閑話~公爵子息の安息~
予告通り、またまたティルナード視点…なのです(゜Д゜;)
一度だけ俺の誕生日パーティーにレイチェルが来てくれたことがある。
誘うときは物凄く勇気が必要だった。今までに彼女が俺の誘いを受けてくれたことはない。ただ、どうしても来てほしくて、思いきって誘ったのだ。
「今度、俺の誕生日で細やかなパーティーを開くんだ。良かったら君も来ないか?」
来てほしい。頷いてくれ、と思いながら、俺は横目でちらりと本を読んでいる彼女を盗み見た。レイチェルは本から目を上げると眉を寄せた。悩んでいるようだ。
「…お兄様も一緒でいいのなら。細やかなんですよね?」
盛大なものではないのか、と確認してくる彼女に俺は頷いた。規模はそんなに大きくはない。公爵家主宰のものにしては小さいはずだ。そんなにかしこまったものではないから、とつけ加えればレイチェルは漸く頷いてくれた。
俺は内心でガッツポーズをとった。ルーカス同伴なのは気に入らないが、レイチェルを伯爵家から連れ出せるのだ。ついでに公爵家に来て、少しでも気に入ってくれたら、と思う。
彼女と別れた俺はその足でルーカスの部屋に向かった。ルーカスは俺の話を聞くと不機嫌に眉をつり上げた。
「俺をお前らの間に挟んで勝手に約束するなよ」
「ルーカスが一緒に来ないと駄目だと言うんだから仕方がないだろう?俺だって本音はレイチェルと二人になりたいんだ。君と来るのはいいけど、そうなるとレイチェルのエスコート役はルーカスになるし、できれば別々に来てほしい」
俺だって本当はルーカスが同伴なんて不本意だ。保護者同伴なんてムードもへったくれもないし、実兄が一緒ならレイチェルは俺を絶対に頼りにしてくれないのはわかりきっている。彼女一人で来てくれるなら、どんなに良いだろうかと思う。
「しかし、どうやってレイチェルを騙したんだ?あいつが頷くとは思えない」
失礼なことを言うルーカスに俺は口の端を曲げた。
「騙していない。嘘はつかないと約束したんだ。俺はただ、細やかな誕生パーティーに来てほしいと誘っただけだ」
それを言えば、ルーカスは渋い顔になった。
「お前の細やかとレイチェルの想像する細やかは大分違う。多分、知ってたら絶対に行くとは言わなかっただろう。お前、随分酷い奴だな」
「細やかだろう?出席者は身内と俺と両親の友人、知人ぐらいだし、今回は王弟殿下は公式行事で来ない。いつもは誘っていないのに勝手に来るんだけど」
「レイチェルは他所の家のパーティーに殆ど行ったことがない。精々がお茶会ぐらいだ。細やかな誕生パーティー、と聞いて思い浮かべたのはシュタイナー子爵令嬢のところのホームパーティーだろうな」
「一緒じゃないか」
「全然違うからな。少人数のホームパーティーと百人単位で集まる細やかなお前の誕生パーティーを一緒にするなよ。最近、一応は友人になったと聞いているから、レイチェルなりに友人のお前を祝おうと思ったんだろうが、せめて一対一のやつにしろよ」
「そうできるならそうしたいけど、二人きりだと言えば、誘っても頷いてくれない。これ以上どうしろと?ドリーが言うには友人とはいえ、異性の屋敷に理由もなく行くのはおかしいからじゃないか、と。だから、誕生日を選んだんだ」
今までに二人きりでのデートに誘ったこともあったが、首を縦に振ってくれなかった。だから、不自然ではない口実を考えた。
「…ああ、まぁ。うん。お前の従者が言うようにただの友人の家に理由もなく行くのは不自然ではあるな。婚約したなら別だろうが。まぁ、良いだろう。ただ、後の責任はとらないからな」
ルーカスの返答に俺は頷いた。
何度もレイチェルに婚約を持ちかけているが断られている。彼女にその気がなくても、周りをじわじわ固めていきたかった。ドリーに言われたが、もたもたしている間に他の奴に彼女を取られるのは嫌なのだ。すぐに好きになってもらえなくても、周りを牽制しておきたい。
そういう意味でも誕生日は絶好の機会に思えた。
※※※
俺はそわそわしながら、会場を見回した。今のところ、ルーカス達が来たという報告は受けていない。着いたらドリーが知らせてくれるだろうから、探す必要もないのだが、昨晩は期待しすぎて眠れなかった。レイチェルとヴィッツ伯爵家の外で会うのは初めてだ。
