閑話~侯爵子息の失恋事情~
すれ違っている奴等を見て、親切な奴ならそれを指摘しているだろうが、俺にそんな義理はない。例えば、うちの従妹と公爵子息が良い例だ。
俺の知る限り、ヴァレンティノ公爵子息は鼻持ちならない奴だったが、取り繕うのが上手かった。そんな器用な奴が珍しく口が悪いことを言うものだから、傍にいたルーカスは驚いたことだろう。
従妹は卑屈だが、それでも、どうでも良い人間に「変な顔」と言われたところで気にもとめなかったはずだ。従妹があからさまに公爵子息を避け始めたのは奴の存在はカテゴリー分けすると「どうでもいい奴」に当てはまらなかっただけのことだ。
簡単に言うと、二人は始めからお互いに牽かれあっていたのだ。俺はそのことに気づいていたが、二人の仲を取り持ってやる義理などない。むしろ、後々それを激しく後悔する公爵子息に対して良い気味だと思った。
レイチェルと一緒にいて、視線を感じる方を見ればルーカスの横にティルナード=ヴァレンティノが立っていた。丁度、ヴィッツ伯爵家にやって来たらしい。あいつは目当ての物をみつけた直後に、その傍にいる俺の姿を見つけて、不機嫌な顔になった。
俺はおもむろに手を伸ばし、レイチェルの髪に触れ、わしゃわしゃとかき回した。当然、レイチェルは「何をするんだ」と怒り、俺の手を引っ張って顔を真っ直ぐ見て、むう、と口を尖らせた。
ちらりと公爵子息の方を見れば、ショックを受けたような顔をしていた。ルーカスが「やめてやれよ。性格が悪いな」と視線で言ってくるが、俺の知ったことではない。
俺の視線をレイチェルがたどり、ティルナード=ヴァレンティノが来ていることに気づいた。肩をびくりと震わせ、弾かれるようにして、俺の後ろに隠れる。怖がるようにしがみついてくる従妹の肩を抱いてやると、公爵子息は泣きそうな顔になった。
「グウェン、悪趣味だぞ」
ルーカスが見かねて俺に言った。俺は何のことかわからない、と肩を竦めてレイチェルの肩を抱いたまま、公爵子息から庇うようにして部屋を出た。
羨ましがるような視線が後ろから追いかけてくるが、俺はそれを無視した。
自業自得だ。恐らく奴は恋愛をしたことがないのだろう。自分の気持ちがよくわからないまま、とにかく従妹を構いたがった。手探りの状態で思い付く限りの方法を試したものだから、自分が恋をしているらしいことに気づく頃にはレイチェルにすっかり嫌われてしまっていた。
まあ、それでも頭は良いというか、流石というか。プライドの高い奴は恋をしているらしいことに気づいても、認めなかったに違いない。意外にも、あいつはすんなりそれを受け入れ、その後は本能の赴くまま素直にレイチェルを追いかけ、これまでとは違うやり方で気を引こうとした。
「レイチェルは彼のことをどう思う?」
レイチェルの肩を抱きながら、俺は聞いてみた。彼女は彼が誰のことか思い当たったらしい。難しい表情をして言った。
「苦手」
「嫌いじゃないのか?」
「嫌われているのは私の方だと思います。だって、あの人、いつも苛々したように私を見るもの」
従妹は気づいていない。今の発言は彼女もティルナードを気にしているということに他ならない。だけど、俺は指摘してやらない。もっと拗れればいい。あいつにだって手に入らないものがあるんだと思い知らせてやりたかった。早い話、俺はあいつに嫉妬していた。
俺はレイチェルが好きなわけではなかったが、ちょっとした優越感に浸っていた。
「俺たちとは住む世界が違うからな。何でもできる奴からしたら、レイチェルみたいに鈍くさい奴は見るだけでも苛々するんだろうよ。まあ、でも、いいんじゃない?苦手なら無理に関わらなくても。放っとけばいいよ」
「それもそうですね。それにしても、どうして、こんなに頻繁に顔を合わせてしまうのかしら?」
