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番外~公爵家従僕の傍観事情~

主の様子がおかしくなったのは懇意にしている伯爵子息のお屋敷にお邪魔してからだ。

それまでは女の子の好みそうな物には全く興味を示さなかった。というか、それらは無駄で浪費だと考えていた彼が町中のショーウィンドウの前で足を止めた。そこは女性ものの洋裁店でドレスや宝飾品を取り扱っている。


「ティルナード様に女装趣味があったとは意外ですね」


「違う」


「なら、何で食い入るように見ているんですか?サフィー様や公爵夫人に贈りたいわけじゃないですよね?」


彼が見ているのは可愛らしいドレスを着たトルソーだった。公爵夫人やサフィー様のイメージには合わない。お二人はどちらかというと綺麗なイメージだ。


「似合いそうだなと思ったんだ」


誰に、とは言わなかった。主は頬を染めながら、視線を横に逸らした。その反応を見て、好きな女の子ができたんだな、と俺は理解した。恐らくは着ている姿を想像して勝手にのぼせ上がっているらしい。しかし、珍しいこともあるもんだ。


「贈ればいいじゃないですか?」


「サイズを知らない」


「聞けば?」


「ただでさえ嫌われているのに、そんなことをすれば余計嫌われるだろう」


合掌。絶望的な片想いじゃないか。だけど、主は性格こそ難があるが、容姿は整っているし、条件は良い。そんな主を袖にするご令嬢とはどういう人物なんだろうか。興味が湧いた。


※※※


覗きは犯罪である。従者としてはそう進言すべきだ。

窓越しに主の想い人を確認して、これまた難しい相手に懸想したものだと思った。

従兄と話しながら、リラックスして笑うご令嬢は気弱で大人しそうな可愛い女の子だった。なるほど、あのドレスのイメージぴったりだ。性格も容姿も主とはまるで正反対のようだ。彼女をぼーっと赤い顔で熱のこもった目で見つめる主を見て、俺は面倒なことになったと溜め息をついた。

ご令嬢は主に気づくと顔をひきつらせて、怯えるように従兄の陰に隠れた。みるみる内に可愛い顔が歪んでしまって、隣でへこむ主に俺は進言した。


「諦めましょう。あなたには無理です」


どうやら主は彼女を怖がらせるような何かをやらかしたらしい。これは…。


「傷が浅いうちに諦めた方がよろしいかと」


「嫌だ」


「旦那様に相談すれば縁談はまとめることができるでしょうが、無理矢理はお相手が可哀想ですよ」


好感度マイナスの主に彼女に気を許してもらうのはまず無理だろう。主からの贈り物なんて絶対に受け取ってもらえないだろうと確信した。

彼女にこだわる主の気持ちはわかるが、現状、二人の関係は修復不可能に見えた。


「…彼女が良いんだ」


珍しく食い下がる主に俺は息をついた。


「俺としては安心ですがね。あなたもサフィー様も異性には興味がなさそうだし、ワトソン爺は公爵家断絶を心配してましたから」


公爵様に話せば、全力で掛け合って早々に婚約はできるだろう。ただ、主はご令嬢と相思相愛になりたいようだからそれでは意味がない。主は彼女の従兄の立場が羨ましいらしい。


「全部欲しいなんて我が儘ですよ。彼女の身柄をとるか、全部諦めるか、せめてどちらかを選んで下さい」


俺ははっきり現実を突きつけた。


「彼女が俺を好きになってくれるかもしれないじゃないか」


「世迷い言を言わないで下さいね。あからさまに怖がられて避けられているのに、天地がひっくり返ってもあり得ませんからね。あそこまで嫌われるなんてあなた、何をしたんですか?」


ティルナード様はぽつぽつと無自覚でしてしまった悪行を打ち明けた。聞くのではなかったと後悔してこめかみを押さえた。

そんなやり取りをしていれば、伯爵家家令が主にお茶の準備が整ったと告げにきた。主の後ろに付き従い、部屋に案内されて入ると、主の意中の令嬢が身体をびくつかせながら待っていた。その様子に主は傷ついたようだが、自業自得で肩を持つ気にはなれなかった。

