閑話~公爵子息の恋愛裏事情~
レイチェル=ヴィッツ伯爵令嬢が王家主催の建国記念の夜会で夜会デビューすると聞いた時、俺は思わずルーカスを問い詰めた。貴族令嬢の夜会デビューには通常親族の付添人がつくのが通例だ。だから、俺はルーカスが出席する夜会の予定は全て押さえて、それに全て参加する予定で仕事を調整していた。
ルーカスは建国記念の夜会は欠席で、外勤になっていた。だから、完全に油断していた。シスコンの友人が妹の夜会デビューに付き添わないなんて思いも寄らなかったのだ。
「ルーカス、どういうことだ?」
「ティルこそ、そんなに慌ててどうしたんだ?」
しれっと惚ける友人を殴りたい衝動に駆られながらも、俺は言葉を続けた。
「君の妹が建国記念の夜会に出席するなんて聞いていない」
「そりゃあ、そうだろう?だって言ってないからな」
「どうして教えてくれなかった?」
「どうしてティルに教えなきゃならないんだ。お前と妹は赤の他人だろう?」
当然のように言い返されて、何も言えなくなった。そう。彼女と今の自分は何の接点もなく、知人ですらない。だから、ルーカスの言っていることは悔しいことに筋が通っていた。
「…夜会デビューには付添人がいるだろう?ルーカスは仕事だけど、どうするんだ?」
何なら、俺がやってやってもいい、という気持ちをこめてルーカスに声をかければ、ルーカスは見透かしたような顔で言った。
「従兄に頼んでるから、心配いらん。大方自分が、とでも言いたかったんだろうが、面識もない兄の友人のエスコートを妹が受けるはずがないよな。お前、目立つし。それに、その日はお前も外勤だったよな?」
フィリアと婚約を解消してからは夜会の度に令嬢からアプローチを受けることが増えていた。だから、彼女が参加する可能性が低い夜会は必要な物以外は断るか、仕事を入れるようにしていた。
建国記念の夜会は両親とサフィーが代わりに出席することになっていた。大きな夜会は特に令嬢に囲まれやすいから正直、面倒なのもあった。だけど、彼女が出席するなら話は別だ。
「わかっていたなら、予定を入れなかった」
「そう思ったから、言わなかった。妹に悪い虫がつくのは避けたいからな。お前が俺の夜会出席の予定を押さえているのは気づいていたからな」
性格の悪い友人は悪びれもせず、妹にとって一番の悪い虫が参加しない夜会をデビューに選んだのだと言った。
俺がフィリアと婚約解消してもルーカスは俺を彼女に近づけようとはしない。理由は何となくわかっていた。彼女の結婚相手の紹介を頼まれた時、ある条件に俺は顔をしかめたのだ。まず、俺の気持ちを知っているくせに俺に頼むルーカスは無神経だと思う。だが、条件に沿えばあるいは、と思い直してリストに目を通して愕然とした。
「俺の親が公爵だからか?」
ルーカスは相手を男爵から伯爵位までの貴族で絞って探していた。現に俺は一回名乗りを上げているが、「お前は駄目だ」とはっきり断られたのだ。
「妹の幸せを考えれば当然だな。身の丈以上の家に嫁げば妬み嫉みの悪意にさらされるだろう?親族に気に入られるとも限らないしな」
「うちは大丈夫だ。それに、そうなったとしても彼女は俺が守るよ」
「四六時中ずっと一緒にいられるわけじゃないから不可能な話だな。あいつの望みはそこそこ平凡な男と平凡な家庭を築くことだからな。あいつの希望がお前と真逆な相手が理想だっただけのことだ」
「…真逆でもないだろう?俺は至って平凡だし、一緒にいて落ち着けると思う。真面目な方だし、女遊びはしない。安定した収入はあるから甲斐性はある。彼女を大事にすると誓えるし、爵位以外の項目は全て満たしている」
俺は自分でもこれ程ぴったりな相手はいないじゃないかと思った。憮然とした顔で反論すれば、ルーカスに凄い勢いで突っ込まれた。
「お前のどこが平凡だ。自分の容姿を鏡で見ろ。そして、俺も含めた世の中の平凡な男に謝れ。大体、今のお前がうちの邸にいたら違和感半端ないし、落ち着かなくて両親も妹も昔とは違う意味で恐縮して警戒するわ」
「公爵以外なら考えてくれるのか?」
