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閑話~公爵子息と伯爵令嬢~

偶然、蛇の脱け殻を見つけた。俺はそこで悪戯を思いついた。

ルーカスの妹の私室の場所は知っている。殺風景な、到底女の子の部屋とは思えない本に囲まれた部屋だという感想を抱いたのは記憶に新しい。本人もつまらないというか、野暮ったいのだ。無頓着なんだと思う。加えて愛想がない。俺の知る同世代の令嬢はよくすり寄ってきたり、媚びてくるのだが、彼女は全くそれがない。

避けられていて、視線が合ってもすぐに逸らされる。それが面白くない。声をかければ、ぎこちなく顔を強張らせる。他の奴にはそこまででもないのに。それも面白くない。

彼女の部屋に忍び込み、文机の一番上の引き出しにそいつを入れた。わずかに引き出しは開けたままにする。そうすれば、干物になる前に早く発見するだろう。

私室に戻る彼女の姿を見つけて、俺は扉の影に隠れて様子を伺った。


「何しているんだ?」


後ろから声をかけられて振り返れば、ルーカスが呆れたように俺を見ていた。

丁度、レイチェルは引き出しを開けて、それを見つけて、一瞬肩を震わせた後、顔を僅かにひきつらせて諦めたように溜め息をついた。

俺はがっかりした。悲鳴を上げたり、もっと怒るかと思ったのにだ。彼女は至って冷静にそれを掴んで外に捨てに行ったのだ。途中で俺と廊下ですれ違って、一瞬俺を見上げたが、すぐに顔を逸らして何の感情も浮かべずに通りすぎて行った。

わけもわからない苛立ちに胸が締め付けられるように痛くなる。思わず彼女を追いかけようとした俺の手をルーカスは掴んだ。


「…子供か。お前は」


「なんで無反応なんだ?普通は怒るだろう?」


「強がりだからな。後で一人で泣くなり、発散するなりするだろう。ティルはレイチェルをどうしたいんだ?」


俺は首を傾げた。なぜ、こんなにも苛々するのかがわからない。彼女とどうなれば自分は満足するのか。少なくとも、これではない、と心が訴える。


「…わからない。ただ、無性に苛々して面白くなかっただけだ」


「子供だな。そんなに苛々するなら、構わなければいいだろう。放っておいてやれ。というか、お前はうちに来すぎだ。何で用もないのに通ってくるんだ」


「用ならある。ルーカスに借りたい物がある」


「お前が借りたい物は借りなくても買えるし、俺以外も持っている。今日だって、経済学の本だったか?あれはお前、既に暗記しているから必要ないよな?ビクターに聞いたよ。お前の家には立派な書庫があるから、うちよりも品揃えがいいと」


「う…。なら、俺の持っていない何かを貸してくれ」


俺は口ごもった。


「はあ。…お前が本当に借りたいのはうちの妹だろう?今のお前に預けるつもりは毛頭ないが」


「違う!絶対に違う」


「そうか。それは良かった。用がないなら、あまり来ないでくれ。お前が最近、うちに通っていると噂になっているせいで、妹の友人関係が微妙なんだ。お前目当ての馬鹿がお前とお近づきになりたくて妹を利用しようとしているらしくてな。地味に嫌がらせを受けているらしいんだ」


「それはどこの誰だ?」


俺は憤慨した。誰の断りを得て彼女に嫌がらせをするのだと文句を言ってやりたい。


「お前が来なくなれば済む話だ。用件なら学校で事足りるし、うちについてくる必要はない」


返す言葉が見つからなかった俺は不承不承頷いた。


※※※


夜会は退屈だ。とはいえ、責任は適当に果たさなければならない。両親と妹と共に俺は主だった貴族への挨拶周りをしていた。


「良かったら、うちの娘とダンスをお願いできませんか?初めてのダンスのお相手がティルナード様なら鼻が高い」


またか、と思った。ふわふわなフリルたっぷりのドレスに着飾られた娘の方を見れば、満更でもない様子で俺に見とれていた。俺に群がる女の子は大概こういう反応だ。逃げるレイチェルが異常なのだと心の中で鼻で笑ってやる。