恐らくは主の友人である兄に言いつけられたのだろう。ティルナード様の友人の方は主の訪問の主旨がわかっているらしい。当人同士はそんなつもりはないだろうが、恐らくはこれは非公式なお見合いなのだ。

伯爵家に来る前に主は巷で人気の洋菓子店に自ら長時間並び、手土産を用意した。前にその店の菓子を持っていった時にご令嬢が喜んでいたらしいことを彼女の兄から聞き付けたらしい。彼女の喜ぶ顔を直に見たくなったという可愛らしい動機からだ。

茶請けに並ぶ菓子を見て彼女は一瞬目を輝かせたが、手をつけようとしなかった。観察するようにじっと見つめる主の視線に気づき、ぴしりと固まった。

二人の間に会話はなく、重苦しい空気が流れた。ご令嬢の方はティルナード様が見つめるものだから居心地悪そうに、びくびくしながら俯いている。

ティルナード様は好きな女の子を前にすると、気の利いた言葉も出なくなるらしい。色恋沙汰に慣れていないせいもあるのだろう。

とにかく恋愛に不器用すぎる。

せめてガン見せずにチラ見程度に留めておけばいいのに、この人は頬を赤くして視線を固定したまま全く外さない。気持ちはわからないでもない。恐らくは、こんな風に無理矢理にセッティングしてもらわなければ、彼女が同じ空間で過ごしてくれる機会はないのだろうと思った。だから一分一秒たりとも無駄にしたくないんだろう。何も知らない者が見れば、冷たい顔で睨んでいるようにも見える。あれは不安になっているだけだと付き合いの長い自分ならわかる。実際、目の前の彼女は主が不機嫌だと解釈したようだ。蛇に睨まれた蛙の如くびくびくしながら、こちらを窺っているのがわかった。

とにかくカオスだ。主は一度彼女に告白しているらしいが、これでは彼女には全く伝わっていないというのも納得で、この調子だと一生ティルナード様は彼女にとっては「お兄様のお友達の怖い人」止まりだと思った。


「あの…。食べないんですか?」


意を決したように令嬢が主に伺いを立てた。まるで死地に向かう戦士のような悲壮感漂う顔に俺は彼女に同情した。兄から相手を頼まれている以上はこの、気難しく我が儘な人の相手をしなければならないのだから。

主は地味に傷ついているが、あなたの態度がそうさせているんだと声を大にして言いたい。


「甘いものは苦手なんだ」


つっけんどんな主の返答に令嬢は驚いたような、納得がいかないような、何とも言えないような顔になった。ならば、なぜ買ってきたのだと言いたげだ。

ティルナード様もティルナード様だ。もう少し言い方があるだろうにと頭が痛くなった。


「…食べないのか?」


主は彼女にぶっきらぼうに聞いた。別に本当に機嫌が悪いわけではなく緊張して不安になっているだけだ。前情報では凄く喜んでいたらしいと聞いていたのに、口に入れてももらえず思うような反応が返ってこなくてがっかりしているらしい。彼女が従兄と一緒の時とは違い、ガチガチに緊張して全く楽しそうでないのも堪えているようだ。

彼女はちらりと主を見上げて、再び俯いて膝の上でドレスを握りしめた。その様子に主はまた傷ついたような顔をした。

俺は小声で「客人が手をつけないのに先に手をつけるわけにはいきませんよ」と耳打ちした。納得したように主は菓子に手を伸ばし一つ摘まみ、口に放り込んだ後、紅茶で流し込んだ。

そのまま促すように令嬢を見つめた。

だから、なんでもっと女の子に優しくできないんだと頭が痛くなった。この人は態度がぞんざいで女の子の扱いが下手くそ過ぎる。それでもモテてきたのは相手が主に好意をもっていたからだ。