「聞いていたのか?お前の爵位が何だろうとお前だけはない。ああ、でもレイチェルがお前が良いと言うなら、考えようじゃないか。あり得ない話だがな。何せ、今のお前とは接点がないし、レイチェルは氷の貴公子様の噂を耳にしても他の令嬢ほどに興味を示さない」
「紹介してくれたら自分で何とかする」
何回か二人で会って距離を縮めれば、少しは意識してもらえるはずだ。俺がそう言えば呆れたような顔でルーカスは言った。
「お前は相変わらず恋愛音痴だな。紹介しても、後に続かないと断言できる。警戒心の高いレイチェルは兄の友人なだけの得体の知れない男と二人きりで会おうとしない。相手が無駄に顔と爵位が高い奴なら尚更だな。からかっていると思われて逃げられるのがおちだ。わかったら、お前も妹は忘れて、相応の相手を探せ」
そう言われても納得できなかった。結局、彼女に会いたくて俺は内勤の奴と交代してもらった。
夜会で久々に見た彼女は隣の男に気安く笑いかけていた。胸が締め付けられるように痛かった。二人はとても親しげで、既に深い仲なのではないかと不安になった。
彼女に婚約者がいるという話は聞いたことがない。ただ、ルーカスが付き添い役に選んだ従兄は見事に防波堤の役割を果たしていた。ちらほら彼女に注目する人間はいたが、隣の男を見て、声をかけるのを諦めるのがわかった。
彼女は緊張さえ取り除いてやれば、可愛い顔をしている。不器用な表情筋と悪い噂さえなければ争奪戦になってもおかしくはなかった。
声をかけるのを諦めかけていた時、彼女が付き添い役から離れて一人になった。その後をサフィーが取り巻きと追いかけるのを見て、俺は成り行きを見守った。妹のサフィーは誤解されがちだが、つまらないいじめをするほど性格が悪くはない。彼女の姿とサフィーの姿を見て、意図はわかった。残念ながら、取り巻きには伝わらなかったようだが。
彼女が一人になったタイミングで思いきって声をかけた。彼女と言葉をかわすことができたこと、自分の手をとってくれたことに密かに感動した。隠れて見ていたことがばれて厭味を言われたが、それすらも可愛いと思った。その後、彼女に次の約束を取り付けようと思ったところで、付き添い役の従兄が来てしまって落胆した。
仮面舞踏会で彼女を見つけた時は奇跡だと思った。鬘をかぶり、仮面をつけていても一目見て、彼女だとわかった。
仕事で潜入中とはいえ、他の奴等も浮かないために適当な相手に声をかけていた。
ルーカスが全く気づいていなかったのも幸いだった。気づいていたら、さっさと帰されていただろう。彼女は前の夜会とは違い、一人だったし、俺は彼女に狙いを絞って声をかけた、
仮面をつけているせいか、夜会の時より俺に対する警戒心を解いていた。満更でもない様子の彼女を見て、俺はこれを機に接点ができるかもしれないと期待した。ダンスは断られてしまったが、話をしようと誘ったところでちょっとした事件が起きた。
レイチェルは昔から危なっかしい。時折、予想外の行動をとる。キャンドルに激突する、すんでのところで、彼女の小柄な身体をキャッチすれば黒い瞳で驚いたように俺を見つめた。
直後、騒ぎを聞き付けたルーカスが彼女を発見したのは言うまでもない。俺はまた機会を逃してしまった。呪われているのかと思いたくなるぐらいにタイミングが悪い。
名残惜しかったが、これから大捕物が始まるのだ。ルーカスの要望通りに彼女を抱えて彼女の友人の馬車に乗せた。
※※※
仮面舞踏会で会った「ティル」にレイチェルが興味を持っているから晩餐会に招待する、とルーカスに言われた時、俺は急いで予定を空けた。
ヴィッツ伯爵邸を正門から入って俺は感動した。ルーカスには変な目で見られたが、正式な招待を受けて堂々と正門から入るのは実に久しぶりなことだった。
家令のジェームスの出迎えを受けたが、彼はなぜか驚いたような顔をした。邸に足を踏み入れると、昔と大分様変わりしていた。当時はあったものが色々なくなっていて、寂しい印象を受けた。
中庭に面した部屋のそばを通れば、そこにはあるはずの物がなかった。俺の視線に気づいたルーカスは「ピアノは売った」とだけ簡潔に答えた。