そんなの決まっている。あいつの目当てはお前なんだから。そのためにルーカスという接点を有効活用して、伯爵家に来ているのだ。そうしなければ、赤の他人であるあいつはレイチェルと会う口実も機会もない。高確率で顔を合わせるのは偶然ではなく、必然だった。
「…ルーカスに用があるんだろう?その割に頻度が多い気がするが、今月は何回めだ?」
「私が知る限りだと三、四回目です。私のことが嫌いな割に私がいる時に来るんです。部屋に引き込もっていても、なぜか、よく誘われます」
正直、ひいた。多分それ以上ヴィッツ伯爵家に通いつめているに違いない。公爵子息という立場上、暇なわけではないだろう。わざわざ時間を作ってまで通う執念に戦慄した。
「誘われるんだ?」
「ええ。この間はお茶菓子を持ってきて、一緒にお茶をしようと誘われました。その時に遠乗りに一緒に行かないかと言われました。その前はかくれんぼで、その前は…」
話を聞きながら、従妹の鈍さに笑いそうになった。兄に用事があるその友人が偶然、茶菓子持参で無関係な妹のいる部屋に立ち寄るはずがない。かくれんぼだって、そうだ。その場に偶然居合わせたが、他の奴は元々気乗りしていなかった。多分あいつがレイチェルと過ごす口実に提案したのだろう。女の子に男と同じ遊びはできない。
遠乗りは単純に二人きりで外出したいのだと思った。レイチェルは馬に一人で乗れないから当然、あいつが一緒に乗ることになる。遠乗りしたいのも本心からだろうが、レイチェルに堂々と触れる良い口実になる。
従妹は未だ公爵子息には警戒心剥き出しだ。だから、気安くレイチェルに触る俺に羨ましげな目を向けるのだろう。しかし、鈍くさそうなレイチェルと一緒に馬に乗れる自信があるとは嫌みな奴だ。
「付き合ってやればいいじゃないか」
嫌そうに離れて乗る従妹と思惑が外れてがっかりする公爵子息。面白そうだった。
「馬に一人で乗れないとわかっていて誘うなんて性格が悪すぎます。きっと置き去りにする気なんですよ」
そんなことはしないだろうとわかりきっていたが、俺はそれを言わなかった。多分、レイチェルが好きそうな場所に連れていって喜ばせたい。それだけだ。あわよくば見直してほしいという、ほんのちょっとの下心があるくらいで、それすらも可愛いもんだと思った。
しかし、本当に鈍いな。普通はそこまで誘われれば、薄々勘づくか、勘づかないまでもその気になりそうなものだ。全くぶれずに公爵子息を性悪な不審者扱いするのだから、本当に残念な奴だと思う。
あまりにも可哀想に思ったので、ほんの少しの仏心で俺はレイチェルに声をかけた。
「単にレイチェルと遠乗りに行きたかったとは思わないの?」
「どうして?」
「いや。だって、ほら。普通は嫌いなら無関心になるもんだろう。一緒にいたいから誘ったんじゃないか」
嫌いな相手に嫌がらせをするために手間暇かける面倒を考えれば放っておくのが一番だ。大体、嫌いな相手と二人きりで外出したがる馬鹿がどこにいるんだ。遠乗りに誘うなんて、それこそ好きな女の子に良いところを見せたいに決まっている。俺が乗馬に自信があれば、そうする。
レイチェルはある可能性に気づき、一瞬頬を染めたが、すぐに仏頂面になった。考えを打ち消すように首を振った。
「あり得ません。だって、釣り合わないもの」
消えそうな声でレイチェルは言った。
最近、ティルナード=ヴァレンティノは傲慢さは鳴りを潜めた。素直になったというか、貴公子っぷりに磨きがかかった。レイチェルに接する時も努めて優しくしようとしているのがわかった。簡単に言うと、前より磨きがかかって遠い存在になった。
レイチェルはあいつの言動の裏に薄々気づいているが、怖いのだと思う。だって、勘違いだったら、それこそ良い笑い者だ。