それでも、おずおずと彼女は菓子に手を伸ばし、口に含んだ。一瞬口許を綻ばせて柔らかい笑みを浮かべたが、主の視線に気づいてすぐに仏頂面になる。

それでも主は満足したらしい。彼女がこの店の菓子は気に入ったようだと頭にインプットした後、再び彼女を無言で見つめた。

なんだこれ。いつもこうなら、彼女に激しく同情する。彼女がここにいるのは完全に主のわがままだ。

観察される令嬢は居心地が悪そうだ。更にその状態で主は腰を上げて、彼女の真隣に移動しようとしたものだから…。

令嬢は立ち上がって脱兎の如く、ぱたぱたと部屋を出ていってしまった。


「どこが駄目だったんだろう?」


「全部です。いきなり物理的に距離を縮めようとする人がありますか」


「そんなことを言われても、触りたくなったんだから仕方ない。何となくいけそうな気がしたんだ」


今の流れでどこがいけそうな気がしたんだ、と突っ込んだ。

ティルナード様は真似をしたくなったんだ、と言った。恐らくは従兄が彼女の傍で髪を梳いていたのが余程羨ましくて、自分も触れてみたくなったのだろう。しかし。


「あなたは女心の機微というものを学んだ方が良いです。全く親しくない不審者に急に間近に来られたらびっくりしますよ」


「でも、彼女の従兄もカイルも彼女に気安く触れていた」


主は手を握りながら言った。

「カイルよりも前に俺の方が彼女とは知り合っているし、顔を合わせる頻度も過ごす時間も長い」と。親しさは年季や顔を合わせる頻度には比例しないだろう。知っているはずだが、敢えて都合の悪いことに気づかないふりをする主に突っ込んだ。


「気を許している相手にはそうでしょうけど、あなたは警戒対象なんですよ?まずは好かれる努力が先でしょう。好かれたら相手の方から寄ってきて触ってくれますよ」


そもそも好かれていたら中座されることはないし、距離だって最初から近くに座っていたはずだ。ティルナード様の相手をしていたのだって兄の言いつけがあったからだ。

暫くして、兄の後ろに隠れながら、令嬢は戻ってきた。彼女は驚いて中座したことを謝罪した。だが、この場合悪いのはいきなり席替えをはかった主の方である。


「レイチェル。悪いが、もう少しティルの相手を頼めないか?」


「…私といても楽しくないと思います。ずっと、つまらなそうだったもの」


令嬢は兄の影に隠れながら視線を宙に彷徨わせた。

あからさまに主の応対を回避しようとしているのがわかって、主は肩を落としたが、気力を振り絞って「退屈はしていない」と慌てるように全否定した。ここで肯定したら、彼女に逃げられてしまうから主も必死だ。


「ティルもこう言っているんだが?」


「お兄様のご友人のお相手を私がするのは変です」


彼女は咎めるように兄を見上げた。

ごもっとも。彼女の言い分は正しい。

本当は彼女の兄への用事の方が口実に過ぎず、ティルナード様の目的は彼女と一緒の空間で過ごす時間なのだが。そんなことを言えるはずもない。言っても信じてもらえないだろう。

彼女は知らないのだ。忙しい合間を縫って予定を調整して、主が高頻度で通いつめていることも、主の淡い恋心も。


「それは、まあ。うん。なんというか終わったんだ。何なら、こいつのことは無視していいから、ここで過ごしてくれないか。そうすれば暫くはこいつも満足して落ち着くから」


「どうして?」


令嬢は兄を不審げに見つめた。


「…ティル、諦めろ。今日はこれ以上は引き延ばすのは無理だ。できればこのまま妹のことは諦めてくれ」


「…嫌だ。もう少しだけ。一緒の部屋にいてくれるだけでいいんだ。もう勝手に近づかないと約束するから」


主は令嬢に頼み込んだ。彼女はもの言いたげな眼差しを向けた。彼女にしてみれば、主がなぜ自分をひき止めようとするのか理解できないのだろう。この場に彼女の兄がいなければ、速攻でお断りされたに違いない。

本当に恋愛下手だな。ストレートにそこは一緒にいたいと言えばいいのに。そもそも彼女とお茶をするためだけに長時間人気の菓子店に並んだのだ。見かねた俺は口を出していた。