「お兄様がご自分の誕生日でこんなに浮かれているなんて珍しいですわね。いつも面倒だと仰っているのに、今日は何かありまして?」
サフィーに邪魔されたくない俺は咄嗟に誤魔化した。いつも通りだが、会場に入った瞬間、令嬢方に周りを囲まれてしまった。その上にこの天の邪鬼な妹に邪魔をされはるのは厄介である。
レイチェル達が会場に着いたとドリーに耳打ちされて俺は適当に都合をつけて輪を抜けてそちらに急いで向かった。
「レイチェル、ルーカス、来てくれて嬉しいよ。そのドレス、凄く似合っている」
ルーカスが「俺は添え物か」と白い目を向けてくるが、そちらは無視することにした。男が男を誉めても気持ち悪いだけだ。
レイチェルは清楚で素朴なドレスに身を包んでいた。頭に飾られた花飾りも可愛いと思った。
ルーカスの腕に手を絡めている彼女の顔はなぜかひきつって凍りついていて、俺は首を傾げた。
俺と目が合うと、険しい顔で彼女は何かを言おうと唇をぱくぱくと動かした。が、結局は何も言わずに飲み込んでしまった。俺は少しがっかりした。笑ってくれなくても名前を呼んで、祝いの言葉でも貰えるかと期待していただけに。俺のために彼女から向けられる言葉、それだけで十分に幸せな気持ちになれる。
「相変わらず凄いな。規模もそうだが、贈り物も」
ルーカスがちらりと贈り物が置かれた台を見た。殆どが両親へのご機嫌伺いだとわかっている俺は「そうでもない」と言った。
レイチェルは贈り物の山を見た後、周囲を見回して、自分を見下ろしてため息をついた。表情が暗いような気がするのは気のせいだろうか。さっきから一言も発していない。
「ああ、そうだ。折角だからダンスの相手をお願いできないかな?相手がいなくて困っていたんだ」
彼女の方に手を差し出せば、周りがざわついた。会が始まってから誰も誘っていないから当たり前と言えば当たり前かもしれない。ファーストダンスはサフィーと踊ったっきり、他の令嬢からの誘いは断り続けている。
別に嘘はついていない。「踊りたい相手がいなくて困っていたんだ」から。
「男同士で踊れ、と?」
ルーカスが半眼を閉じて、俺に言いながら、ぱしりと俺の手を叩いた。
「…誰がルーカスを誘うか。俺はレイチェルを誘ったんだ。良かったら俺と一曲お相手願えませんか?」
そう言って膝まずくと俺は内心、緊張しながら、思いきって手を伸ばして彼女の手をとった。
が、物凄い勢いで振り払われて、目に涙を浮かべた彼女はルーカスを引きずりながら脱兎の如く走り去ってしまった。急いだせいで靴が脱げてしまったらしい。残った片っ方の靴を拾い上げて俺は息をついた。
「…まだ駄目なのか。大分親しくなったと思ったんだけどな。ドリー、レイチェル達は?」
「お帰りになったようですよ。いや~。しかし、派手にふられましたね」
ドリーは呆れたように俺を見て、言った。
「頑張ったんだぞ。お前のアドバイス通りにやってみたのにこれだ」
「冗談で言ったのに、まさか本当に実行するとは思わなかったので衝撃です」
「ドリーは俺を何だと思っているんだ」
「主にして面白い観察対象ですかね?好きな女の子に好かれたい一心でから回っている様は哀れです」
俺はドリーにレイチェルの靴を預けながら睨み付けた。
「お嬢様も大分面白いですけどね。まさか公爵家の廊下をお兄様を引きずりながら物凄い速度でドレスで走って逃げる令嬢が見れるとは思いませんでしたよ。しかも片っ方の靴を残して」
ドリーは靴を見ながらけらけらと笑った。
「これでまた口実ができたな。忘れ物を届けるのは不自然じゃないし、それに、誕生日を祝いに来てくれたということは嫌われてはいないんじゃないか?」
「…あなた、ポジティブですね。大勢の前で派手にふられたのに」
「あれは驚かせた俺が悪い。ちょっと期待したんだ。今なら手を繋げるんじゃないかと。俺の中の悪魔が耳元で囁いたというか」
関係を進展させるチャンスに思えたのだ。
「本能に忠実ですね。逃げられたのは注目を浴びたせいだと思いますよ。誰もダンスに誘わなかったあなたが自分から迎えに行って、しかも膝まずいて手をとれば、そりゃあね」
「その方が効果的だと言ったのはドリーだろう?」
「言いましたけど、それは今ではありません」
やれやれと肩を竦めるドリーを尻目に、俺は一気に憂鬱になった。楽しみにしていた相手が帰ってしまったというのが大きいかもしれない。