そんなことを中庭に面した部屋で話していれば、視線をまた感じた。外から様子を見ることにしたらしい。怖い怖い。睨むなよ。やることが全て裏目に出るだけで、うまくいかないのは俺のせいじゃない。
「グウェン?」
不思議そうに俺を見上げて首を小さく傾げた従妹の髪をそっと梳いた。あいつがレイチェルにこんな風に触れたがっているのはわかっているのにそれを見ている前でわざわざ実行する俺は相当性格が悪い。
レイチェルはされるがままになりながら、目を閉じた。俺は別にレイチェルに恋愛感情はないが、キスしたらティルナードはどんな顔をするのかな、と悪いことを考えた。
バタン、と突然扉が開き、ルーカスが部屋に乱入してきた。
「グウェン、いい加減にしろ。あまり、からかってやるな。可哀想だろうが」
「はっきり言わない、あいつが悪い」
「一応あいつは何度かはっきり告白しているらしい。が、これまでのことで信じてもらえないだけだ」
「そんなの俺には関係ないね」
「お前は別に好きなわけじゃないだろう?引っ掻き回すな。そっとしておいてやれ」
「ルーカスは味方するのか?」
「鬱陶しいからな。これ以上、俺をだしに通われたら俺が困る。俺にだって予定があるんだ。お前があいつに嫌がらせをする度に泣きつかれて、予定を潰されるのは御免だ」
なるほど。公爵子息が伯爵家に通う頻度が増えたのは俺のせいらしい。ルーカスという名の口実が不在なら、あいつはここに来れない。「レイチェルに会いたい」と言って面会を申し出たところで、レイチェルに拒否されるのがオチだ。
レイチェルは話についていけず、おろおろしている。可愛い奴め。俺はレイチェルの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「確かにそういう気持ちはないが、可愛いとは思っているんだけど?」
ルーカスがこめかみを押さえた。
「大体、好きなら前に言ったようにさっさと親に話を通して、婚約するなりすればいいんだ」
ルーカスは溜め息をつき、窓の外に視線をやった。
「そうだな。あいつがそういう嫌な奴なら俺も遠慮なく追い払えるんだがな。嫌な奴じゃないから困るんだ」
レイチェルも似たようなことを言っていた。嫌いではなく苦手なのだ、と。邪険にしているように見えるが、何だかんだでルーカスも公爵子息のことを気に入っているらしい。だから、なるようになれ、という思いで放っておいたのだろう。
「…レイチェル。ティルが菓子を持ってきたんだ。悪いが、俺はグウェンと話がある。ティルの相手をしてやってくれないか?」
レイチェルの顔が強張った。
実際は俺にルーカスが用があるはずがない。飽くまで、二人にしてやる口実に過ぎない。気持ちはわからないでもない。
不安げにレイチェルはルーカスを見て、嫌だということを態度に表しているが、ルーカスは気づかないふりをした。
レイチェルは溜め息をついて、のろのろと応接間に向かった。ルーカスは執事にお茶の準備と外にいる公爵子息に声をかけるように言いつけた。
「嫌がっているし、可哀想じゃないか」
「嫌がっているわけじゃなく、怖いんだろうよ」
それは嫌がっているのと同義だと思った。
「何にせよ、あいつらはもう少しちゃんと話し合った方が良い。間に挟まれる俺の身になってほしいね。お互い気になっているくせに、意味がわからない。さっさとくっついてしまえ、というのが友人一同の総意だよ」
「反対しないのか」
鈍そうなルーカスが気づいていたことに俺は驚いた。
「そこまで条件は悪くない。レイチェルがあいつを好きになればな。むしろ、上等過ぎるだろう?現状、一番大切にしてくれるだろう相手を断る理由がない。お前と違って不実じゃない」