「お嬢様。ティルナード様はお嬢様と一緒にお茶をしたいんですよ。だから、お茶が終わるまではお付き合い願えませんか?」


「…」


彼女は迷うように、不安げに兄の服の裾を掴みながら、彼を見上げた。ティルナード様と二人きりは怖いらしい。


「なら、こういうのはいかがでしょう?お兄様とティルナード様と三人でお茶をするんです。お兄様がご一緒ならお嬢様も安心でしょう?」


ご令嬢は暫く考え込んだ後、「それなら」と渋々頷いた。

俺は初めてティルナード様に尊敬の目を向けられたが、恋愛音痴に讃えられても嬉しくはない。


※※※


主の顔面が蒼白になったのは冷たい河に落ちたせいではない。

引き上げられたレイチェル様は息をしていなかった。主はその事に取り乱していたが、すぐに気道を確保して人工呼吸を試みた。

息を吹き返した彼女を見て、俺も密かに胸を撫で下ろした。とはいえ、油断はできない状況には変わりない。全身も唇まで真っ白なレイチェル様は小さな身体を小刻みに震わせていた。呼吸は浅く、早く、溺死は免れても凍死も心配される状態だった。足の傷も深さがわからない。

主に彼女を馬車の中に運んで毛布で暖を取るように伝えた。二人とも身体は相当冷えきっている。馬車が動かせなくても雨風凌げる場所で暖をとってもらった方が大分ましに思えた。主も素直に頷いた。

俺は昔の小憎らしい主より今の主の方が好きだ。

昔の主は誰が傷つこうが、こんな風に取り乱すことはなかっただろう。小説なんて無駄だと読まなかったし、あまり笑わなかったように思う。すべてを見下して、感情を動かさない人形のような人だった。

氷のような主が熱をもったのは彼女に会ってからだ。主は彼女の好きな物を理解しようと、興味がなかった小説を必死で読み漁った。彼女に好かれたい一心で彼が無駄だと切り捨ててきたことも色々努力してきた。

覗きは感心しないが、人に興味を持つのは悪くない。少なくとも、遠目で彼女が笑うのを息を呑みながら見つめる主は年相応だった。自分に向けられないそれを熱望しながら見守る主の姿は面白かったし、健気だとさえ感じたのだ。

主が結果的に女性の憧れる王子様のようになったのだって彼女のせいだ。昔のまま育っていたら、こうはならなかったと思う。

脇目をふらずに長年思い続けた相手なのだ。レイチェル様がどうしても嫌なら仕方がないが、そうでないなら従者としても想いを遂げさせてやりたい。噂に反して全く女性経験がない主は彼女に触れられることを許されるなら大事にしたいと思っていたはずだ。漸く念願かなって手を繋げる関係になったのだ。

どれだけ我慢強く慎重に主がレイチェル様との距離を縮めていったかわかるだけに、今回のこれは許せない、と怒りに震えた。

合理主義の主は前ふりをせずに本題から入る。本来は気が短く堪え性がない人だ。レイチェル様の最も苦手なタイプで、水と油のように相容れない存在だろう。

レイチェル様は頭は悪くないが、全体的におっとりしている。誤解されやすいのもそこに原因がある。色々考えているのに言えないまま話は変わってしまうらしい。

だから、短気で待てないティルナード様はさぞや苛々して仕方がないだろうと最初は思ったが、そうでもないらしい。見ていれば謎はすぐに解けた。主はレイチェル様の声も好きなのだ。自分に向けて考えて発せられる言葉が聞きたいがために一方的に話しかけてはひたすらに返事をそわそわと待つ主は健気を通り越して哀れだった。最近は随分幸せそうだった。結婚に頷いてくれたのだとにやけた顔で惚気ける主に爆発しろ、と思ったのは言うまでもない。