ダンスを躍りながら、つまらないと思った。目の前にいるのが彼女だったら、と考えて俺は首をぶんぶん振った。あんな野暮ったくて、ひきつった顔の女の子と踊っても恥なだけだ。


「ティルナード様はリードがお上手だから安心して踊れますわ」


「それは良かったです」


俺はにっこりと微笑んだ。


「もし、良かったら今度公爵家にお邪魔しても良いですか?私、一度行ってみたかったのです」


「機会があれば是非」


「まあ、いつがよろしいかしら?」


社交辞令を本気にした令嬢に辟易しながら俺は適当な口実を作って約束をうやむやにして離れた。


「お兄様は大嘘つきですわ。そんなに毎日ご予定があるわけでもないでしょう?不実ですわね」


見ていたらしいサフィーがくすくす笑いながら言った。

侍女がセットした髪型とドレスが気にくわなかったらしい。見事に野性味溢れる妹の姿にぎょっとして、慌てて手を引いてゲストルームに逃げ込んだ。


「また崩したのか。仕方ないな。プライベートまで愛想を振り撒きたくないんだ。あんなの社交辞令だろう。大体」


あの令嬢に付き合っていたらヴィッツ伯爵邸に行く時間が削られる、と言い掛けて俺はまた首を傾げた。ルーカスとは他の場所でも会えるのに、自分はなぜ、そんなにも伯爵邸に行きたいのかわからない。


「大体、なんですの?」


「…何でもない」


俺はサフィニアの髪を手ぐしで梳かし、髪を結い上げた。銀髪の柔らかい髪に触れて、ふと、レイチェルの髪も同じ長さだな、と思った。見たところでは絹糸のように滑らかで、さらさらしていた。彼女ももう少し拘ればいいのに。

服だって似合うものを着れば他の奴に馬鹿にされたりしない。それこそ、さっき踊った令嬢の着ていたものは彼女に似合いそうだ。


「…お兄様は最近おかしいですわ。お友達のお屋敷に暇を作ってでも出向かれたり、今のようによく物思いに沈んだり、苛々そわそわされてみたり。どうなさいましたの?」


「別にいいだろう?大したことじゃない」


「ワトソンが妙な物でも食べたのではと心配してましたわ。私は今の方が好きですが。だって、先程から百面相なさって面白いったらないわ」


俺は慌てて顔を引き締めた。サフィーがくすくす笑う。全くなんだって言うんだ。こんなに調子が崩れるのは彼女のせいだ。


※※※


ヴィッツ伯爵邸に来て思わず戸惑った。

まず彼女に出迎えられた。もっとも彼女が歓迎したかったのは別の誰からしい。俺とルーカスの後ろに視線を向けた彼女の瞳が翳るのがわかった。

人違いに気づいて、俺は落胆した。何で落胆したのかわからない。ただ、胸がむかむかした。

珍しく可愛い格好をしていた。髪飾りをつけて、服もいつもは簡素なものなのに今日は女の子が好きそうな可愛いものを着ていた。

誉めようと口を開きかけた時、彼女はだっと俺から逃げるように奥に走り去っていった。そのことにまた苛立った。

何かあるんだろうか、とルーカスに目をやればルーカスは「気にするな」と俺の背中を押した。

俺が変化の原因に気づいたのはその数日後のことだ。ルーカスの友人のカイルを紹介された時のことだ。レイチェルの反応が彼にだけ違うのに気づいて、俺の胸は妙な焦燥感に駈られた。