食堂に足を踏み入れた時、ヴィッツ伯爵夫妻もレイチェルもジェームスと同じように非常に驚いた顔をした。目だけで会話している彼らは何かがっかりしている様子で、俺は少し戸惑った。
傍にいたルーカスは「ティルがティルナード=ヴァレンティノだと知らなかったんだよ」と俺に耳打ちした。だからといって、がっかりされる理由がわからない。
溜め息をつきながら、ルーカスはこの食事会の趣旨は「ティルとレイチェルの非公式なお見合い」だったのだと教えてくれた。「ティル」の素性が公爵子息だとわかって、ただの晩餐会に予定変更になったらしい。
レイチェルは仮面舞踏会で会った時とは違い、どこかよそよそしかった。伯爵夫妻も気まずい空気を漂わせている。俺の方はレイチェルと顔見知りになったことで親交を深められると思っていたが、この様子では次はなさそうだった。仲を深めてから婚約を申し込むどころか、仲良くなる前に全力で逃げられそうな雰囲気だ。
ルーカスが見かねたように俺に話をふった。「妹の結婚相手を紹介しろと言った件はどうなったのか?」と。俺は首を傾げた。その件には既に「見つからなかった」と返答していたからだ。
ルーカスの妹というだけで敬遠されがちな上にあの厳しい条件を満たす相手など見つかるはずもなく、俺はほっとしていたのだ。本当に見つかったら、そいつに取られてしまうから。
暫くしてルーカスの意図が見えて、俺は答えていた。「条件にあう相手は一人しかいない」と。これを逃せば、彼女と深い仲になるのは無理そうだから致し方ない。
「俺では駄目だろうか?」と言えば、先方は断れないのを知っていた。こういう聞き方をして、面と向かって断れるほどヴィッツ伯爵夫妻もレイチェルも神経が図太くない。俺の読み通り、彼らは不承不承この婚約の申し出を受け入れたのだった。
※※※
婚約者という立場は素晴らしい。今まではそう思ったことはなかった。
フィリアとの婚約期間中はお互いに悪態をついたものだ。婚約しているからといって、必ず月に一回は会いに通わなければならなかった。エスコート相手は決まっていたし、良かったことといえば風避けになっていたことぐらいだ。それは義務で、他の貴族の政略的な婚約も大体そんな感じだ。
今は違う。まず、邪魔が入らず二人きりで会うことが許される。誘っても予定がない限りは断られない。堂々と彼女に触れてエスコートができる。
月に一回どころか、当初は彼女の顔が見たいのと、早く仲良くなりたくて俺は必要以上にヴィッツ伯爵邸に通い詰めた。仕事を今までにないスピードで仕事を終わらせ、時間をつくった。
俺と対面する彼女は緊張していた。警戒心剥き出しの彼女に俺は苦笑した。婚約したからには焦る必要はなく、これからゆっくり距離を縮めればいい。その時はそう思った。
茶請けの菓子を家令のジェームスが運んできた。レイチェルが趣味で作った菓子らしい。
ぺろりと平らげ、「また作ってほしい」と言えば、彼女の強ばった顔が一瞬柔らかく綻んで俺は幸せを噛み締めた。
小説の話をした後、会話がぷつりと途切れた。そのまま、俺はうとうとしていたらしい。柔らかい何かを枕にして、誰かに頭を撫でられて俺は心地よい気持ちで微睡んでいた。「何をやっているんだ?」というルーカスの冷たい声で意識を取り戻せば、彼女の顔が真上にあって動揺した。慌てて起き上がれば彼女と額がぶつかった。至近距離に顔が近づいて、唇が触れそうになって俺は焦った。
ルーカスの呆れたような声で我にかえり、残念な気持ちになった。レイチェルが膝枕をしてくれるなんて、もうないかもしれない。ルーカスの疑うような眼差しを受けて、意識のある時にしてくれれば良かったのに、という贅沢な言葉を呑み込み、残念だとだけ告げた。
※※※
王弟殿下生誕記念の夜会のエスコートをした時は彼女に見とれた。基本的に彼女の所持しているドレスは時代遅れな、肌を隠すものが多い。
母が彼女に用意したのはデコルテが開いたドレスだった。普段隠れている部分が見えて、彼女が自分に向けられる視線には鈍いのを良いことに思わず何度も盗み見てしまった。
色白の素肌と、滑らかな首筋から胸元までの華奢なラインを見つめて、喉が上下した。