計画ではルーカスからエスコート役を奪い取った後、二人で抜け出して屋敷を案内しようと思っていたのだ。
読書の傾向からいって、彼女が好みそうな場所に目星をつけていた。屋敷を気に入って貰えれば、口実がなくても来てくれるかもしれない。
パーティーの主賓がいなくなったところで、さほど問題ではない。俺の誕生日自体が顔繋ぎの場という単なる口実に過ぎないということを俺は理解していた。
※※※
翌日、靴の片方を届けに行けばレイチェルは体調を崩しているという返事がジェームスから返ってきた。ならば見舞いたい、と取り次ぎを頼んだが、みっともない格好は見せたくない、とレイチェルが言っているのだと断られて、諦めて俺はルーカスの部屋を訪ねた。
「だから、後の責任はとらないと言ったはずだ」
ジェームスが茶菓子と一緒に紅茶を出した。茶菓子は手作りのクッキーだった。俺は紅茶にだけ口をつけた。ルーカスはクッキーに手を伸ばして口に放り込んだ。
「何が駄目だったかわからない」
「レイチェルは社交デビューもまだだし、あんな大規模なパーティーは初めてだったんだ。だから、頭の中が真っ白になったんだ。一応は家庭教師に作法は習っているが、咄嗟に出てこなかったんだ。その上にお前が余計なことをするから」
「先に言ってくれたら、こちらも配慮したよ。苦手なら会場まで来てもらわなくても俺が抜け出すから構わなかったんだ」
「それは駄目だろう。主賓が堂々とさぼるな」
「あれは俺の誕生日祝いという名目の会なんだ。だから、俺がいなくても成立するし、毎年憂鬱なんだ。あの会は」
「お前の婚約者候補が集められているんだよな?だから、殊更にレイチェルを連れて来たがったんだとは知っていた」
ルーカスが呆れたような目で俺を見た。下心は完全にばれていたらしい。あわよくば、流れで両親に紹介するつもりだった。
そうでなくても、気になる相手なのだと両親や周囲にアピールする機会だと捉えていた。
「体調を崩したと聞いたけど、レイチェルは風邪でも引いたのか?」
「昨日の今日でそんな訳がないだろう?元気だよ。昨日の大失敗について絶賛落ち込み中だ。冷静になって、祝いの言葉も言えずに大勢の前でお前の手を振り払ったのは酷いことだと猛烈に反省しているんだ」
「なんだ、それ。可愛いな。どうせなら、俺の目の前でやってくれたらいいのに」
俺は想像して、唾を飲み込んだ。
手を振り払われたことも、反応が薄いこともいつも通りなので、俺はあまり気にしていなかった。いちいち気にしていたら、身が持たない。
そうでなくても、彼女はあまり俺とは目を合わせてくれないし、手を伸ばせば怯えたように体を震わせる。言葉数も少ない。座る時だって距離を置かれる。それを不満には思うが、今は時間をかけて距離を縮めるしかないと諦めている。
本音はもっと近くに座って彼女を見つめながら、じっくりと触れたいのだが、嫌われたくないから我慢しているのだ。過去の失敗を繰り返してはいつまで経ってもただの「お兄様の友人の不審者」止まりだとドリーに諭されたせいもある。
「阿呆か。やるはずがない。ところで、食べないのか?」
ルーカスは茶請けのクッキーを指しながら言った。
俺は手作りと甘いものが苦手だ。母が前に気紛れで作ったクッキーは砂糖の塊が入っていたし、昔、女の子に貰った手作りの焼き菓子を割ったら髪の毛やら爪やらが出てきてホラーだった。だから、苦手なダブルコンポの物を口にするはずがない。ヴィッツ伯爵家の料理人あたりが作ったのだろうが。
「甘いものは苦手なんだ」
わかっているくせに言うルーカスに俺は不機嫌に答えた。
「ふうん?そうか。なら俺が全部頂くとしよう。残念だな。後悔しないといいが?ジェームス、レイチェルにはティルは帰ったと言ったんだろうな」
そう言いながら、ルーカスはクッキーを口に放り込んだ。
「ええ。ほっとされたご様子ですが、何か慌ててらっしゃいましたよ。なくしものをされたとか」
ジェームスのあんまりな言いように俺は傷ついた。
だが、負けては駄目だ。ヴィッツ伯爵家の使用人は基本的に俺には点数が辛い。理由は過去に俺が彼女につまらない悪戯をして泣かせたからだ。トーマス以外は基本的にレイチェルの味方だ。ジェームスもレイチェルは体調が悪い、とさっきは俺にはしれっと言ったくせに、ルーカスの問いには「レイチェルは俺が帰ってほっとしたのだ」とはっきり答えた。
