6.仮面舞踏会は危険がいっぱいです
ザルツブルク大公主催の仮面舞踏会会場に入るとあちこちにムード漂うキャンドルの灯りがちらちら揺れていて、とても幻想的だった。今回の夜会のテーマはキャンドルのようだ。
出席者の礼装も凝っていた。普段はあまり見ない大胆な意匠のものが多い。背中までぱっくりとあいたドレスや胸元が大きく開いたものなど、同性でも目のやり場に困るものを着用している女性の多いこと。仮面を着用しているためか、どこそこの家のものとすぐにわからないことが気を大きくさせる要因なのだろう。
間違っても私が着れば哀愁を誘うような、自信溢れたドレスのご婦人方を見る度に私は心の中で呪いの言葉を吐いた。ダリアが私の思考を読んで可哀想なものを見るように、私の胸部を眺めたが、気にしない。
潔癖な気のある兄ルーカスが仮面舞踏会を嫌悪している理由が何となくわかった。深窓のご令嬢が出席するには些か不健全で教育衛生上、あまり宜しくない。しかし、こんな場所に出向かねばならない兄の仕事とはどういったものなのか。俄然、興味が湧いてしまったのも事実である。
壁際で適当に二人でグラスを片手に料理を摘まんでいると、何人かの男性にダンスに誘われた。ダリアは誘いを受け、ダンスを楽しんでいる。私は誘いを断り、そんなダリアを壁際から見守った。
密かに私は感動していた。仮面で顔が隠れれば、私も普通のご令嬢同様にお誘いがあるのだ。決して加齢臭が滲み出ていたわけではない、と心の中でグウェンダルを笑ってやった 。
「失礼、そちらの素敵なお嬢さん。どうか私に貴方と踊る栄誉を頂けませんか?」
長身の亜麻色の長い髪の、銀色の仮面をつけた男が私の目の前に立っていた。仮面の隙間からは長い睫毛に縁取られたサファイアブルーの瞳が覗いている。
私は後ろを振り返った。それから左右をきょろきょろ見回した。人違いかと思ったが、彼は私に声をかけたらしい。
私の挙動不審な様子を見て、彼は面白そうにくつくつと喉を鳴らして笑った。
私にとっては笑い事ではない。人違いなら居たたまれないことこの上ないし、今までに「素敵なお嬢さん」なんて歯の浮くような台詞を言われたためしがないのだ。
「ごめんなさい。ダンスは苦手ですの」
私は曖昧に笑い、彼の誘いを断った。素敵な殿方から声をかけられるのは悪い気はしない。
ただ、私は冗談抜きでダンスは苦手なのである。事実、私は練習に付き合わされたグウェンダルや兄の足をヒールで踏みまくった実績がある。未だにその話でからかわれるから、私の中では軽いトラウマになっている。
「それは残念だな。では、ご一緒に話でも…」
彼がそこで言葉を切った。私も彼の視線を目で追った。何やら、揉めているのか近くで言い争う声が聞こえる。
小太りの背の低い男性が、胸元の開いた大胆なドレスの女性に言い寄っていた。女性は嫌がっている様子だが、男性は気づかず、彼女の腰に手を伸ばした。彼女が怯えて短く悲鳴を上げた。
「放して下さい」
「失礼だな。僕からの誘いを光栄と喜ぶならまだしも、身の程を弁えたまえ」
うん。仮面舞踏会に身分などあってないようなものだろう。そもそも、家名を隠して一時のアバンチュールを楽しむのが、仮面舞踏会の醍醐味なのだ。それを権力をひけらかすなんて情緒もへったくれもない。心の中で突っ込みを入れる。
彼の衣装にはベニス侯爵家の家紋が刺繍されていた。頭隠して尻隠さずとはよく言うが、ここまで愚かしい人がいるのかと半ば呆れてしまう。
周囲は見てみぬふりだ。巻き込まれてはたまったものではないし、下手を打つと、それが自分の家の醜聞の元になるからだ。
私は下品な笑いを浮かべる男と怯える女性を交互に見て、気づいたら間に割って入っていた。後ろで誰かの呼び止める声が聞こえたような気がしたが、気のせいに違いない。