馬車の中で彼女に言われたことがショックだった。婚約しているから自分のエスコートを受けてくれているのは理解していた。まだ特別な感情を持ってくれていないのも知っていた。
頭をよぎったのは彼女の従兄の存在だ。二人は既に良い仲で、俺は無理矢理間に割り込んだ形になったのかもしれない。彼女が「他に好きな人を作ってもいい」と言ったのは自分も従兄のことを想い続けるから、と突き放されたみたいで、じりじりと焦げ付くような嫉妬に胸を焦がされた。
どうしようもないことだが、彼女が自分以外の他の誰かを好きになるのは嫌だった。
二人はどこまでの関係なのか気になっていたのもあり、意地の悪いことを言った。言ってしまってから後悔した。「嫌い」と言われて、目の前が真っ暗になる。また、嫌われてしまったのではないか。
夜会の最中も気持ちがざわついて、気づいたら、彼女が隣にいなくて本当に焦った。すぐに探しに行きたかったが、囲まれていて離れられなかった。周りに目を走らせると、壁際で男と話す彼女の姿を見て、息が止まった。
すぐにでも傍に行きたかったが、周りがそれを許してくれなかった。傍にいた女性が腕に絡みついて来るのを何とかかわしながら、意識だけは彼女の方に向けた。
ダンスを踊るらしい。俺が誘っても、彼女は頷かなかったのに。お披露目の時は義務的に踊ったのは知っていた。
ホールで二人が踊り出すと、周りから声が上がった。ダニエル=ヤーバンはダンスが下手で、彼がレイチェルの足を踏まないか冷や冷やしながら俺は見守った。
二人はとても楽しそうだった。レイチェルがふわりと笑ったのを見て、俺は頭に血が上った。彼女は俺と一緒の時はいつもどこか緊張していた。あんな風に笑いかけてほしかったのに、いとも簡単にダニエル=ヤーバンはそれを手に入れたのだった。
誰かが「お似合いだ」と言った。俺はレイチェルと並んで一度も「お似合いだ」と言われたことがない。どうして、と思った。ダニエル=ヤーバンと俺の何が違うというのか。そもそも、彼女と婚約している俺は「不釣り合い」なのに、婚約者でもない彼とは「お似合い」と言われることに納得がいかない気持ちになった。
ぐるぐる余計なことを考えている内に二曲目が始まった。ダニエルと二曲目を踊る彼女を見て、俺は表情を失った。断ろうとしている素振りは見えた。それをダニエルが無理に押しきったのだとわかった。それでも。どろどろとした熱いものが込み上げてきた。彼女が動く度にリボンが揺れる。彼女の姿にダニエルが見とれているのがわかる。お前を喜ばせるために彼女にそのドレスを着せたんじゃない、と心の中で憤った。
周りからざわめきが広がった。二曲踊ることがどういうことか俺も周りも知っている。ダニエル=ヤーバンがどういうことを示すか知らずに誘った可能性は低かった。
俺は何とか周りを振りきって、彼らのそばに近づいた。流石に三曲目まで許すつもりはない。二曲目だって俺がもたもたしていなければ、踊らなかったはずだ。俺は彼女と一曲だって踊りきったことがない。
曲が終わった瞬間、彼女に手を伸ばして腕の中に閉じ込め、そのまま、ぐっと力を入れて抱き締めた。腕の中にいる彼女に戸惑うような、警戒するような顔で見つめられて、また、どうして、という思いに支配された。
どうして、彼女は自分にだけ、という自分勝手な思いに囚われる。言わない自分も悪いのだとわかってはいた。一言、「君がどうしようもなく好きなんだ。だから、婚約したんだ」と言えば、済む話だ。彼女が気を許してくれない原因はわかっていたが、彼女の気持ちが俺に向いていないのもわかっていた。今、告白しても過去の失敗を繰り返すだけだ。
ダニエルに「自分なら彼女に寂しい思いをさせない」と咎められて言葉を失った。傍を離れていることに気づかなかった事実に胸を抉られた。
彼女が不安げに見上げてきたので冷静さを取り戻した。ここで不仲な噂がたつのはまずい。つけこまれる隙を与える。そう思って何とか取り繕い、その場を後にした。