「靴だろう?それはティルが届けたから大丈夫だ」
ルーカスはクッキーを口にしながら、ぺろりと指を舐めた。意味ありげな様子に俺は考え込んだ。ふと、皿の上のクッキーに目を落とした。ルーカスは「食べないのか。後悔しないといいが」と言った。
俺は慌ててルーカスから皿を取り上げた。もう一枚しか残っていないそれを見て、ルーカスに恨みがましい目を向ければルーカスが「気づいたか」と小さく舌打ちをした。
「要らないんだろう?俺が全部食べてやるから返せ」
「…これは元々は俺のために出された物なんだろう?なら、お前が全部食べるのはおかしい」
正確に言えば、レイチェルが焼いたクッキーだと思う。意図はわからないが、それをルーカスは涼しい顔で茶菓子に出したのだ。全く性格の悪いことをする。
クッキーをつまみ、口に放り込もうとしたところで、レイチェルが部屋に入ってきた。
「お兄様、私の部屋にあった包みをご存じ…」
レイチェルは俺の手につままれたクッキーを見て、固まった。慌ててそれを取り上げようと動いたので、俺は急いで口の中に放り込んだ。
レイチェルが「ああ」と呻き声をあげたが、返してやる気はない。恨むならルーカスを恨めばいいと思う。
咀嚼しながら想い人の手作りクッキーを存分に味わう。甘さは控えめで美味しかった。母の岩のようなクッキーとは雲泥の差である。悔やまれるのはルーカスに殆ど全部食べられてしまったことだ。
「お前が渡しそびれたから代わりに渡してやったんだ」
「渡しそびれたのではなく、渡さなかったんです。だって、あんな盛大なパーティーだと思わなくて」
「ああ。そうだな。恥ずかしくて渡せなかったんだよな。豪華な贈り物の数々に比べたら手作りクッキーは大分見劣りするし。周りは凄く垢抜けて綺麗なドレスを着た令嬢だらけでびっくりするし?」
なんだ。そうだったのか。元々誘ったのは俺だからドレスぐらい言ってくれたらいくらでも用意したのに。あれはあれで可愛かったし、気にしなくても良いと思う。それより、今の話で一つだけ気になったことがある。
「…待て。ということは、これは最初から俺の物だったんじゃないか」
俺はルーカスに詰め寄った。レイチェルが俺のために作ったクッキーをルーカスは殆ど一人で食べてしまったのだ。
「お前、要らないって言っただろう?勿体ないから食べてやったんだ。大体、俺が茶請けに出さなければ一枚だってお前の口には入らなかったんだから感謝してほしいな」
「ああ。それは感謝する。が、もっと早く教えてくれてもいいじゃないか」
知っていたら一枚一枚噛み締めながら食べていた。一枚だってルーカスにはやらなかっただろう。
「お兄様、どうして、こんな意地悪を」
レイチェルがふるふると肩を震わせた。
「レイチェルはティルに言いたいことがあるんだろう?丁度良かったじゃないか。ティルは鈍いからはっきり言わないと伝わらない」
「…本人の前で言わないで」
「何の話だ?」
「鈍い者同士でお似合いという話さ」
ルーカスは何がしたいのかわからない。
俺に何かを言いたそうにしているレイチェルに気づいて、彼女の方に向き直った。彼女は俺を睨み付けるように鋭い眼差しを向けた。何を言われるのだろうかと思わず身構えた。何しろ、彼女には拒絶されてばかりなのだ。
「あ…あの。お誕生日おめでとうございました」
それだけ言うと、彼女は猛ダッシュで逃げていった。あんまり早く走ると転ばないか心配だ。彼女の言葉の余韻を記憶に刻みながら、俺は呟いた。
「…嫌われてはないんだよな?」
「お前は一辺刺されろ。鈍いにもほどがある。あれだけわかりやすいのに気づかないんだからな。悪い奴じゃないが、妹を弄んで泣かせたら俺は許さない。レイチェルに必要なのは自分だけの王子様なんだからな。当てはまらないと判断したら、俺はいくら親友でも容赦しない」
「どういう風に?」
「そうだな。二度と会わせないようにする。純情な妹の心を弄んだ罪は重い。甘やかして忘れさせて、相応しい相手に会うまで思い出さないように守るさ」
「それは困る。二度と会えないのも、他の奴にとられるのも。凄く好きだ」
彼女が他の奴のことを見る、と考えただけでむかむかして仕方がないのだ。ルーカスは面白くなさそうに俺の頭をぱしりと叩いた。