確かに大事にするだろうな。宝物みたいに。きっと両想いになったら、猫可愛がりした上でべたべたに甘やかすに違いない。今だって、わざわざレイチェルが好きそうな菓子を買ってきたり、実際渡すことはなかったが、八歳には不釣り合いな贈り物を持ってきたりしていると言う。レイチェルの不安ははっきりいって杞憂だ。そもそも、好きじゃなきゃ忙しい合間をぬって会いに来るはずがない。
「不実とは失礼だな」
「不実だろう。十二歳にして、遊びに遊んでいるだろうが?キスも経験済みなお前と違ってティルは好きな女と手すら繋いでないんだぞ」
俺は二人を思い浮かべて笑った。確かに無理だ。そもそも、あの二人が一緒にいるところを見たが、物理的な距離が遠い。それで手が繋げたら奇跡だ。
「それはあいつのせいだよね?大体、手ぐらいいくらでも繋げるだろう?あいつの顔ならさ」
「相手を選ばなければな」
「選んでも繋げるだろう?レイチェルさえ選ばなければ」
「…わかってて言っているあたり、グウェンは性格が悪いな。お前の方が年上なんだから、意地悪してやるなよ」
ティルナード=ヴァレンティノはレイチェルの二歳年上、俺の二つ年下だった。ちなみにルーカスは俺の一つ下である。
「レイチェルとあいつがくっついたら、君はあいつの義理の兄貴になるんだけど、いいの?」
「今とそう変わらん。あいつは既に弟みたいなもんだろうが」
「確かに」
他は優秀でも恋愛に関してはてんで駄目な公爵子息の世話をやくルーカスは兄を通り越していて…。
「兄というより母だね」
十一歳にして悟ったように生きる、この従弟は若いのに老成しすぎていた。
「…ちなみに、俺の中ではお前も弟みたいなもんだけどな。そうすると、お前は俺の不出来な子供か」
「ルーカスが俺のお母さんか。面白いことを言うね」
「お前は不実で性格が悪すぎる。面白がるのは良いが、真剣で不器用なだけの奴等をからかうなよ」
「面白いんだから仕方ないだろう。両想いなら、こちらが何をしようが、その内勝手にくっつくさ」
「可哀想な奴だな。グウェンは」
お前は病気だ、というルーカスの言葉が胸に突き刺さった。
※※※
「またフラれたんですか?」
呆れたように声をかけるレイチェルを俺は見上げた。俺と目が合うと「仕方のない人ね」と困ったような顔でレイチェルは笑った。
俺は今、不貞腐れて長椅子にだらん、と身を投げ出している。行儀の悪い格好だが、誰も咎めなかった。
「何が悪かったんだろうな」
特に答えを求めていなかったが、うーん、と律儀にレイチェルは考え込んだ。
「…面倒くさそうにしているところ?」
「わかったように言うね」
「だって、最初から好きじゃなかったんでしょう?いつも、面倒くさそうにされれば、フラれて当然です」
「実際、面倒だったんだから仕方ないだろう?」
夜会の度に引きずり回されて、やたらと知り合いに自慢された。夜会の時にはドレスを必ず贈らされた。ドレスのデザインが気に入らないと怒った。更には陰で友人たちと男の品評会ときた。うんざりだった。
「外見は可愛くても、中身は毒花のような令嬢ばかりで困る」
レイチェルは「グウェンも人のことを言えないじゃない」とくすくす笑った。
半分はレイチェルのせいだ。この四歳下の従妹との縁談が割と真剣に進められているらしい。
俺だって遊びたい。今更、妹のように思ってきたレイチェルと恋愛ごっこをしろ、なんて無理な話だ。大体、こいつにうっかり手を出そうものなら、ルーカスが黙ってはいない。俺は十七になっていた。女に興味はあるが、レイチェルと結婚するまで我慢しろ、という方が無理だ。何年先の話になると思っているのか。
結婚は人生の墓場だ。遊べなくなる前に遊ぼうと思って何が悪いんだ。フラれた原因は俺が遊びだということが相手にばれたからである。