馬車の中で彼女とは気まずかった。俺は頭に血が上っていて、彼女を見れば責めて乱暴なことをしてしまいそうで、見ることができなかった。彼女が怯えているのがわかったのもある。また、どうして、という気持ちに苛まれ、胸が苦しくなった。こんなに近くにいて、手を伸ばせば触れることもできるのに、遠いと思った。
窓の外を見ながら、深くため息をつけば、窓に映った彼女の顔が青ざめているのがわかった。こんな顔をさせたいわけではない。ただ、笑いかけて気安い声をかけてほしいのだ。それこそ、彼女が従兄にするように。無いものねだりなのは重々承知だった。
※※※
気まずい思いを抱えたまま、一ヶ月が過ぎようとしていた。いい加減、会いに行かなければ愛想を尽かされるのはわかっている。だけど、どんな顔をして会いに行けばいいのかわからない。何より邪魔が入ってしまい、時間がとれない。
公爵家から職場に届いた手紙を見て、血の気が引いた。内容は婚約を辞退する旨の申し出がヴィッツ伯爵夫妻からあったとのことだった。
ルーカスを慌てて問い詰めた。
「どういうことだ?」
「何が?」
「婚約を辞退する旨の手紙がヴィッツ伯爵家からうちに届いたらしい。これはどういうことかと聞いている」
「まんまの意味だろう?両親もレイチェルもお前に愛想を尽かされたと思っている。お前、最近は邸に来ないし、誘いもなかったからな」
「それは…」
邪魔が入ったからだ。今、職場の部下について頭の痛い問題を抱えていた。
「実際、世間ではお前らの婚約は破局寸前らしいぞ?」
「ただの噂だろう?それより、レイチェルは本当に俺と婚約解消したいのか?」
ルーカスに言えば、彼は黙って肩を竦めた。
「本人に聞けよ。俺に聞くな。俺はレイチェルじゃないから妹の気持ちはわからん」
それができたら苦労していない。彼女に告白できなかったのは勝算が限りなく低かったからだ。昔は全くわからなかったが、今ならわかる。彼女は俺に対してだけ、よそよそしい。面と向かってお断りされたら立ち直れそうにない。
嫌われてはないとは思う。いくら彼女でも嫌いな奴の頭を膝の上に乗っけたりはしない…はずだ。この辺に自信がないのは過去に嫌われていた時に手を握って介抱してもらった記憶があるからだ。
好かれているかと言われると微妙なラインだ。確かに何度も赤面する顔は見ている。ただ、彼女は誉められ慣れていないので、動揺しているだけだとも思う。
ともあれ、このままだと本当に婚約解消されそうだ。俺は慌てて残務を終わらせ、ヴィッツ伯爵家に足を向けた。
伯爵夫妻の応対を受けた。レイチェルは不在だという。なら、待たせてほしいと言えば、彼らはなぜかカタカタ震えていた。
「お構い無く」と言ったのだが、彼らは動こうとしない。会話のないまま、レイチェルの帰宅を家令が告げた。
彼女を目に入れた瞬間、身体が勝手に動いていた。人目も憚らず彼女を抱えていた。そのまま二人でサロンで話そうと足を動かしたところで、マリアに阻まれた。マリアに止められて、漸く冷静さを取り戻した。「ただ、話したいだけだ」と告げれば周囲の空気が弛緩したのがわかった。それだけで何となく何を心配されていたのかわかった。だけど、誤解を解いている余裕は今の俺にはない。
サロンの長椅子に二人で座り、彼女の腰に手を回した。腰に手を回したのは下ろした瞬間、彼女が逃げようとしたからだ。彼女の身体が震えているのがわかって、俺は不機嫌になりながらも、離れようとする彼女の腰を引き寄せた。
正直、頭の中はぐちゃぐちゃだった。どうして、彼女は怯えるのか。昔と違って自分は彼女に何も乱暴なことはしていない。意地悪なこともしていない。なのに、彼女は未だに緊張していて、ぎこちなくて、逃げようとする。そのことが無性に腹立たしく、悲しかった。
他の誰にでもそうなら、わかる。だけど、彼女がこうなるのは俺の前だけだとこの間の夜会で気づいてからはより一層苛立ちが募った。初対面の時と同じ感覚だと思い出して、フィリアの言ったことが正しかったのだと思い出した。俺は最初からレイチェルが好きだった。
こんなにも焦がれているのに、彼女の瞳に俺は映らない。努力はしてきたつもりだ。