俺はそんな彼女を見たくなくて、ヴィッツ伯爵家の庭の池に向かった。水面を見つめれば蛙の繁殖期らしい。卵が浮いているのを見つけて、俺はそれをなんとなしに掬い上げた。

掬い上げたそれを持ちながら、彼女の背後に忍び寄り、服のポケットに詰め込んでやった。

彼女はポケットに手をいれて、自分の手についたものを見て、小さく悲鳴を上げた。俺は彼女の表情を伺うと、いつも通りほとんど動いていなくて、がっかりした。

ただ、その後、ぽろぽろと目尻を伝う涙を見て凍りつく。慌てて謝ろうと手を伸ばしたが、捕まえる前に逃げられた。

後を追いかければ、カイルとルーカスがそばにいて、彼女を慰めているのが見えて、胸が締め付けられるように痛くなった。あそこにいるのはなんで、俺ではないのだろう、とどうしようもないことを考える。

後日彼女に謝った。本当にすまないことをした、と。服も弁償する、と。


「…もういいです」


ほっと胸を撫で下ろした。許してもらえたのだと思った。


「…服のことももういいから私に構わないで下さい。出ていって」


硬い表情ではっきり拒絶されて目の前が真っ暗になった。手を伸ばそうとすれば、びくりと肩を震わせて怯えるような顔をする彼女を見て、ようやく自分が取り返しのつかないことをしたのだと気づいた。

彼女はそれ以降、以前にも増して俺を避けるようになった。


※※※


体調が悪い、と気づいたのはお茶会の最中のことだった。目の前が霞んで頭が割れるように痛く、気分が悪い。

カップに手を伸ばしてとろうとして、失敗した俺を見て、たまたま隣にいた奴が大袈裟に笑った。それを見て、くすくすと失笑が広がって俺は俯いて肩を震わせた。

お茶会には珍しくルーカスとレイチェルも参加していた。レイチェルはいい気味だと思っただろうな、と彼女を見れば彼女は表情を変えずにカップに手を伸ばしてそれを倒した。

周りはあっという間に彼女に注目した。馬鹿にしたように笑う声やざわつきの中、彼女は澄ました顔で背筋を伸ばしていた。周囲は先程の俺の失態等忘れてしまっていた。

謝罪の言葉を述べると、ドレスが汚れたので着替える場所を借りたいのだと主催者に言った。執事が彼女に客間の場所を教えた。

彼女はルーカスに何かを頼んだ後、俺のそばに来て「迷うと困るからついてきてほしい」と言って、恐る恐る俺の手を掴んだ。

周りがざわついた。誰かがこんなにわかりやすい場所で迷うなんて馬鹿ぐらいだ、と言った。別の少女が「図々しい」と言うのも耳に入った。彼女は俺がルーカスの友人で、よく世話になっているのだと言い訳した。彼女には迷惑しかかけていないのに、だ。

彼女は構わずに俺の手を引いた。小さく、しっとりした滑らかな肌は冷たくて凄く気持ち良くて、ぎゅっと握り返した。彼女の身体が強ばったのがわかったが、俺は気づかないふりをした。

迷わず先導する彼女を見て、「迷うと困るから」なんて、やっぱり嘘だと確信した。

客間につくと、長椅子を見つけたレイチェルはそちらに座るように俺を促して、自分も座った。既に限界を迎えていた俺はふらふらと彼女の肩にもたれ掛かって「しまった」と思った。

彼女は気にした風もなく、俺の頭を自分の膝に乗せた。それから途中で湿らせていたハンカチを俺の額に乗せて、俺の手を黙って握った。

格好悪さと情けなさで顔を覆いたくなったが、心細さが勝って「そばにいてくれ」と勝手に言葉が口からこぼれ出していた。

ああ、本当に格好が悪い。馬鹿にされただろうかと彼女の顔を見上げれば、彼女は柔らかく困ったように笑った。

その顔に見とれた後、今までのことを思い出して後悔の念に囚われた。あれだけ酷いことをしたのに。自分より年下の女の子にさりげなくフォローされたことに動揺した。

全く打算もないらしい。こういう時に俺に優しい人間は大体見返りを求めてくる。それがない。

ルーカスと公爵家の迎えの執事がやってきた時、ルーカスは俺たちを見て、ぎょっとした。彼女はあっさり俺の手を離して、執事に俺の身体を渡した。もう少し遅く来れば良かったのに、と俺は思ったのだった。


