32.酒は飲んでも呑まれてはいけないものです
朝目覚めると、頭が鈍器で殴られたようにずきずき痛んだ。身体は反対に火照ってポカポカと暖かかった。
昨夜はいつの間にか眠りに落ちたようだが、記憶が曖昧だ。
やけに現実的な夢を見た。うろ覚えではあるが、誰かの温かな体温にくるまれて、とても安心して良く眠れた。あれはお兄様かお父様だろうか。
ぼんやりする頭で目をごしごし擦ると、見慣れぬ部屋にいた。昨夜は公爵家に泊まったのだという事実を思い出す。
片手に握り締めている物を見て、私の心臓は凍りついた。それは男性物の寝間着の上衣に見える。そんな物がなぜ、ここに…と考えて私の思考は停止した。もしや、あれは夢ではなかったのか。
だとしたら、これの持ち主は上衣だけ残してどこに消えたのか。そもそも、ここは公爵家である。現実だとすると、一緒に寝ていた男性は私の兄や父ではないことは確かだ。
混乱しながら上衣をぎゅっと抱き締め顔を埋めると、見知った良い匂いがした。ティルナード様の匂いである。
ちょっと待とうか、レイチェル。落ち着いて昨夜の記憶を整理しよう。反省するのはそれからだ。
昨夜は寝付けなかった。喉が渇いた私は何か飲み物を飲もうと、部屋に用意してあった飲み物の瓶をグラスに注いで飲み干した。飲んだ後で苦い味がして、アルコールだったことに気づいて後悔したのだ。そう、あれはアルコールだった。
記憶が曖昧だが、自分の部屋のベッドには戻っていない。人恋しくなって扉を開けた部屋で誰かが寝息をたてて寝ていた。その誰かのベッドに入ったような気がする。
思い返せば、あれはティルナード様の部屋で寝ていたのは彼に間違いはないだろう。なぜ、私がここに戻ってきているのか。それは彼が私を元の部屋まで運んできたからだろう。
酒乱には二種類の人間がいる。記憶が飛ぶタイプとばっちり残るタイプだ。残念ながら、私は後者である。
とんでもないことをしてしまった。なんだか叫びたい気分になったが、そういうわけにもいかなかった。
「レイチェル様、昨夜はよくお休みになられましたか?」
私の様子を黙って観察していたマリアが口を開いた。そうだ。私は彼女に起こしてもらったのだった。
「お陰で、よく眠れました。それより、ティルナード様は?」
「朝方、レイチェル様の部屋から出てこられましたが」
私は頭を抱えた。ああ、なんてことだ。これで私が彼のベッドに潜り込んだこと、その後で彼が私の部屋まで私を運んだことが確定した。
「もしかして、私はティルナード様に襲いかかったのかしら?」
「何もなかったと伺っております。ティルナード様によれば抱き合って寝ていて、不可抗力で少し身体を触っただけ、とのことですわ」
それは厳密には何もなかったとは言わない。頭が別の意味で痛くなった。
「ティルナード様より、レイチェル様はなぜかティルナード様の部屋にいらしたと伺いましたが、何か心当たりが?」
「…弱いの」
「はい?」
「家族は知っているのだけど、私はお酒に弱いの。少し口にしただけでも駄目で、酔っぱらって前後不覚になってしまうのよ」
だから、お酒は飲まないようにしている、と私はつけ加えた。
「そういうことでしたか」
マリアが得心がいったとばかりに頷いた。今朝の件は彼女は知っているようだった。
「どうしましょう?ティルナード様に謝らなくては」
「動揺はされていましたが、大丈夫だと思いますよ。後で事情は説明しますわ」
「でも」
「結婚なさったら一緒にお休みになるのですから問題ありませんわ。知らなかったとはいえ、お酒をご用意したこちらにも落ち度があります」
そうなのだろうか。そう言われると、私の考えすぎなような気もしてきた。そのくらい、マリアの言葉には説得力があった。
「さぁ、お仕度なさりませんと」
マリアは私の服を着せ替え、髪を櫛でとかし始めた。
今日の私の装いは可愛らしい薄ピンクの繊細な刺繍の入った生地にバックリボンがついていて、動きに合わせて裾がふわっと広がるものだ。頭に同色のレースのリボンを結ばれながら、私はマリアに前々から思っていた疑問をぶつけてみた。
「最近、バックリボンがついている可愛いドレスが流行っているの?」
「いいえ?レイチェル様のお召し物はほとんどティルナード様のご趣味ですわ」
「ティルナード様は可愛いものがお好きなのかしら?」
私の衣装は可愛らしいもので占められている。大人びたものは童顔な私には似合わないのもあるのだろう。しかし、気のせいでなければパステルカラーのふわふわした可愛いものが多いような気がする。
「いいえ。ティルナード様のお目当ては可愛らしいものというより、それを身につけたレイチェル様ですわ。リボンについては…理由を申し上げないようにティルナード様に厳命されておりますので、申し訳ありません」
鏡の中のマリアが意味ありげに笑った。私は分が悪くなったのを感じて、これ以上の追及を諦めた。