「何の真似だ?」
邪魔が入った男は高圧的な態度は崩さず不機嫌そうに眉を寄せた。私は女性の手を取り、背中に庇い、後ろに後ずさった。私より身長の高い女性は小柄な私の背中から絶妙にはみ出して隠しきれていないのだが、それは仕方のないことだ。
「嫌がっているではありませんか。やめて下さい」
声が震える。世間では悪人顔で国家転覆を企んでいるらしい私だが、実際はただの小心者の非力な一人の令嬢に過ぎない。
男は私の全身をなめ回すように眺めた。その視線が私の慎ましやかな胸部に止まると、彼は馬鹿にするように鼻で笑った。
「子供には関係ない話だ」
おい。こら、今どこを見て言った。喧嘩なら高く買ってやる。表に出やがれ。私は心の中で吠えた。お前は今、全世界の貧乳女性を敵に回したのだ。
「嫌がっている女性に無理矢理、言い寄るなんて、ベニス侯爵家も格が知れてますわね」
気づいた時には手遅れだった。うっかり口が滑ったのは頭に血が上ってしまったせいだろう。
男は一瞬呆気に取られたような顔をした後、顔面が蒼白になり、すぐに耳まで真っ赤にして、唇をわななかせた。男の百面相に周囲からくすくすと笑い声が上がる。
「おのれ。貧相な小娘風情が我が侯爵家を馬鹿にするか」
男の手が私に伸びて、私はキャンドルの灯が集まる壁に向かって思いきり突き飛ばされていた。
私の頭の中で、仮面舞踏会に纏わる伝説的な醜聞が呼び起こされる。遥か昔、ハイヤー伯爵家で異教徒の真似事をする趣向の仮面舞踏会が催されたことがあったそうだ。主宰者とその友人が異教徒の格好をして松明を持ち、はめを外していた。その松明の火が燃え移り、大火事が起き、哀れな主宰者と友人は丸焼きになり、助からなかったという。
突然だが、レイチェル=ヴィッツ伯爵令嬢終了のお知らせである。ああ、お父様、お母様、お兄様、先立つ不幸をお許しください。願わくば、私の死後、ヴィッツ伯爵令嬢が丸焼きになったという醜聞で苦しまないことをお祈りします。
私は身体に襲う焼き付くような痛みを想定して、目を閉じた。
おかしい。温かく少し固い何かにぶつかった感触はあるが、いつまで経ってもひりつくような痛みは襲ってこない。
「勇ましいお嬢さんだ」
私の頭の上で呆れたような声が響いた。何かが私の腰に回っているのに漸く気づいた。それが人の手であり、声の主がキャンドルの壁に突っ込む前に私を抱き止めてくれたのだと理解するのに数秒を要した。
「可憐なご令嬢に手を上げるなど感心しないな」
顔を上げると、銀色の仮面をつけた男が不機嫌な声で小太りの男を睨み付けていた。私をダンスに誘った男だ。彼の放つ冷気に圧倒されたのか、小太りの男はびくり、と身体を震わせた。
私は背中をぽんぽん、と叩かれて全身から緊張の糸が切れて不覚にも彼に身体を預けてしまう格好になる。彼は私を抱えたまま、気にした素振りを見せなかった。
誰かが呼んだのだろう。漸く警備兵が駆けつけ、小太りの男は脇を掴まれ、連れて行かれた。私に向かって何やら喚いているが、銀仮面の男に抱き締められているせいで男が何を言っているのか聞き取れなかった。
「おい!これは一体どういうことだ」
銀仮面の男の友人だろうか。彼は人混みを掻き分けながら血相を変えてこちらにやって来た。
「ルーカス」
銀仮面の男が私の身体を抱えたまま、友人の名前を呼んだ。私はその名前を聞き、さーっと全身から血の気が引くのを感じた。
「なぜ、ここにいるのか当然説明してもらえるんだろうな?レイチェル」
銀仮面の男より頭ひとつ分背の低い、麗しの鬼い様は仮面の下で悪鬼のような素敵な微笑みを浮かべて私を見つめていた。
私は口の端をひくつかせて、笑うしかなかった。全く間の悪いことこの上ない。