※※※


レイチェルへの気持ちを自覚した後、俺は前にもまして、伯爵家に通いつめた。ルーカスにうんざりされたのは言うまでもない。

使用人のドリーに嫌々付き合ってもらい、下調べを万全にした俺は伯爵家の客間で彼女を待った。

つい先日、仲直りをして俺が彼女の提示した約束を守る条件でなら逃げないという約束をとりつけた。

彼女がカイルに失恋したのも大きい。だが、油断はできない。その元凶は彼女の身近にいた。愛称で従兄を呼び、気安い口をきく彼女を見て、動揺した。更には、俺には滅多に触らせてくれないくせに、従兄には容易に触れることを許すのだ。焦らないでいられるわけがなかった。

他の奴が彼女の良さに気づいたら、と思う。お互い婚約者のいない今がチャンスなのだとも思う。彼女に婚約者ができてしまえば、諦めなくてはならない。

彼女が緊張しながら部屋に入ってくる。最近はルーカスも俺の目的を把握したらしい。意図的にレイチェルに俺の相手を頼むようになった。レイチェルは俺の相手を頻繁にさせられる意味がわからないらしい。それでも、名誉挽回するチャンスだった。


「俺が駄目にしてしまった服の弁償がしたいんだ。今度、二人で出掛けないか?」


あらかじめ、用意しておいた台詞を俺は口にした。

伯爵家で会うことに不満があるとすれば、約束をしていないから短時間しか会ってもらえないことだった。彼女にも勉強や都合がある。だけど、約束さえすれば、長時間二人で過ごせるのだと考えた。外で会えば邪魔も入らないし、お互いを理解して、この微妙な距離感を縮めることもできるだろう。


「もういいですし、悪いですから」


彼女は躊躇いがちに断って、俺はがっかりした。

ドリーと賭けをした。ドリーの勝ちらしい。傍に控えていた彼が勝ち誇ったようにふっと無表情に笑うのを見て、俺は心の中で唸った。

レイチェル役をやらせたことを根にもっているらしいのだ。一日、失敗なく完璧にエスコートをするために俺は男のドリーをデートコースに付き合わせた。男同士で何が悲しくてくっつかなければならないんだ、と文句を言いつつも、ドリーはさんざん好きなものを飲み食いした。


「…そういえば、今度、うちで夜会を開くんだ。丁度パートナーがいなくて。良かったら一緒に出ないか?」


レイチェルが迷ったのがわかった。レイチェルがそういうものに興味をもっているのを密かにルーカスから聞いていた。従兄とダンスの練習をしているらしい。

丁度いいと思った。これに頷けば、ダンスの練習相手になる口実と夜会に出席するためにドレスを仕立てに出掛ける口実、更に夜会に一緒に行ける口実ができる。夜会に一緒に出れば、噂にもなるだろうし、夜会で両親に紹介すれば俺の両親も考えてくれるだろう。期待の眼差しで彼女を見た。