彼女の好きな小説は全て読んだ。ピアノだって大嫌いだったけど、練習した。これには両親が一番驚いていた。ピアノは慰めにもなった。彼女の上手いとは言えない演奏が好きだった。他の苦手だったことも大概は努力で何とかした。
女の子の扱いについてはフィリアからさんざん駄目だしを食らった。
隣にいる彼女に「本気で婚約解消するつもりなのか?」と問う。他に好きな奴でもできたのか。ダニエル=ヤーバンとは良い雰囲気だったな、と思い出す。思い出して、だんだん腹が立ってきた。俺はいつだって当て馬だ。彼女の本命にはなれない。他の人間にモテても本命に相手にされないのでは意味がない。
婚約解消したいのだと言われたら、どうしようか。無理に縛り付けては逆効果だ。その時は諦めるしかないのか、と考えて苦しくなった。彼女が自分以外の奴と、と考えるだけで気が狂いそうになる。
誤解だ、と彼女は言った。辞退の件は彼女の両親が先走った結果だと。彼女自身は婚約解消するつもりはない、と言う。更に、ぎこちなくなるのは意識するからで、全部俺のせいだと言われた。顔を真っ赤にしながら、俺の視線から逃れようとする彼女は可愛い。全部意識してくれていたからだとわかって、現金な話だが、それまでの不機嫌が全て吹き飛んだ。少しずつでも、彼女の気持ちが動いていると知り、無駄ではなかったのだと実感した。
抱き締めたくなる気持ちを抑えて、彼女の手を取り見つめると彼女の身体が突然傾いで焦った。極限まで張りつめていた緊張の糸が切れて、気絶したらしい。
後から帰宅したルーカスはぐったりしたレイチェルを見て怒った。彼女の両親にも謝罪し、婚約辞退の話は白紙に戻してもらった。
※※※
レイチェルと久しぶりにゆっくり過ごせる。折角だから二人で出掛けたいと思い、オペラのチケットをとった。母が贔屓にしていて、演目はレイチェルが好きそうなものだったので、丁度良いと思った。誘いの手紙の返事も凄く喜んでくれていたので、俺は事前に色々と下調べをした後、その日の予定を綿密に組んだ。
彼女を迎えに行けば、可愛い水色のドレスを着ていた。久々に会う彼女と見つめあっていたら、時間を忘れてしまって、うっかり開演時間に遅れそうになった。
馬車の中で彼女が俺に「触れたい」と言ってくれた時は驚いた。真隣に腰かけて、手を触られている。すぐ傍で彼女の髪が揺れて、花の香りが鼻先を掠めた。白いうなじが眩しくて、まずいと思った。至近距離に好きな女性がいて、彼女は俺の手を取っている。しかも二人きりなのだ。ただでさえ、最近は会えなかった。レイチェル不足を起こしている状態でくっつくのを我慢しろという方が無理な話だ。
抱き締めれば、驚いた彼女は一瞬身を固くしたが、すぐに緊張を解いておずおずと手を背中に回してくれたのがわかった。
いつもより彼女の身体は柔らかかった。何が違うんだろうと考えて、コルセットがないのだと気づいた。残念ながら、馬車が目的地に着いてしまったので、すぐに離れることになったが、彼女が嫌がらなかったことが嬉しかった。
オペラは退屈しなかった。彼女が喜んでくれたので、連れ出した甲斐があったと思った。そのまま昼食に誘ったら顔を曇らせたので、何か失敗しただろうかと思った。
レイチェルは「足が疲れた」と言った。もしかして、俺に合わせて無理に歩いていたのだろうか。レイチェルは基本的に口数が少ない。椅子に座らせて彼女の小さな足を確認すれば、怪我はなかったので、ほっとした。
レイチェルは帰りたそうにしていたが、俺は彼女ともう少し一緒にいたかった。だから、我が儘だと思いつつも「疲れたなら抱えていく」と言って、彼女を無理に昼食に誘った。彼女が躊躇いながら頷いてくれたので、気が変わらない内にと彼女の小さな手を取ってオペラハウスを出た。
その後が最悪だった。まさか休日まで邪魔されるとは思わなかったのだ。しかも、よりによって婚約者との久しぶりの逢瀬である。そんな都合の良い奇遇があってたまるか、と心の中で悪態をついた。
顔が不機嫌になった。隣にレイチェルがいることを思い出して、彼女を見れば驚いたような顔をしていたので、慌てて彼女に笑いかけた。