実のところ、あの主があそこまで甘く、他人に合わせられるのはレイチェル様限定だ。実際、二人のいちゃつきっぷりを目の当たりにした時は鳥肌が立った。「氷の貴公子」という通称の如くティルナード様は普段は滅多に笑わない。その主の顔面をあそこまで崩壊させることができるのはレイチェル様だけだと思う。主にとってはレイチェル様の存在自体が癒しらしい。全てが可愛いのだから愛は偉大だ。多分、主は何時間だって彼女と過ごせるし、会話がなくても傍にいられるだけで幸せを噛み締められるのだろう。


発煙筒を上げた後、早く救援が来てくれ、と願いながら周囲を警戒した。馬車が事故を起こしたのは俺の警戒が甘かったせいだ。まさか、急に横から何かが飛んできて馬が驚いて暴れて逃げるとは思わなかった。馬車の扉が壊れていたせいでレイチェル様が外に投げ出されるとは思わなかった。あの不良品を押し付けた馬車屋は後で訴えてやる。

レイチェル様の身に万一のことがあれば、主は脱け殻のようになってしまうかもしれない。というか、後を追いかねない。それは怖い。


「忙しくなるなぁ」


息をついた。次に主が言い出しそうなことはわかる。

ティルナード様はレイチェル様を失う恐怖を確実に感じたはずだから、二度と手を出されないための策を講じるだろう。主の望みであり、最も簡単で堂々とレイチェル様を傍に置いておける口実にもなる。

もっと早くにそうすべきだったかもしれない。しなかったのは主が一応はレイチェル様のために順序や常識を気にする人だったからだ。昔のままの短気な主ならレイチェル様が結婚に頷いた瞬間、即日に式を挙げて屋敷にさらって押し倒していただろう。それくらいしても不思議はない。俺だって最初聞いた時は信じられなかったのだ。まさか、レイチェル様から主を「好き」と言ってもらえる日が来ようとは思わなかったし、婚約は力技でなんとかできても結婚は難しいだろうと思っていた。

立場が代わればレイチェル様は安全になるし、こちらも堂々と抗議ができる。きっと主の励みにもなるだろう。公私ともに今まで以上に頑張るに違いない。屋敷で待つ可愛い奥方のために。ああ、胸焼けしそうだ。

世間的には一見、公爵家に得のない、不釣り合いな縁談に見えるが、実はこちらには良いことづくめだ。金や地位には困ってなくても、後継だけは本人がその気になってくれないとどうしようもない。フィリア様の時と違って、嬉しそうに自らせっせと彼女を迎え入れる準備をし、昔の本人曰くの盛大な「無駄な浪費」をする主を見れば、その心配はなくなったと言える。あの甘い部屋の家具や必要品について意見を求められた時は心底どうでもいい、の一言しか思い浮かばなかった。そもそも、あの時点では婚約したばかりで結婚はまだ決まってないというのに気が早いというか。結納だってそうだ。浮かれていた時に受けた遠回しのお断りの申し出に危機感を感じて、本人と家族が呆気に取られている間に強引に押し付けてしまうのだから。実は唐突な婚約の申し出を本人の前で恐れ多くて断れなかっただけ、と後から気づいたティルナード様のへこみっぷりは笑えた。上機嫌でヴィッツ伯爵邸にいる愛しの婚約者に会うために足繁く通う主の姿を見ていただけに。伯爵側もまさか、ティルナード様が新婚の住まいまで準備し始めていることを知らなかっただろう。

レイチェル様は全くわかっていなかったが、ティルナード様は最初から彼女と結婚するつもりだったし、本気で好きだった。一目ぼれで初恋というのも、事実だ。だから、不釣り合い、幼女趣味、女の趣味が変わったなどと知人や友人にからかわれる度に不機嫌になり、落ち込んでいた。レイチェル様が幼く見えるのはフィリア様と比べられるからだ。レイチェル様自体は清楚で可憐な、お人形みたいな繊細な容姿をされている。背が低く、華奢だからより少女めいて見えるらしい。第一、ティルナード様の好みは最初からレイチェル様だから急に趣味が変わったわけじゃない。

ルーカス様には既に諦められている。長年、ティルナード様に纏わりつかれたせいで、最近は悟りの境地に達したらしい。ティルナード様がレイチェル様の嫌がるようなことは強引にはしないとわかっているので、もう反対はしないだろう。

