼のような形相の鬼い様が、扉の前には銀仮面の男が苦笑いを浮かべて立っている。まさに袋の鼠、逃げ場はないに等しかった。
「人違いではありませんか?」
気まずい沈黙を破り、私は絞り出すようにして言った。地毛とは異なる色の鬘を被って、顔半分を仮面で覆った私を実の妹だと判ずる根拠はなきに等しい。しらばっくれて乗りきろうと考えて、何が悪い。
ワターシ、レイチェル=ヴィッツ、チガーウネ、アーハン?
「馬鹿な。俺が妹を見間違えるとでも?」
鬼い様の柳眉がぴくりとつり上がる。冗談が通じないようで、目が全く笑っていなかった。というか、仮面がより恐ろしさを増幅しているので、外してはくれまいか。
鬼い様を上目遣いで見るが、意図が伝わらなかったようだ。
「レイチェル、お前は確か友人の子爵令嬢の縁戚主催の夜会に出席しているはずだったな?」
こくこく、と私は縦に首を振った。怒れる兄に逆らうほど怖いもの知らずではない。
「申し訳ありません、鬼…お兄様。好奇心には勝てませんでした。シュタイナー子爵令嬢に無理を言って連れてきて頂いたのです」
ルーカスは私の返答にこめかみを押さえながら、溜め息をついた。引っ掛かるものを感じたのかもしれないが、突っ込むのは時間の無駄だと判断したらしい。
「全くお前というやつは…。シュタイナー子爵令嬢にも説明して、お前達は今すぐ帰れ。これ以上、ここに長居しない方が良い」
「私が問題を起こしたからですか?」
「…それもあるが、そうじゃない。これ以上は詳しく言えないが、今夜ここで大捕物がある。場が混乱すれば暫くは帰ることはかなわないだろう。わかったか?」
なんと!今まさに事件が起ころうとしていると言うのか。私が鼻息荒く、目を輝かせたのが見えたのだろう。ルーカスは更に溜め息を深くついた。
「ティル。使って悪いとは思うが、俺はここを離れることができない。妹を子爵家の馬車に乗せてくれ」
「了解。失礼、お嬢さん」
銀仮面の、ティルと呼ばれた男はそう言うと、私を再び軽々と抱き抱えた。私は彼の腕の中で手足をじたばた動かし抵抗した。一人で歩けると言っても、聞き入れてはもらえなかった。
兄も胡乱げな目で、そんな私を見つめている。全く私の信用も地に落ちたものである。
兄の友人らしき男は私をダリアの元まで連れていき、子爵家の馬車に私とダリアを押し込んだ。ダリアが何やら、キラキラした期待に満ちた眼差しを私とティルに送ってくるが、誤解も良いところだ。私たちの間には何もない。
「レイチェルにも漸く春が来たのね」
事の成り行きを何も知らないダリアが声を弾ませながら、帰りの馬車の中で言った。ダリアも例の騒ぎを目撃していたらしい。颯爽と助けに駆けつけた彼はまるで王子様のようだった、と彼女は一人で騒いでいた。
勘違いもいいところだ、と私は自嘲ぎみに笑った。彼が私に声をかけたのも、助けたのも、全ては友人の妹だからだ。決して私自身に魅力があったわけではない。舞い上がって、少しでもときめいて、本当に馬鹿みたいだと思った。
自覚して、殊更に小さな胸が痛くなった。もう間違えない、と決めたはずなのだが、私はまたつまらない感情に振り回されそうになるのだから困ったものだ。
ふ、と悲劇のオペラの結末を思い出した。女は男の裏切りに気づき、絶望して命を断つのである。最初から男の目的は政敵である家の女から情報を得ることだった。女が死んだことに気づいた男は後を追うように命を断つ。ミイラ取りがミイラになるように、いつしか男は本当に女を愛していた、そういう胸くそ悪い話だ。
あぁ、こんなことなら思い出さなければ良かった
「そういう素敵なものではないわ」
私はダリアから顔を反らし、ドレスの布をぎゅっと握り締めた。一瞬でも心を乱されたのが悔しくて、最初から誰も私を見ていなかったのが悲しくて泣きそうになるのを何とかこらえた。
私はいつだって誰かの一番にはなれない。ふとした時にそれを実感させられて、私は心の中で涙をこぼした。