アリーシャ=ラッセルがレイチェルを馬鹿にしたのがわかった。俺は更に不機嫌になり、放って行こうとしたが、空気を読まない彼女に昼食に誘われた。正直、レイチェルと二人で過ごすはずだったのに邪魔である。
レイチェルが昼食は別の機会に、と言ったのでがっかりした。アリーシャ=ラッセルさえ現れなければレイチェルともっとゆっくり一緒に過ごせたのに、もう帰らなければならないのか。
空気を読まないアリーシャ=ラッセルは更にレイチェルが帰るのは残念だ、と言った。これには驚いた。
一緒の馬車に乗って来たのだから余程のことがない限り、レイチェル一人を帰すなどあり得ない。彼女が帰るなら当然俺も同乗し、伯爵家に送り届ける。婚約者をほったらかして、別の女性と二人で過ごすなんてあり得ないことだ。
隣のレイチェルの顔がひきつったのがわかった。気づいたら、腕を振りほどかれていた。名前を呼んだのだが、聞こえなかったのだろうか。既に彼女は雑踏に消えていた。
愛想を尽かされただろうかと不安になった。すぐに追いかけたかったが、アリーシャ=ラッセルに「感じが悪い婚約者様はほっといて行きましょう?」と腕を引っ張られてできなかった。
表情を失った。これが原因でレイチェルにフラれたら、絶対に許さない。ああ、でも、その前に一刻も早くアリーシャ=ラッセルと離れるのが先決だ。このままでいたら変な噂がたってもおかしくはない。
怒り狂う頭で宰相の本日の予定をトレースした。アリーシャ=ラッセルを近くまで上手く誘導し、そのまま宰相に引き渡した。宰相には遠慮なく「このようなことは困る」と抗議した。
護衛に連絡を取り、レイチェルにつけた護衛のロバートがいる位置を聞いた。そのまま向かえば、慌てたロバートを発見した。レイチェルの姿はない。どういうことだ、と問い詰めても要領を得ない。戻ってきたレイチェルを見て、愕然とした。
鬘を被って町娘の姿をしていても、彼女の姿は見間違えない。これはこれで可愛いと思った。しかし、今はそういう問題ではないし、そもそも変装している時点で碌でもないことが起きているのは間違いない。
彼女を着替えさせた後で問い詰めたが、なかなか話したがらない。隠し事をしているのは間違いなく、俺と離れている間に「買い物」をしたらしい。ロバートに指示してバッグを取り上げれば、小瓶が出てきた。彼女の顔色が変わったので、隠し事の正体は小瓶で間違いないらしい。
レイチェルが小瓶を奪い返そうとぴょんぴょん跳び跳ねるが、彼女の身長では普通に考えて届くはずがないだろうと心の中で突っ込んだ。三十センチぐらい身長差があるのだ。
俺も含めて護衛も、跳び跳ねる彼女を見て、一瞬和んだ。和んでいる場合でもないし、彼女が知れば怒るから絶対に言わないが。
瓶の中には液体が入っていた。何かの薬らしい。こんな怪しげな物を彼女に返すわけにもいかない。それで、万一のことがあったら、と思うと気が気ではない。
どうしても言おうとしない彼女に痺れを切らして、俺は「言わないなら飲む」と伝えた。
レイチェルはやっと話してくれる気になったらしい。そんなにやばい代物なのかという疑惑が浮上したが、とにかく、ついでに昼食をとりながら、話すことにした。
ここ最近、疲れることが多かった。目の前でパンケーキを食べる婚約者の姿に癒されたとしても罰は当たらないだろう。ルーカスあたりに見つかれば「ちゃんと飯を食わせろ」と怒られるだろう。たまにはいいんじゃないかと思う。
食事を終えた後で、小瓶の中身について聞いた。「恋の妙薬」という単語を聞いた時に、何のためにそんなものを欲しがったのか気になっていたのだ。女性はそういう物が好きだとは思う。誰に使う気だったのかも気になった。
彼女が自分で使うつもりはなかったこと、気になる噂を耳にして、それとの繋がりを考えたことを聞いて少し安心した。
中身はおまじないめいたものとは程遠いようだ。瓶は預かることにして、彼女には危険なことには首を突っ込まないように釘を刺した。
目の前の彼女はどこかぼーっとしているように見えた。長時間連れ歩いたから疲れさせてしまったのだろうか。彼女を伴って店を出ようとしたら、彼女の身体が傾いだ。