「グウェンも遊ぶのは程ほどにして、もう少し真面目になった方が良いですよ」
「真面目に、ね。例えば、ティルナード=ヴァレンティノとか?」
唐突に出した名前にレイチェルはぽかんとした。どうやら、本当に忘れてしまったらしい。
あいつは今、他に婚約者がいる。だから、恋なんてするもんじゃないんだ。ヴィッツ伯爵邸前で偶然かはわからないが、何度か奴の姿を見かけた。ルーカスには出入り禁止にされたらしい。他に好きな奴がいるのに別の相手と結婚しなければならないんだから恋なんてするもんじゃない。
「グウェン、身の程はわきまえた方が…」
「実物を見たことないくせに言うね。案外普通の奴だよ」
性格はな。あと初恋の相手と、その出会いもか。その他は飛び抜け過ぎていて、憎らしさを通り越して呆れるしかない。
レイチェルは俺の対面の長椅子に腰をおろした。黒い瞳で俺を見つめて、ふう、と溜め息をついた。
「グウェンはグウェンでしょう?それ以外の人にはなれませんよ」
「なら、レイチェルもいい加減諦めたらどうなの?」
従妹は果敢にも両親が持ってくる縁談に挑みまくっているが、連敗中らしい。こいつの場合、原因はルーカスと悪い噂にあるんだが、全く気づいていないところが憐れだった。
諦めれば楽になるのだ。惨めな思いをしなくていい。実際、「俺」という逃げ道が用意されている。レイチェルのことは嫌いではない。むしろ、その愚かさは可愛いと思っている。すぐには無理でも時間をかければ女性として見れるだろう。ただ、その前に俺は独身を謳歌したい。それに尽きた。
「グウェンが困るし、お兄様とお父様、お母様も困るわ」
知っていたのか、と驚いた。まあ、そうだろうな。
それきり、ぷつりと会話が途切れた。悪いことを言ったな、とは思ったが、素直に謝ることができなかった。
レイチェルは帰り際にはいつもの生意気な従妹に戻っていた。俺はそのことにちくり、と胸が痛んだ。
※※※
婚約を解消したのは知っていた。だが、二年の間、あいつは沈黙を保っていた。
ホールから姿を消したレイチェルを探して、中庭に続く渡り廊下に出た。従妹と一緒にいる男の顔を見て、俺はひゅっと息が止まりそうになった。
今日はいないはずだった。そうルーカスからは聞いていた。更に、なぜレイチェルと一緒にいるのか、という疑問が頭をもたげた。
レイチェルは思い出したわけではないらしい。あいつもそれに気づいたのか口裏を合わせるように知らない顔をした。とんだ茶番だと俺は心のなかで舌打ちした。
ティルナードが従妹を忘れているはずがない。ルーカスからは彼に関する愚痴を耳にたこができるくらい聞かされていたし、伯爵邸周辺に奴はよく出没していた。
レイチェルはあいつの手を取っていた。どうも廊下に座り込んでいたらしい。何をやったらそんなことになるんだ、と呆れつつ俺は彼女の名前を呼んだ。
ルーカスに従妹の世話を頼まれていた。悪い虫がつかないように見てやってくれ、と。元々ついていた悪い虫はその範疇に入るのだろうか。
いずれにせよ、こいつがレイチェル目当てでこの夜会に姿を現したのは間違いない。お互い白々しいなと思いながらも、当たり障りのない挨拶をして、その場を立ち去ることにした。
俺は公爵子息が俺を見て、一瞬嫌そうな顔になったのを見逃さなかった。まだレイチェルを諦めていないだろうとは思った。しかし、お生憎さま。レイチェルは建国記念の夜会以降は社交場に出席する予定はない。元々ヴィッツ伯爵家にそんな経済的余裕もなければ、本人も社交には興味がない。
更に言えば、水面下で進んでいた俺との婚約話が今年中にまとまりそうなのだ。そうなれば、いくらあいつでもどうすることもできない。