「…ダンスは下手くそだって知っているでしょうに、本当に性格が悪いです」


「練習すれば何とかなるし、俺がフォローするから大丈夫だよ」


「夜会は出たことがないから着ていくドレスがありません」


「今度、一緒に作りに行こう。誘ったのは俺だから俺が用意する。迎えも寄越すよ。ルーカスや両親にも俺から許可をとるし、遅くなるのが駄目なら泊まればいい」


彼女は目を丸くして俺を見て、ため息をついた。


「からかっているんですか?あなたにそのようなことをして頂けません」


本気だ、と言ったが、俺の熱心さに不信感を抱いたらしい。ドリーがぷるぷる震えていた。腹を抱えて笑いたいに違いなかった。

諦めきれない俺はふと思い出した。


「うちには沢山本もあるし、退屈しないと思う」


本、で彼女の気持ちがかなりぐらついたのがわかった。よし、あと一押しだ、と考えたところで時間切れになる。

家庭教師が来たらしいとジェームスが告げ、この話は流れて、レイチェルは部屋から出ていった。


「トーマス爺さんにも言われたでしょう?親しくならないと受け入れてはもらえませんって。大体、何でそんなに外に連れ出したがるんです?」


ドリーが笑いながら言った。


「ここだと確実に邪魔が入るし、彼女は逃げるんだ。それに全く距離が縮まらない」


ホームグラウンドで、基本的に他に頼るものがあるのも駄目だと思う。邸にいる限りは彼女は俺を頼りにしないし、上手く逃げられてしまう。


「多分、ティルナード様と出掛けるのが嫌なわけではありませんよ」


ドリーはふと何かに気づいたように、困惑したように言った。


「意味がわからない」


「ティルナード様と違ってお勉強中なんでしょう。だから、断ったんですよ。作法知らずはパートナーの恥になりますからね。前はもう少し時間があったのに、最近はどうもお勉強の時間が増えたように思いますからねぇ」


そういえば、と思った。以前のレイチェルは割りと自由な時間が多かったように思う。最初は逃げる口実だと思っていたが、本当に家庭教師が来ているところをこの間確認したばかりだ。


「少し焦りすぎただろうか」


「大分ですよ」


「だが、待てばどうにかなると思うか?」


他の女の子なら放っておいても勝手に寄ってきたし、誘いを断られることはなかった。誘うこともなかったのだが、きっと他の女の子が相手なら容易に頷いただろうと予想した。女の子を上手く口説く方法が全くわからない。