「なら、精々努力するんだな。ジェームスの信用を得られないようじゃ、まだまだだ。あいつは忠実な奴だから主のためにならない人間は認めないし、近づけない」
俺はそこでジェームスが嘘をついたことを思い出した。ジェームスだけではない。俺はヴィッツ伯爵家の使用人に信用がないらしい。だから、レイチェルが拒否した場合、正しい情報を教えてもらえない。自業自得なのだが。
「あと一押しだと思うんだ」
惜しいところまで来ていると思うし、近づいて触れることこそ叶わないが、最近は反応に手応えを感じる。
「お前はレイチェルをどこに落としたいんだ」
「恋、だろう?」
「恋ならとっくに落ちてるだろうよ」というルーカスの呟きは残念ながら俺の耳には届かなかった。
※※※
あの言葉の意味にもっと早いタイミングで気づいていたら、フィリアと婚約しなくて済んだし、忘れられることもなかった。遠回りすることもなかった。
ルーカスは本気で言葉通りに俺を遠ざけた。忘れられたということは思い出したくもないほどに嫌われたのだ。だから、思い出させたくはない。
レイチェルの身体を侍女の待つ湯殿まで運んだ。控えていた侍女達に彼女の身体を清めた後、寝間着を着せてベッドに寝かせるように指示する。
流石に湯浴みは手伝えないから外に出て、自室に戻った。本当は湯浴みもさせたくはないが、河の泥がついた不衛生な状態で彼女を寝かせるわけにもいかない。傷口から膿んだり、感染症にかかったら厄介だ。
ラフな衣服に袖を通していると、両親に一通りの状況報告を終えたらしいドリーが遠慮がちに後ろから声をかけてきた。
「ティルナード様も湯浴みされては?」
鏡に映った姿は確かにぼろぼろだった。河に入った時についた泥やら藻やらが付着しているし、身体は少しざらついている。
だが。
「入る。ただ、レイチェルが出てからだ。何があるかわからないし、何かあれば男手が必要だろう?ヴィッツ伯爵家には?」
「旦那様方から連絡は済んでますよ。今からルーカス様がこちらに向かうそうです。伯爵夫妻は翌日来られる予定です」
「そうか。用意してほしい書類がある」
それだけでドリーは何のことかわかったらしい。
「ああ、それなら。旦那様のご指示で大分前から用意していますからご安心を。心配とは別の形で使うことになりましたが」
「父さんは俺を何だと思っているんだ」
父の失礼な心配がわかって呆れてしまった。母は割とそういうことを冗談で言うが、父は本気で気を揉んでいたらしい。息子に対する信用がないにも程がある。
「妥当な判断だと思いますよ。あなたの溺愛っぷりを見れば心配なさるのは当然です。清い関係だとは信じられないぐらいですから。ああ、今は限りなくブラックに近い溝鼠色ですかね?」
やれやれ、とドリーは肩を竦めて茶化すように言った。
「あれは…!不可抗力だ。そのことで周りにとやかく言わせるつもりはないし、彼女を傷つけるつもりはない」
ドレスを脱がせたのは悪気があったわけではない。半裸で抱き合ったのだって必要に駆られてのことだ。あの状況ではああする以外に方法はなかった。何の試練かと思ったが、やましいことはしていない。
「幸い俺以外目撃者はいませんし、うちの使用人は全員口が固いから大丈夫です。嫁入り前のご令嬢が婚約者と半裸で抱き合っていたなんて噂は広がりません。仮にそんな噂が広がりそうになれば全力で潰しますが…」
事実には違いないが、言葉尻だけを捉えれば醜聞で、レイチェルの名誉を傷つけるものだ。わざとらしく、聞くものがいれば誤解を与えそうな言い回しをするドリーを俺は睨み付けた。
「どうして、お前は誤解を招くような言い回しをわざとするんだ?」
何もなかったのはドリーが一番よく知っている。
「何もなくても、人は想像だけで面白がって事を大きくする生き物だということは貴方とレイチェル様がよくご存じでしょう」
俺はドリーの指摘に頭が痛くなった。
「…彼女は悪くない」
「ええ、よくわかってますよ」
「レイチェルじゃないと駄目なのは俺なんだ」
傍にいるだけで幸せになれる相手はレイチェル以外にはいない。
「まぁ。レイチェル様ほど可愛らしくて面白い方は他にはいらっしゃいませんからね。マリアも素直すぎて騙されやすいところは心配していました。あんなに可愛らしい方が今まで誰の毒牙にもかからずご無事でいたのは奇跡ですね。昔から俺はレイチェル様を知っていますが、旦那様方とワトソン爺は悪い噂から最初は警戒なさっていたんです。それが実物はどう考えても、あのレイチェル=ヴィッツ伯爵令嬢とは別人でしょう?」
