4.他人は見かけによらないものです
私は夜会の翌日、戦果を報告するために閑静な湖のほとりに建つレイフォード侯爵の古城に向かった。
勿論、グウェンダルに会うためなどではない。彼は呼んでもいないのに、ヴィッツ伯爵家に出没しては私を適当におちょくって帰る。暇な奴だ。私以外に構ってくれる相手がいないのなら、本当に寂しい男だと思う。
馬丁が屋敷に着いたことを告げる。先触れを出していたので、壮年の白髪混じりの家令が私を恭しく出迎えてくれた。レイフォード侯爵夫妻が留守にしているのは既に連絡を受けていたので、彼に案内をされて私はレイフォード侯爵令嬢の私室を直接目指した。
「お嬢様、レイチェル様がいらっしゃいました」
家令はこんこん、と扉をノックした。中から返事はない。
相変わらずだな、と私は苦笑する。私は「どうしますか?」と目で尋ねてくる家令を手で制し、部屋の中に入る。無作法ではあるが、返答を待つだけ無駄なのは私も家令も知っていた。
ドアノブを引くと独特の、埃っぽいカビた匂いがした。部屋の中にはところ狭しと本が積み上げられていた。
部屋の中を見渡し、隅っこに座り込んで読書をする、丸い眼鏡をかけた少女を発見する。文字通り彼女は本に埋もれていた。
「リエラ」
私が呼び掛けると、少女は一瞬本から視線を上げたが、すぐに興味をなくしたのか読書を再開した。
リエラ=レイフォード侯爵令嬢は私の従姉であり、私以上の本の虫である。三度のご飯より本をこよなく愛し、実際に食事を忘れて没頭することがしばしばあった。
「リエラ、貴方の言う通り噂どおりだったわ」
「レイチェル。喜んでいるところ悪いが、他人は見かけによらないものだ。例えば、君は世間でどんな噂をされているか知ってるかい?」
私の報告には興味を示さず、本に視線を下げたまま彼女は問いかけてきた。
顔も見ずに話すなんて、と思われるかもしれないが、私たちにとってはこれが当たり前のやり取りになる。酷いときは延々と無視されることもあるのだから、今日は返事が返ってくるだけ、まだ良い方だ。どこか気取ったような、令嬢らしからぬ口調も彼女にとっては通常運転である。
「私がどんな噂をされているか?」
私はうーん、と首を傾げた。正直、他人の噂に夢中で考えたことなどなかった。第一、そんなに有名人になった覚えはない。
「目付きが悪いとか?」
「そんな生易しいものなら、可愛いものだな。かの伯爵令嬢は 美しい美女の生き血を吸っているとか、実は国家転覆を企んでいる、という荒唐無稽なもの、我が親愛なる兄上に暗示をかけて意のままに操っている、関わるものを不幸に陥れる、なんて呪いめいたものもあったな」
全身の脱力感に襲われた。
私は吸血鬼か魔女か、と突っ込みたくなった。なんてファンタジーな噂なんだ。私は他人の生き血なんて気持ち悪くて飲めないし、国家転覆を目論んだことなどない。
グウェンダルに暗示をかけている、なんて失礼な話だ。私が奴をそばに侍らせているのではなく、頼んでもないのに奴が勝手に寄ってくるのだ。迷惑しているのだ、私は。
「そんなものだよ。私たちは他人の一部分を見て、その人をわかった気になっているだけだ。あまり鵜呑みにし過ぎるのも良くない。百聞は一見にしかずだ」
「それを貴方が言うの?引き込もってばかりの貴方に言われても説得力がないわ」
リエラは社交場には滅多に姿を現さない。夜会はおろか、お茶会でさえ出席しない。侯爵家という性質上、招待は伯爵令嬢の比ではないはずだが、彼女は滅多に侯爵領を離れない極度の引きこもりである。よく、これで貴族生活が成立しているものだと思う。
不思議なことに、ろくに社交を行わない割りに私以上の情報通である。
「わざわざ出向く必要がないからな。私には既に婚約者がいるから、積極的に結婚相手を探す必要はない。それに、情報はこうして勝手に耳に入ってくるからな」
「ギルバート様は貴方を甘やかし過ぎだと思うの」
「ギルは私にベタぼれだからな」
そう言うと、リエラは文机の上の花瓶に視線を移した。真っ赤な薔薇が一輪、花瓶に活けられている。殺風景な部屋に似つかわしくないそれは恐らく件の婚約者から届けられたものだろう。
リエラの婚約者ギルバート様はギレンホール公爵家の後継ぎであり、リエラを溺愛している。彼女を迎え入れるために屋敷にわざわざ図書室を増築するぐらい彼女を深く愛している。引きこもりの現状も黙認されている。リエラにとっては良き理解者であり、最高の結婚相手と言える。羨ましい限りだ。
「おじ様と、おば様は何も言わないの?」
「とうに諦められている。私が予定通り嫁ぎさえすれば好きにしていいそうだ。そういう君はどうなんだ?」
リエラが本から視線を上げ、私の瞳を覗きこんだ。漆黒の瞳からは何を考えているのか上手く読み取れなくて、どう答えたものか困惑する。
「何もないわ」
「そうか。我が兄のためにも、早く相手が見つかるといいな」
「何でグウェンが関係あるの?」
意味がわからなかった。私が独り身であることが、無関係なグウェンダルにどう関わるというのか。
「なんだ、知らないのか。我が兄に未だ決まった相手がいないのは、君の貰い手がいなかった時に君を引き受ける気だからだ。実際、両親同士は水面下では君と我が兄の婚約を本気で考えはじめているぞ」
てっきり知っていると思ったが、と彼女は付け加えた。
私は大きく目を見開いた。全くの初耳だったし、両親がそんなことを考えているなんて思いもよらなかったのだ。確かに現状を考えれば一番自然な話である。
「そんなの知らない。グウェンは何も言わなかったわ」
「君は自分に向けられる好意には鈍感だな」
「グウェンのは好意じゃないわ、同情よ。それに、私はそんなものは望んでないわ」
グウェンダルは狡い。いつだって意地悪なくせに、最後には優しいのだ。私が自分で好きに選べるように、必ず逃げ場を用意してくれている。泣いていれば茶化しながらも慰めてくれた。
婚約話だって、両親が逃げ場を塞いでしまうことはできたが、私の知らないところで上手く言い含めてくれたのだろう。
「まぁ、あいつは良くも悪くも兄だからな。君のこともほっとけないんだろう。君が望む、望まないに関わらずな」
グウェンダルの優しさを兄だから、という言葉ですべてを片付けて良いものか、と私は複雑な気持ちになった。長い付き合いだからこそ、彼が何だかんだで私をほっとけないのはわかっていた。それに甘えていたのだと思い知らされて、愕然とした。
「その論理でいくと、グウェンは愛人だらけになるわね。世の中には私以外にも結婚相手がいないご令嬢は沢山いるもの」
私はわざと話を逸らした。これ以上、この話を続けたくなかったのだ。
リエラは興味を失ったのだろう。動揺する気持ちを取り繕おうとする私を無言で一瞥した後、この話に触れることはなかった。もう話すことはない、とばかりに読書に集中し始めたので私は家令を呼び、挨拶してレイフォード侯爵邸を後にした。
馬車の窓から遠ざかっていく景色を見ながら、私は気づかなければ良かった、と後悔した。
日が傾きかけた空をおもむろに見れば、隠れるようにして薄く月が浮かんでいた。目に見える物が全てではないのかもしれない、と私は窓辺に頬杖をついて息を吐いた。