「どうにもなりませんね。レイチェル様の性格的に、せいせいなさると…ったたたた」


ぐりぐりと俺はドリーの頭を押してやった。ドリーは正直過ぎるのが欠点だ。


「まずは約束するのが自然な間柄になることですかね?ルーカス様もいい加減うんざりなさっているようですし、お友達になることから始めてはいかがでしょう?」


ドリーの提案に俺は頷いた。言われて初めて、俺は彼女と無関係な人間だったと気づき、ショックを受けた。


※※※


レイチェルに会いに来た、と言えば家令のジェームスがぎょっとするのがわかった。


「ルーカス様ではなくお嬢様に、ですか?」


「ああ」


「先触れは頂いておりませんし、そのような約束は伺っておりませんが?」


当然だ。約束していないからな。言えば、彼女は逃げるだろうから仕方がないことだ。

ジェームスは俺を客間に通すと慌てて、レイチェルに確認しに行ったようだ。ということは彼女は在宅だということだ。

ドリーに非難の目を向けられたが、無視した。あれから何度も個人的に約束を取り付けようとしたが、その度に逃げられた。

大分待たされた後、部屋に入ってきた彼女を見て、俺は妙な胸騒ぎに襲われた。


「珍しいですね」


ドリーが呟いた。レイチェルは珍しく可愛い格好をしていた。カイルに恋していた時のように、いや、それ以上だった。

何か言うべきだろうが、他の奴のためだとしたら面白くなかった。迷っていると、彼女が先に口を開いた。


「…急に来られたら困ります」


警戒するように俺を見上げて、レイチェルは言った。


「君は約束させてくれなかったじゃないか」


「お兄様のお友達なのに、おかしいからです」


「俺は君とはもう友達のつもりだったんだけど?」


友達だなんて思ったことはなかったが、彼女にそう言った。レイチェルはなぜか、がっかりしたように俯いて、「友達」と呟いた。

女心はよくわからない。反応から彼女の中では俺はまだ「ただの知人」に分類されているのかもしれないことに傷ついた。


「…前に君が興味をもっていただろう?今日はその本を持ってきたんだ」


気をとり直して俺が用件を切り出すと、彼女が目を輝かせたのがわかった。俺は本を彼女に渡すと、彼女は躊躇いがちにおずおずと受け取った。

レイチェルは恋愛や冒険小説が好きらしい。邸にいくつか、そのような本があったことを思い出した俺はそれらを口実に使うことに決めた。


「…ありがとうございます」


警戒をのぞかせながらも、はにかむように笑う彼女は可愛い。思わずじーっと見つめそうになって慌てて視線を逸らした。ドリー曰く、じろじろ見すぎるせいで彼女に逃げられるらしい。注意しなければならない。


「その…。今度来る時は他の物も探しておくよ。良かったら君のお薦めも貸してくれないか?」


頬をかいて、用意しておいた台詞を口にした。不自然にならなかっただろうかと心配になった。数日悩みに悩み抜いて考えた作戦だった。本の貸し借りをすれば自然に「今度」が発生する。彼女の好みも知れるし、丁度いいと思った。

レイチェルは考え込むようにした後、いくつか候補を挙げた。読んだことがない、と言えば、彼女は素直に自室からそれを取ってきて俺に渡した。


「ありがとう。今度来る時までに読んで感想を言うよ。次はいつ会える?」


さりげなさを装って「次の約束」を取り付けようとした。「ルーカスに会いに来た」ではいつまで経っても逃げられるとドリーは言っていた。自分のお客様ではないなら、相手をする義理はないのだ、と。不自然すぎるのだと言われて、頷いたのだ。

彼女は予定を口にした。予定から最近はダンスやマナーの勉強をしているらしいことがわかって、俺はぶっきらぼうにどんなことをしているのか聞いてみる。それに対して、彼女はぽつぽつと答えてくれた。

自然に距離を埋めるのは効果的らしい。まどろっこしいと思うが、彼女と「今度」の約束ができただけでも進歩だ。一足飛びにプロポーズしたり、ぐいぐい押したのは逆効果だったと反省した。

レイチェルが貸してくれた本のタイトルを俺は撫でた。彼女はこの本が大好きらしい。「ナイトメア」と書かれた絵本は何度も読んだ痕があった。

邸に戻り、自室でゆっくりページを捲って読んでいると、ドリーが茶化してきた。


「珍しいですね。ティルナード様なら、あっという間でしょうに」


確かに速読と瞬間記憶がある俺ならあっという間だった。ページをぱらぱらめくるだけで内容は勝手に頭に入るのだ。読書好きな友人からは情緒がない、と言われた。


「…内容の把握だけならな。けど、それでは読んだことにはならないだろう?」


「…空から槍でも降るんじゃないですか?あなた、乳母に絵本や小説なんてきちんと読むだけ時間の無駄だと言ってませんでした?」


「好きな人の好きなものはできるだけ、どこが好きなのか理解したい。ドリーも言ってただろう?相手に好きになってもらいたいなら、相手に理解を示すことだ、と」


「まあ、相手を理解すれば気持ちも冷めるかもしれませんしね」


笑うドリーを俺は睨み付けた。


「レイチェルはどっちが好きだと思う?」


俺は絵本の挿し絵を指してドリーに聞いた。


「挿し絵にすら嫉妬するなんて末期ですね。そうですねぇ。俺は王子様だと思います」


銀髪の王子を指してドリーは言った。対照に夢魔は黒髪で大きな黒い翼が生えている。お姫様は金髪だ。


「…俺は夢魔だと思う」


夢魔はグウェンダル=レイフォードに似ていて正直むかついた。

読んでみた感想だが、この話の王子は間抜けだ。好きだと気づいた頃にはお姫様は別の男に拐われてしまっていて、何とか取り戻したものの、何もかも忘れてしまっていたのだから。