レイチェルの噂話を思い出した。
まず彼女に悪巧みは無理だ。割と顔に出る。生来悪いことができない性質で、昔から俺にひどいことを言った後も陰で落ち込んで後悔するぐらいなのだ。
男を手玉にとるどころか、屋敷の奥育ちのレイチェルは家族や親戚以外の異性への免疫がない。婚約当初に手を握っただけで真っ赤になり、石化する彼女の反応を見て間違いないと確信した。不器用な彼女には演技ができない。
俺はいけないと思いつつも、悪い噂に感謝した。
周りがあれを真に受けた馬鹿ばかりだったから今まで無事だったとも言える。お陰で彼女のほぼ全ての最初の相手は俺だ。初めて唇を重ねた日にお互いにファーストキスだったと知った時は内心、自慢して回りたいぐらい浮かれた。実は件の従兄との仲を密かに疑って気落ちしていたのだ。どうにもならないことでも気になるものだ。
「彼女の悪友が昔流した噂に尾ひれがついて現在のようになったんだ」
「ですよねぇ。でも、今回のことは少々分が悪いですね。ティルナード様のせいでもないけど、あちらは結婚どころか婚約を白紙に戻して欲しいと言ってくるかもしれません」
「わかってもらえるまで誠心誠意頭を下げて頼むさ。殴られるかもしれないが、覚悟している」
半殺しぐらいは覚悟した方が良いのかもしれない。守ると言ったくせに、この体たらくだ。だが、俺は何と言われても二度と彼女を手離すつもりはない。
そんなことを考えていればレイチェルの湯浴みは終わったらしい。丁度ルーカスも着いたらしいと聞いた俺は彼女の部屋で落ち合うことにした。
「酷いな、おい。汚い手で妹に触れるなよ。ばっちいな」
部屋の前でルーカスに会った。彼が顔をしかめて入ってくるな、と手で追い払うような動作をしたので、俺はむっとして言い返した。
「河に落ちたんだから仕方ないだろう?」
「だから、さっさと湯を浴びて来いと言っている。大体、この無駄に広い屋敷に風呂は一つだけじゃないだろうに、時間はあったのに何でお前は浴びてないんだ」
「レイチェルが心配だったし、何かあれば男手がいるかと思ったんだ」
一応は何かあれば声をかけるように侍女には言い、自室で待機していた。何事もなくてほっとしたのだ。
「うちと違って侍女は何人もいるんだし、それこそ何とかなるだろう?それより不衛生な状態で妹の周りをうろつかれる方が不快だ」
ルーカスにしっしっと追い払われて、俺は仕方なく諦めて先に湯浴みすることにした。湯から上がって着替えると、ルーカスは漸く部屋に入れてくれた。
「そもそもレイチェルはなぜ、こんなことになったんだ?」
俺はどきりとして、身体を強張らせた。
「馬の前に何かが飛んできて、驚いた馬が暴れて逃げたんです。馬車が事故にあって、壊れた扉からレイチェル様が外に投げ出されました。そして、河に落ちたんです。今、犯人を追わせているところですが、黒幕にはたどり着かないでしょうね」
ドリーは言葉に詰まる俺の代わりに説明した。
「そうか。犯人の目星はついているんだろうな?」
「ああ。多分宰相の姪だ」
「…あのティルの押し掛け女房か」
「違うからな。昔から傍にいて欲しいのは彼女だけなんだ。レイチェルは違うかもしれないけど」
俺は思い返して俯いた。
彼女に目を落とせば、少し呼吸が早かった。時折湿った咳をする彼女の額に手を伸ばせば熱かった。
アーネスト先生はまだ着かないらしい。そのことに少し苛立ちを感じた。
「肺炎でも起こしたかな」
ルーカスはぽつりと呟いた。
「冷静だな」
「ここなら手厚い看病が受けられるだろうし、さほど心配はしていない。しつこいお前がレイチェルを死なせるはずがない」
「当たり前だ!好きなんだ、凄く。死なせてたまるか」
声を荒げたせいか、レイチェルはうっすらと目を開けた。
「…ティル。…お兄様?どうして」
「ティルから聞いたよ。河に落ちたんだってな。災難だったな」
「死ぬかと思いました。実際、直前に思い出したのがルイスの迷言集だったのが悲しい限りです」
走馬灯を見たのだ、と冗談のように笑うレイチェルだったが、彼女を喪うかと思った俺には全く笑えなかった。
「…つくづく残念な奴だな。思い出すにしても、もう少しましな思い出はあっただろうに」
