42.ミイラ取りがミイラになるのは避けたいものです
帰りの馬車は気まずい沈黙が流れた。ガタゴト、とやたら大きな音が響く。
私達は行きと違って手を繋いでいない。距離も人一人分以上離れて座っている。私が窓際ギリギリまで身を寄せているせいだ。
はっきり言うと、あの後はさんざんだった。ティルナード様を意識してしまって、彼が私に触れようとする度に体が不自然にカチコチに強張った。声も裏返ってしまった。最初の頃に戻ったようだと私は心の中で独りごちた。それというのもダリアのせいだ。
嫌われたり、呆れられてはいないだろうか。不安になって隣というには離れているティルナード様をこっそり見ると、彼と目が合ってどきりとした。
「レイチェル?」
不審げに眉根を寄せる彼に私はひきつった笑いを返した。そんな自分を殴りたくなった。
「聞くべきか迷っていたんですが、何で、そんなに離れて座るんですか?俺が何かしましたか?」
していない。いや、確かに意識するようなことはされたのだが、そのことでどうこうというわけではなく、私が勝手におかしくなっているだけなのだ。
私は首を左右に振った。彼は安堵したように息をつくと、腰を上げて私の真隣に移動した。私は咄嗟に窓にすり寄るように身を寄せた。そんな私の様子を見て、彼は顔をしかめた。
「嫌なら嫌だと言ってください。そんなに…キスしたことが嫌でしたか?」
「ち…違います!」
「じゃあ、何で俺はさっきからあなたに避けられているんですか?理由を言ってもらわないとどうしようもない。避けられて俺が傷つかないとでも?」
「………」
私は俯いて黙りこんだ。上手く彼の顔が見れない。
「話したくないなら、良いですよ。聞きません」
少しだけ不機嫌に言うと、彼はまた窓際に移動して私から離れて座り、窓の方を見た。
甘い空気は苦手だが、それよりも今の空気の方が嫌だった。いつぞやのようにつまらない喧嘩をしたいわけではない。ほんの少しだけ私が勇気を出して手を伸ばせばいい。それだけだ。
私はごくりと唾を飲み込んで、彼の傍に移動して、背中に抱きついた。驚いた彼の身体がこちらを向いたので、私達は向き合う格好になる。
「ごめんなさい。その…嫌だったわけじゃないんです。キスは初めてで…。他にも色々あって意識してしまったんです」
私はぎゅっと力を入れてしがみついた。ティルナード様は目を瞠った後、暫く私を見つめた。迷うように瞳が揺れた。暫くの沈黙の後、彼は口を開いた。
「…初めてなのは俺も一緒ですよ。俺だって今どきどきしています」
そう言って、彼は私の背中に手を回し、私を抱き返した。彼の胸に耳を寄せる格好になった。ティルナード様の心臓はどくどくと早鐘を打っていた。
私は彼の心音に耳を傾け、少しほっとした。
「俺は女性と付き合うのはあなたが初めてなんです。恋愛にはこれが正しいという答えがないから難しい」
実はどうしていいかわからないから苦手なんです、と彼は困ったように言うと、片手で私の髪を掬った。よくはわからないけど、私の髪がお気に入りらしい。
彼に壊れ物のように扱われるのは嫌いじゃない。ただ、物足りないとも思うわけで…。私の不満が伝わったのか、彼は悪戯っぽく笑った。
「キスしても良いですか?」
暫く会えなくなるから、とティルナード様は私の耳元に口を寄せて甘えるように言った。私は明日から祖母のいるレイフォードの田舎に数日滞在することになっている。
くらりと目眩がした。倒れなかったのは身体が彼の腕にホールドされているからだ。色気たっぷりの甘い声で彼に囁かれれば断れるはずがない。誘惑に逆らえず、私は熱に浮かされたように頷いていた。
一呼吸おいて唇と唇がぴったりと重なる。お互いの首に手を回し、私達は角度を変えて何度も何度も唇を重ねた。合間で見つめ合いながら、息を洩らした。もっと欲しいという欲求に従って、私は無意識の内に彼の方に身体を傾けた。
二度目のキスは柑橘系のお酒の味がした。多分、彼が夜会で口にしたのだと思われる。お酒の残滓のせいかはわからないが、身体が火照って、ふわふわとした浮遊感に包まれた。
どのくらい夢中になっていたかはわからない。何せ、馬車が目的地に着いて停止したことも気づかなかったぐらいだ。馬車の扉が開いて、家令のジェームスが唇を重ねた私達の姿を見た後、ごほん、と咳払いをした。そこで漸く邸に着いたのだと気づいたのだ。
私達は慌てて唇を離した。ジェームスは眼鏡のフレームを押し上げて、綺麗にお辞儀した。
私は気まずいやら、恥ずかしいやらで、青くなったり、赤くなったりと忙しかった。
「…お嬢様、ティルナード様、まずはおかえりなさいませ」