「レイチェルはこの王子と俺が似ていると言っていたらしい」


ルーカスから後で聞いた情報によると、初対面で絵本の挿し絵そっくりだと思って呆気に取られたらしいのだ。


「外見の話でしょう?喜んで良いと思いますよ?王子様みたいって最高の誉め言葉じゃないですか。女の子は王子様が好きでしょう?」


「…カイルは全然王子っぽくなかった」


お人好しそうなカイルの顔を思い浮かべて溜め息をついた。優しいカイルと意地悪な自分なら、断然カイルを選ぶだろう。


「それはまた。最初から縁がなかったと諦めますか?」


「無理だ。彼女が俺の傍にいて笑ってくれるなら持っているもの全てと引き換えにしていいと今だって思うんだ」


本気でカイルになりたい、と思った。カイルがレイチェルとくっついていたら、と思うと今でも胸が苦しくなる。


「…末期ですね。厄介な方に好かれたレイチェル様は本当にお可哀想」


俺は肩を落とした。彼女に釣り合わないのはよくわかっている。優しい心根の彼女はあれだけ酷いことをした俺にも優しいのだ。


「ティルナード様はレイチェル様とどうなりたいんです?」


「…彼女に好きだと言ってもらいたい。見つめて手を繋ぎたい」


まずはそこからだ。気持ちを通わせたら婚約したと思った。


「あの恋愛に無関心だったティルナード様が!本当に末期ですね。今、実際に行動に起こすと確実に嫌われますから思うだけに留めてくださいね」


ドリーの言いように腹が立ったが言い返せなかった。現状、彼女を見つめるのも手を繋ぐのも絶望的だった。目を合わせようとしないし、触れようとすれば全力で逃げられるのだ。本を受けとる時も非常に慎重だった。

彼女のしっとりした小さな柔らかな手の感触を思い出して溜め息をつく。

俺は絵本に目を落とした。これを俺に貸し出した時、彼女は不安そうだった。馬鹿にされるとでも思ったのだろう。

これを機に見直してもらおう。実際に読んでみたら、彼女の貸し出した絵本はそう趣味は悪くない。意外にテーマは深く、面白いと思った。

また、彼女が可愛い物が好きらしいこともわかった。今日の格好もそうだ。可愛い格好はよく似合う。


「今日は何かあったんだろうか?」


ドレスで思い出した。珍しく可愛い格好をしていた彼女は俺を見上げて、ぎこちなく笑った。少し機嫌が良さそうだった。何か良いことでもあったのか。

他の奴のために、と思うと面白くなかったので特に突っ込まなかった。


「…気になる野郎が約束なしに突然押し掛けてきたんじゃないですか?」


「ルーカスからそんな話は聞いていない」


カイルに失恋してからはそういう話は聞かなかった。従兄とは仲が良いが、彼と会うために着飾ることはなかった。


「あなたも鈍いですね。次もおめかしなさるでしょうから、お会いしたら今度は絶対に誉めて差し上げてくださいね。誉められて悪い気がする女性はいませんから。凄く…喜ばれると思いますよ。あと、そろそろ旦那様には話を通した方がいい」


「彼女にその気がないのに、勝手に話がまとまったら嫌われるだろう?前に冗談はやめてくれ、と断られたんだ」


ストレートに婚約してくれ、と言ったら笑えない冗談はやめてくれ、と返された。今思えば、早すぎたのだと思う。


「…でも、気になる相手がいるぐらいは言っておかないと、後々大変なことになりますよ。あなたも一応は公爵子息で人気な結婚相手なんですよ。期待を持たせておいて他の相手と婚約されたら、人間不振になりますから。最悪、全部からかっていたのだと思われるかも?」


俺はこの時のドリーの言葉をよく理解していなかった。だから、急がなくてもいいと思ったのだ。このことで彼女を深く傷つけ、自分も後悔することになるとは思いもよらなかった。凄く…馬鹿だったと思う。

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