ルーカスはレイチェルの手をとりながらひきつったように笑った。はっきりとわからないが、彼は怒っているらしい。
「そういえば」
「何だ?」
「さっき。うちの庭から抜いた根のついたお花を男の子にプレゼントされる夢を見ました。君がどうしてもと言うなら妻にしてやってもいい、と」
俺は転けそうになった。それは俺の人生で最初のプロポーズだった。
「それで?お前はそいつにどう答えたんだ?」
「告白されたのは初めてだったから嬉しかったです。でも、すぐにからかわれているんだと思ったから素っ気ない態度をとってしまいました」
「…そんな失礼な奴、笑ってやれば良かったのに」
ルーカスは俺を見ながら言った。
「顔は真剣だったから本気で言っているのなら悪いと思って笑えなかったし、後でトーマスに一緒に謝りに行ったんです」
俺は顔を覆った。よりによって、何であんなに格好悪いプロポーズを思い出してしまったんだろう、と心のなかで毒づいた。
「そいつがお前を長年ストーキングし続けている不審者だとしたら、どうする?例えば庭師の真似事をしたり、家族がいない隙に垣根から覗いたりしていたとしたら?」
「やけに具体的ですね」
レイチェルは口元をひくつかせた。
「どん引くだろうが、確認のためにな。多分逃げるなら、これが最後のチャンスだ。何せ、そのストーカーは今、お前の傍」
「わー!わー!」
俺は慌ててレイチェルの耳を塞いだ。
「いきなり大声を出すなよ。落ち着きのない奴だな」
呆れたように言うルーカスを俺は睨んだ。
「ルーカスが余計なことを言おうとするからだ」
「余計なことも何もただの事実だろう?」
「もしかして私に訳のわからない悪戯ばかりして困らせた方のことですか?やたらと私を追いかけ回したり、かと思えば外に連れ出したがったり。確か途中で他の方と婚約した後も、屋敷の周りに現れて、時にはトーマスと結託して私を庭に連れ出したり、誕生日にお花をくれたり?」
真顔で涼しげに言うレイチェルに俺はぴしりと固まった。彼女は寝ている間に昔のことをしっかり色々思い出したらしい。
「諦めろ」
ルーカスはぽんぽん肩を叩き、レイチェルはにっこり微笑んだ。
俺は諦めて目を瞑って覚悟した。
が、いつまで経っても酷い言葉を向けられることも、頬を叩かれることもなかった。やがて柔らかい何かに頬を包まれて俺は困惑した。目を開ければレイチェルが両手で俺の顔を包んでいた。
「二度としないと約束してくれるなら許します。貴方がどうしてもというなら、仕方がないから一緒にいてあげても良いですよ?」
俺の最初のプロポーズをなぞるように言って、くすくす笑うレイチェルに開いた口が塞がらなかった。
返事をしない俺を見て、レイチェルは首を傾げて不安げに「やっぱり、やめますか?」と言った。
俺は慌てて彼女の華奢な身体にすがり付くように抱きついた。
「約束します。何だって。どうしても、俺は貴女じゃないと駄目なんだ。レイチェル以外には考えられない。愛しているんだ。大事にしますし、一生貴女だけだと誓えます」
なぜかレイチェルは真っ赤になって、「そこまで約束して、とは言ってないのだけど」と困惑したように言った。
「最後のチャンスだと言っただろう?レイチェルはティルで本当に良いのか?独占欲が強くて嫉妬深いし、記憶力は良いし、しつこいし、凄く面倒くさいが?」
辟易したようにルーカスは言った。昔のことを思い出したのだろう。さんざんルーカスをだしにして、俺は伯爵家に通いつめたのだ。出入り禁止になった後も、何とか弁解しようとして、何度も追い払われた。私信を書いてルーカスにばれないように彼女に返す本に挟んだが、手紙だけを突っ返されたのは苦い記憶だ。
「でも、一生懸命で大きな犬みたいで可愛いですよ。大事にして頂いたし、それに…」
レイチェルはそこでもじもじしながら身体に視線を落とした。ルーカスはレイチェルの様子がどうもおかしいことに気づいて、俺に疑いの目を向けてきた。
確かに裸を見て肌を合わせたが、何もしていない。目で何事もなかったのだと弁解すれば、彼は大きなため息をついた。
「まぁ、いい。大きな犬、ね。レイチェル。そいつ、お前限定で可愛いだけで犬の皮を被った狼だからな。油断したらパクリと食べられるぞ。お前は気づいていないが、すでに半分以上噛みつかれて食べられかけている」