ジェームスは一瞬、苦悩するような表情をした後、意を決したように口を開いた。
「差し出がましいこととは思いますが…仲が宜しいのは大変結構なのですが、何事にも節度というものがございます。お二人にはご自覚が少々足りないように存じ上げます」
ジェームスから説教を受けるのはいつぶりだろうか。前に説教を受けたのは確か…ああ、そうだ。私が狩猟に出掛けた兄とその友人を追いかけて、ドレスを破いて傷を沢山こさえて帰った時だ。あれは怖かった。
「レイチェル様、聞いておられますか」
「え…ええ。節度は大事よ、ね」
「聞こえておられるのなら、まずはティルナード様から離れてくださいね」
指摘されて初めて、私はティルナード様に抱きついたままだったと気づいた。彼はとうに私を離していた。
ティルナード様は私の脇に手を差し入れると、ひょいと抱えて馬車から私を下ろした。あまりに自然に抱っこされたものだから、私は抗議するのも忘れてしまった。慣れというものは本当に怖い。
当然、そんなティルナード様のこともジェームスが見逃すはずもなく…。ジェームスは彼にも釘を指すように言った。
「ティルナード様はご結婚なさるまでは公の場ではご自制なさりますよう」
二人きりの時は大目に見て差し上げますが、と前おいてジェームスは言った。
私達が邸の中で本当の意味で二人きりになることはない。部屋なら使用人の誰かが控えているし、それ以外ならサロンや庭といった開放的なスペースである。これは私の両親からの言い付けでもある。
だから、ジェームスの大目に見る「二人きり」、とは厳密には使用人が控えている時の「二人きり」だ。
びくり、とティルナード様は肩を震わせて、ジェームスの方を向くとバツが悪そうに頬を掻いた。
「その…。我慢するつもりだったんだが、暫くレイチェルに会えないと思ったら歯止めがきかなくなってしまって、つい」
ジェームスの眼鏡の奥がきらりと光った。ジェームスは普段は穏やかで小心者に見えるが、怒らせると怖いのだ。
「…今回は旦那様方やルーカス様にはご報告いたしませんが、今後は気を付けて下さいませ。ご自分の行動でミイラ取りがミイラになるのは嫌でございましょう?」
思わせ振りなジェームスの言い回しに私は首を傾げた。ジェームスの言葉に思い当たることがあったのか、ティルナード様は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「何の話?」
「今、お嬢様を定期的にヴァレンティノ公爵家で預かるという交渉の最中なのですよ。結婚が本決まりになりましたから、あちらとしては早くお嬢様に公爵家に慣れて頂くこと、それと同時に本格的な公爵夫人教育も進めたいようなのです。公爵様はティルナード様の御結婚後落ち着いてから爵位をお譲りになるご意向です」
そうなのか、と私は口を開けた。結婚についての話し合いの後、両親同士が書簡のやり取りをしていたのは知っていたが、内容は知らされていなかった。
「今のところは旦那様方もルーカス様もレイチェル様の身柄を預けることに異論はないようでございますが」
ジェームスの言葉に私は耳を疑った。
「珍しいな。この話はルーカスにも伯爵夫妻にも反対されそうだと思ったんだが」
ティルナード様がそう言うのも無理はなかった。両親は異論を唱えなかったものの、私たちの結婚にはあまり乗り気ではなかった。ルーカスは半年は短い、と反対していた。
「情勢が変わったそうでございますよ。最近は物騒で、それに加えて景気も悪いとのことです。お嬢様の安全や将来を考えれば、やむなし、とのご判断のようです」
ジェームスが何かを示唆するように言い、フレームをぐいっと押し上げた。ジェームスの暗号のような言葉に考え込むようにして、ティルナード様は口元に手を当てた。
「なるほど。今度先方と交渉する時は俺も同席させてくれ。レイチェルの件はそうした方が良いなら俺は構わない、とルーカスに伝えてくれないか?」
「かしこまりました」
二人の話についていけないまま、私はおろおろした。普段無駄話をしないジェームスが世間話をするのは珍しい。それに私の話をしているのに、何のことかさっぱり見当がつかなくて、もやもやした。
「心配しないで下さい。悪いようにはしませんから」
ティルナード様はそう言って笑うと、私の額にキスを落とした。彼は「おやすみなさい。今度会うときは土産話を楽しみにしています」とだけ言うと、馬車に乗り、立ち去ってしまった。
私は額を押さえて、ぼーっと立ち尽くした。ジェームスが再びごほん、と咳払いをして、漸く我に返って、慌てて邸の中に入ったのだった。
 