※※※
「レイチェルの婚約が決まった?」
ふうん、誰と、と俺はさして興味がない風にルーカスに聞いた。どうせ、俺とだというオチに決まっている。いよいよ年貢の納め時か、と溜め息をついた。
「ああ。相手はティルナード=ヴァレンティノだ」
目が点になった。何をどうしたらそうなったのかわからない。レイチェルとあいつにはもう接点はないわけで…。とうとう親に強請って無理矢理婚約を迫ったかと俺は思った。
「仮面舞踏会で知り合ったんだと。で、ティルの方が是非うちの妹を貰いたいと言ってきた。まあ、様子を見る限りレイチェルが大丈夫そうだから、良いかと思ってな」
「存在を忘れるぐらいショックを受けたのに許すのか」
「元々その前の婚約はティルのせいじゃないからな。それに、このままいくと、ティルもレイチェルも一生独身だ」
「公爵子息はそうだろうけど、レイチェルは大丈夫だろ?」
「ティルがレイチェルを気に入っているらしいことが噂になっていて、良さそうなところの縁談は全て流れているんだよ。ティルに付きまとわれる限りレイチェルは結婚は無理だ」
確かに公爵子息が気に入っている令嬢に手を出す馬鹿はそうそういない。ある意味、レイチェルは厄介な奴に気に入られたというべきか。
「あるだろう?俺との縁談とか」
「その話はとっくになくなったよ。グウェンが嫌がるんだから、諦めようってな」
「嫌がっていないだろ」
「レイチェルとの縁談を進めてから女遊びが加速しただろう?そんなに嫌がるなら、レイチェルは他に相手を探そうって話になったんだ」
「それは…」
女遊びが増えたのはレイチェルとの婚約話が出てからだ。だが、嫌というわけではなく、ただ単に結婚前に遊んでおきたいというだけの理由だった。
「暫くは様子を見て、問題なさそうなら正式に結婚の日取りを決めるつもりだ」
「問題ある場合は?」
「その時はティルにも諦めるように言っている」
「長い間想い続けた奴が今更諦められるものか」
「…そう思ったから、レイチェルとの婚約を承諾したんだよ」
「ルーカスはあいつに甘すぎる」
「意外だな。グウェンはレイチェルにこだわりがないと思ていたが、なぜ、そこまでつっかかるんだ?」
「別に。気に入らないだけだ」
口にして何が気に入らないのかわからなかった。自分は何にこんなにも苛ついているのだろうか。公爵子息に?それとも…。
「グウェン?」
気づいて後悔した。大馬鹿者は俺だ。
ガツンと頭を殴られた感覚と胸を襲う喪失感に苛まれたが、全ては後の祭りだった。俺は大事な物を失ったことに今しがた気づいたのだ。
「馬鹿だな。大馬鹿だ」
今までの失恋とは違う痛みに耐えかねて俺は顔を覆った。
「だから言ったんだ。お前は可哀想な奴だ、と」
「その時に言えよ」
「言っても何も変わらなかったさ。グウェンはひねくれているから認めなかっただろう」
「まぁね。妹みたいなもんだしな」
傍にいるのが当たり前だった。言われても笑い飛ばしただろう。
「…リエラとお前は天地がひっくり返ってもダンスを踊らないし、お前はリエラには手土産を贈ったりしなかった。手を繋ぐこともなかったな。大体、いつもフラれる原因だって、お前が過剰にレイチェルを可愛がるせいもあったんだ」
言われてみればそうだ。女は普通に好きだ。柔らかいし良い匂いがするし、それなりに快楽を与えてくれる。ただ、機嫌取りが疲れるのと面倒な事が多い。
その点、レイチェルといる時は疲れないし、居心地が良かった。だから、「またフラれたの?」という小言を密かに聞きたくて、ヴィッツ伯爵家に入り浸っていた。
「公爵子息に比べればましだろう」