ルーカスはキスや他のあれこれについて言っているのだろう。長年気持ちを募らせた反動で手を出しているのは確かなので、ぐうの音も出ない。
「乱暴なことをしないなら。…しませんよね?」
不安げに瞳を揺らす可愛いレイチェルに俺はごくりと喉を鳴らし、こくこくと頷いていた。
「精一杯優しくします」
彼女は一度トラウマになったら、後に引きずるタイプなのは既に経験済みだ。結婚後も最愛の妻と追いかけっこをする趣味は俺にはない。できれば俺から逃げないで欲しい。
ルーカスは俺の後ろ頭をぽかりと叩いた。
「今手を出したら殺すからな?お前が我慢しているのは評価してもいいが、半年後までは待てよ。大事な妹なんだ。書類上の結婚は先でも仕方ないが、きちんと式は挙げて花嫁衣装は着せてやりたい。待てないならお前に妹をやるつもりはない」
何のことを言っているか理解して、俺は頷いた。
「ああ。それは善処する。ただ、結婚はもう待てない。彼女の安全のために保険はできるだけかけておきたい」
今回のことで、身に染みて再確認したことだ。
「そう言うだろうと思って、そっちは出がけにうちの両親に話は通してある。明日には署名がもらえるはずだ。俺達は怒っているんだ。それに、それが安全で最大の嫌がらせになるとわかっている」
ルーカスは極上の笑みを浮かべた。
「…お兄様、お顔がとっても悪くなってます」
レイチェルが口元をひきつらせた。
「お前がお人好し過ぎるんだ。もっとティルを利用しろ。お前が絡むと残念だが、一応頭も顔も良いし腕はたつし、金持ちだし権力も持っている。更にお前にベタぼれで甘い。最強のカードを持っていながら切らないなんて勿体ない奴だな」
ルーカスは本当に酷い奴だ。レイチェルは困ったように俺を見て眉根を寄せた。
「利用するなんて」
俺は彼女を抱き締めて頬を擦り寄せた。彼女は自分ではひねくれていると思っているが、ルーカスの血縁者とは思えない程優しい。
「うちの親父殿もこれを見れば完全に納得するだろうにな。娘を他所の信用ならない男にとられる複雑な気持ちはわからないでもないが」
「やっぱり伯爵は乗り気ではないのか?」
俺は彼女の身体を抱いたまま、ルーカスの方を見た。
「まぁな。男親はどこもそんなもんだ。派手な噂が流れているお前じゃなくても面白くはないだろうよ」
「今回の件で何発かは殴られるつもりではいる」
「殴らないと思う。お前を殴ればレイチェルが黙ってないから。うちの両親は娘には甘いんだ。だから、レイチェルが本当に望むなら頭ごなしには反対はしないさ。どういうわけかお前の両親も使用人もレイチェルには随分甘いようだが何かあったのか?」
「良い意味で予想を裏切って、随分愛らしくて可憐なお嬢様が嫁いで来られるとあって、皆はしゃいでいるんです。さっきの湯浴みだって侍女総出で安全にお運びしたそうですよ。俺もまさか、あのお嬢様を本当に口説き落とせるとは思いませんでした。最初はどう見てもティルナード様の無謀で一方通行な片想いだったし」
「ドリー?」
「使用人に好かれるのは素晴らしい才能だと思いますよ。ね、ティルナード様?」
「それは俺に対する皮肉なのか?」
「あはは~。ティルナード様、ジェームス爺さんに滅茶苦茶邪険にされてますもんね。昔も今も」
「笑いごとじゃない。ジェームスだけじゃないんだからな」
ヴィッツ伯爵家からレイチェルを連れ出したかったのは必ずといっていいほど邪魔が入るからだ。俺が我慢できずに手を伸ばすのも悪いのだと理解してはいる。だけど、結婚が決まったのだから、少し位は大目に見てくれてもいいじゃないかと思う。
「ところで、レイチェル様がさっきからお静かですが、お身体は大丈夫ですか?アーネスト先生が到着したようですが」
「先に言ってくれ。レイチェル、早く見てもらいましょう」
声をかけたが、返事がない。腕の中のレイチェルを慌てて見ればすーすーと寝入ってしまっていた。身体は凄く熱い。
「色々あって、やっぱりお辛かったんでしょうね。悪いことをしたなぁ」
「そうでもない。心配だったが、大分打ち解けているようで良かった。これなら大丈夫だな」
「何が?」
「お前との結婚だよ。レイチェルは人見知りで箱入りだから、他の屋敷で上手くやっていけるかが一番心配だったんだ。予想以上に可愛がってもらえているみたいで何よりだ」
ルーカスはくしゃりとレイチェルの髪に手を入れた。