「立ち眩みを起こしただけだ」と言ったが、顔色は悪く、身体が冷たかった。無理をさせてしまったのだと思い、「大丈夫だからおろしてほしい」と言う彼女を抱えて、慌てて馬車に乗せた。
※※※
レイチェルが病弱だという話は聞かないが、彼女は全体的に華奢で軽い。心配になった俺は王弟殿下に相談した。
「立ち眩み、ね。女性にはよくある話じゃないのか?」
「サフィーやフィリアは倒れたことはありませんよ?」
そうでなくても、レイチェルはよく倒れる。前は気絶していたし、その前もお披露目のダンスの最中にバランスを崩していた。
「それは全部ティルナードのせいだろう?比べる対象も悪い」
「俺のせいですか?」
何もしていないのに心外だ。
「男に免疫のない令嬢に積極的に迫れば気絶もするだろう?」
「特に迫った覚えはありませんが」
手を握って見つめただけだ。その前も向かい合ってダンスをしていただけである。
「ティルナードは自分の顔面の破壊力を考えた方が良い。女性が積極的にベッドに裸に近い格好で忍び込むくらいには破壊力があるからな」
「レイチェルには効果がありませんが」
「初な令嬢は警戒するさ。むしろ、これだけ恵まれているのに、わざわざ高望みするティルナードの気持ちがわからない。私がティルナードなら来るもの拒まず、つまみ食いしながら、適当なところで手を打つだろうな。その方が楽だし、レイチェル嬢にはもれなくルーカスがついてくるし、色々面倒だ」
最低発言に開いた口が塞がらなかった。
「何だ?その目は。どうせなら、楽しみたいと思って何が悪い」
「殿下の趣味嗜好はどうでもいいですよ。そんなに…高望みでもないでしょう?」
「ティルナードは甘いな。レイチェル嬢は不器用じゃなきゃ、とっくに似合いの、お前以外の決まった相手ができていたと思うよ。ルーカスもお前には差し出したくはなかっただろうな。俺が女ならお前は嫌だ。お前と結婚したら、愛情深すぎて身がもたなさそうだからな」
「殿下が女なら俺は全力で拒否しますよ。俺とレイチェルはお似合いだと思います」
すかさず反論した。不釣り合いだと皆が言うが、どこが釣り合わないのか教えてほしい。年も離れていないし、爵位もそうだ。身長差だってダニエル=ヤーバンとそう変わらないと思う。俺と釣り合わないレイチェルがダニエルとならお似合いなことに未だ納得がいかない。
「まあ、いい。しかし、お前の言うようにレイチェル嬢が病弱なら、お似合いでも妻に娶ることはできんだろう?」
「なぜです?」
「跡継ぎの問題があるし、公爵夫人となれば心労が大きい。虚弱体質な者より健康な者の方が良いだろう」
「嫌です。それなら、爵位は継がずに二人で田舎に引きこもります」
無理なら子供は望まない。空気の綺麗な田舎で都会の煩わしいことを忘れて二人でのんびり過ごすのも悪くない。
「それは…私が困るな。おおいに困る。ティルナードは本気でやりそうだものな」
準備はしてある。だから、今すぐ彼女を連れて二人で引きこもっても困ることはない。仕事は常日頃から整理し、いつでも引き継げるようにしてあるから問題はない。困るのは王弟殿下のお守りを一手に引き受けることになるルーカスと、俺にやたらと他の令嬢を勧めたがる役人や貴族達だ。
「そういえば、ハーブ園に気付けにきくハーブがあったなぁ。パット」
企み顔の王弟殿下に急に話を振られて薄毛の侍従がびくりと身体を震わせた。
「だ…駄目ですよ。殿下。あれは稀少な薬草なんですから」
「可愛い部下の婚約者が重い病に苦しんでいるんだ。上司としては一肌脱がなくてどうする?」
「重い病も何も、殿下が勝手に面白がって煽っているだけではありませんか!?」
「調べてないから重い病に冒されていないとも言い切れないよな?よし、兄上に相談してみよう」
パットが悲鳴をあげるのを俺は呆然と見つめた。普段ならパットに加勢して止めるところだが、レイチェルが絡むと判断が鈍るらしい。結局、殿下が国王夫妻に口添えした結果、気付けにきくハーブを進呈された。
レイチェルに興味を持ったらしい国王夫妻に今度是非連れてくるようにと言われたのだった。