あれはない。あいつときたらレイチェルをずっと見つめているのだ。当の本人が気づかないのは公爵子息に見られることに慣れてしまったからだろう。他の奴の視線には気づくくせに公爵子息の熱視線は完全にスルーするのだ。どれだけ長い間見られ続けたかは想像に難くない。
「…あれと比べるのはな。ティルは恋愛に関しては不器用で馬鹿だ。女の扱いがわからんらしい。レイチェルを見るまでは興味もなかったそうだ」
「わざわざ苦労する方を選ぶなんて物好きだね。割りきれば楽なのにな」
「大事な物を傷つけたくなくて、割りきれなかったからお前は今も結婚しないんだろう?自分にできないことを他人に求めるのはおかしな話だ」
本気で向き合わなかった結果だ、とこの年下の従弟は誰何するように言った。
「違いない」
俺は笑った。結局あやをつけたいだけだ。レイチェルが誰と婚約しても自分は高みの見物を決め込んで文句を言うのだろう。理由はそれが楽だからで格好悪くないからだ。そして、だから、自分は公爵子息に負けたのだと自覚した。この結果を招いたのは他ならない自分だ。
「あーあ、格好悪」
「前から格好良いと思ってなかったから安心しろ。泣くならリエラの胸で泣け」
「ルーカスは薄情だ。鬼だ」
妹の腕に包まれて泣く自分の姿を想像して、しょっぱくなった。隣で悔しげにハンカチを噛み締めるギルバートの姿とセットで想像して、吐きそうになる。
「包容力でリエラの右に出る者はいないからな。多分、あいつが男だったらレイチェルは骨抜きだ」
想像して苦い物が込み上げてきた。男のあいつは兄の俺以上に男前でモテるだろう。身内の欲目かもしれないが、ティルナード=ヴァレンティノなど目ではないと思う。
「お前は冷たすぎる。同じ人間とは思えない」
「そうか?ティルに対してもこんなもんだぞ?むしろ、レイチェルが優しすぎるんだ」
「あいつも大概酷いし、辛口だけどね」
「兄妹だからな。正直、お前でもティルでも、レイチェルが幸せになるならそれでいいんだ。面倒さえなければ」
面倒、とは昔の状況のことだろう。お互い好きあっていながら、誤解している二人の間に挟まれるルーカスの気持ちはわからないでもない。俺なら、無関係なのにそんな甘酸っぱいサンドイッチに挟まれるのは御免だ。
途中からレイチェルが奴にデレていく過程を見れば、あの空間にいるのがいかに耐えがたいかわかる。更に言うなら、その変化に全く気づかない公爵子息に苛立ちが募って仕方がないだろう。
「レイチェルは俺を選ばないよ。あいつの恋心は盗まれたっきりだから。ナイトメアの夢魔にそっくりで本当にむかつくな。レイチェルは俺を意識してなかったから緊張しなかったんだ」
銀髪だけど、あいつは王子ではない。
あの話はまぬけな王子は周りに尻を叩かれるまで動かない。王子が姫を取り戻すのに代償にしたのは姫の「記憶」と「心」だ。王子は最初から何一つ犠牲を払っちゃいない。王子が姫を好きなのだって、姫が王子を好きだったからだ。王子が一番可愛いのは我が身だ。自分の大切な何かを差し出せと言われても、王子は姫を諦めなかっただろうか。マリエ=ネーベは本当に皮肉屋だ。本人は相当に性格が悪いのだろう。
奴が俺を羨ましがっているのは知っていたが、最初から一番欲しい物は手に入っていたのだ。気づかなかったのは奴のミスだ。考えたらムカついてきた。
「…少々からかってやるのもありだな」
「やめてやれ。可哀想だから」
「悪いようにはしないよ。レイチェルは感謝するだろうさ。あいつの愛情が深くなるんだから」
にやりと笑う俺にルーカスは諦めたように「程々にしろよ」とため息をついた。止めるだけ無駄だとわかっているらしい。
ちょっとくらいの意趣返しは許されるはずだ。俺の大事な従妹を貰い受けると言うのだから幸せにしないと許さない。
俺は溢れだしそうになる気持ちは胸の中に押し止めて、中庭のベンチを見た。