それに案外、二人はお似合いだ。ティルナード様の好みは難しい。彼女を逃せば次はない。レイチェル様は普段こそ夢見がちな、ゆるふわなお嬢様に見えるが、話してみれば意外と堅実で芯はしっかりしている。そして、可愛い外見に反して無自覚で昔から主の扱いが酷い。そこはある方との血の繋がりを強く感じる。

自分に自信がない彼女は今回の件でできた足の傷とか小さなことを気にして、また結婚を躊躇うだろうが、旦那様方も俺達も既に彼女以外にはいないと考えている。本来女性に淡白なティルナード様があそこまで執着し、尽くす相手を逃がすつもりはない。仮に後遺症が残っても迎え入れる所存だ。

でないと、あの人、全部捨てて本気で最愛の彼女をさらって駆け落ちしかねない。そうなると伯爵家に申し訳がたたない。それはそれで面白いけど、四六時中ティルナード様と二人きり…なんてレイチェル様が少し可哀想だ。あの人の愛は重いから適度に誰かが邪魔して差し上げないと。

あの人は貴族には似合わず、投資と株式でかなり儲けているからわざわざ仕官や領地経営で働かなくても良いぐらいなのだ。加えて、家令並のスキルを習得している。レイチェル様がお嬢様育ちだろうが、生活は余裕で成り立つし、四六時中世話をしながら一緒に過ごせるぐらいに余裕はある。

旦那様そっくりで貴族社会がいつまでも続くとは全く信じていないらしい。仮に今の社会がなくなっても生きていけるぐらいには生活力がある。

身体にできた傷など些細な問題だし、ティルナード様が気にしていないのだから問題ない。それに巻き込み事故だから、こちらが責任をとるのが筋だ、という方向でレイチェル様を丸め込む…いや、説得しよう。それが一番平和的解決だ。


「ああ。でも、その前にどうかご無事で」


レイチェル様は病弱ではないが、強い方でもない。サフィニア様と比べると、大分か弱い。

余談だが、サフィニア様はああ見えて野生児だ。きれいな薔薇には棘があるというが、尖りすぎていて困ったものである。頭がよく回るし、悪戯が過ぎる。か弱いレイチェル様には絶対にしないし、慕っている様は天使さながらだが、気に入らないものには容赦しないところから影では「公爵家の銀色の悪魔」と呼ばれている。実際、ティルナード様の前でレイチェル様に甘えて抱きついて、ほくそ笑みながら悔しがる様子を楽しんでいる姿は悪魔だ。兄妹揃って好みはそっくりで、レイチェル様を気に入って本気で愛でているらしいからティルナード様には厄介だ。今のところ、サフィニア様の方がレイチェル様と親しげな様子なのも涙を禁じ得ない。

ルーカス様にはレイチェル様は気管が少しだけ弱くて喉を痛めやすいのだと聞いている。冷たい河にドボン、だなんてよろしくないに決まっている。心配だ。何かあれば事だ。

救援が来たら、医師の手配もすぐにさせよう。湯の準備と保温の準備も必要だろう。伯爵家にもすぐに遣いを出して、主が誤解を受けないように事情を詳らかに説明しなければならない。その辺は旦那様あたりが手配済みかもしれないが。

本当に呪われているんじゃないかと思うぐらい、お二人の間には昔から邪魔ばかり入る。今回の件も命を狙ったものではないのだろう。殺人未遂になれば、いかな弱小伯爵令嬢が相手でも流石にあちらもただでは済まない。

いつかの似非占い師曰く、ティルナード様は永遠にレイチェル様とは結ばれない運命にあるらしい。その時は王弟殿下と爆笑したが、今は全く笑えない。本当に死ぬかと思ったのだ、ティルナード様が。長年仕えてきてあんな顔は初めて見たし、もう見たくない。

俺は頬を両手で叩いた。しっかりしなければ、と思う。何だかんだで主には幸せになってもらいたいのだ。


「早く」


救援よ来い、と思いながら、俺は空を仰いだ。

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