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19.壁際は落ち着きます

壁の花。それは私のためにあるような言葉である。

私は壁を背にしてグラスに入った赤い液体をぐびっと一口飲んだ。

離れた場所でティルナード様が沢山のご令嬢や貴族の男性に囲まれているのを遠目に見つめる。

一応、先程までは彼に寄り添いながら、彼の仕事関係、知人、友人に挨拶まわりをしていた。「自分のところの娘との縁談を断って、何でこんな娘を選んだのか」という年頃のご令嬢をもつ貴族からの遠回しな厭味や嘲笑、そしてあからさまに聞こえるように言われる陰口でうんざりした私は彼が友人と政治の話をしている隙に彼の傍を離れることにした。

私が隣から離れたことで、遠巻きに見ていたご令嬢がじりじりと間合いを詰めていくのがわかった。彼も彼の友人たちも将来有望である。王弟殿下に見初められるよりは現実的だろう。何より、ライバルはこれといって取り柄のない、悪い噂にまみれたレイチェル=ヴィッツ伯爵令嬢である。傍を離れている隙に仲良くなって、あわよくば横から掠めとろうとする方が堅実だと考えるご令嬢は多い。私達はまだ婚約段階であり、結婚していないのだからティルナード様は立派な独身である。

肉食系の令嬢達のただならぬ空気を遠目に眺めながら、私はグラスにちびちび口をつける。婚約者がいる余裕からではなく、単に疲れたからである。私の表情筋は不馴れな愛想の使いすぎで死滅していた。


ティルナード様は私が傍にいないことに気づいたのか、慌てたように周囲を見回し、探しているようだ。すぐにでもその場を離れたそうにしているが、いかんせん周りが離してくれないようである。人気者は大変だ。

彼の位置からは見えない場所にいるので、そう簡単には見つけられないはずである。

私は私の心の友「壁」とゆったり寄り添いながら、ほっと息をついた。無機物を友とするなど末期である。

私に好奇や悪意の目を向けてくる者はいても、直接話しかけてくる者はいない。正直、ダンスも夜会もお喋りも得意ではないので、ありがたい。

リエラもダリアも婚約者のいる身であり、本日の夜会には出席していない。サフィニア様は王弟殿下が苦手なようで、仮病で欠席である。マリアによれば、王弟殿下はあのサフィニア様を毎回体の良い虫除けに使うそうだ。さしもの彼女も最後まで付き合わされて、誤解を受けるのはうんざりらしい。彼女になかなか相手ができないのはそういう事情があるようだ。

顔見知りのいない夜会でボッチほどつまらないものはないだろう。何もすることはないので、ぼんやりと周囲の人間観察をする。

ティルナード様にぐいぐい近寄り、さりげなくボディータッチするご令嬢は胸元が大胆に開いたドレスを身に付けている。同様なドレスを着たお嬢さん方がダンスに誘って欲しそうに王弟殿下の前をちらちら通りすぎるが、彼は無反応である。あそこまでやると、あざと過ぎて興ざめだろう。

ふ、と自分のドレスを見て、今流行なのはデコルテラインを大胆に出すデザインなのだと納得した。ダンスを踊るご令嬢方の見事な谷間に目をやり、他人のことは言えないが、実にけしからんと思った。まぁ、私のささやかな膨らみのある胸元はけしからんという表現よりはわびしいという表現の方が適切であるが。

男性陣には嬉しい流行だろう。ダンスを踊るご子息は皆、パートナーの胸元に釘付けだ。つり橋効果ではないが、成婚率も上がるのではないかと期待される。

壁際には私と同じような地味めなご令嬢、ご子息がちらほらいて、妙な一体感とともに、ちょっとホッとした。

ティルナード様の周りには小規模な人だかりができつつあり、私とは住む世界が違うのだとしみじみ思う。

ふふふ、と笑いながら壁際の同志達に目をやると、あるご子息にふと目が止まった。ダークブラウンの短髪に翠の瞳の長身のがっしりした体格の彼は顔も整っていた。実際、彼に声をかけたそうにしているご令嬢の視線を感じるが、遠巻きで誰も近寄らないのは彼の鋭い視線と独特な空気にある。そんな彼はティルナード様のいる方向を見ていた。

同じ美形でも敬遠されることもあるのだな、と思いながら眺めていると、ばっちり視線が合ってしまった。

誤魔化すためにとりあえず彼に対してにっこり笑うと、彼はなぜかこちらに寄ってきた。じろじろ見て不快な気分にさせたのだろうかと内心、びくついてしまう。


「失礼。自分はダニエル=ヤーバンと申します。あなたの名前を伺っても?」


武骨な手でいきなり両手をすっぽり握られて、私は戸惑った。確かヤーバンは武門で有名な侯爵の家柄である。ダニエル=ヤーバンはヤーバン侯爵家の跡継ぎで、世のご令嬢には隠れた人気がある。彼がこのような夜会に出席するのは極めて珍しい。


「私はレイチェル=ヴィッツと申します。先程は不躾に見てしまい、申し訳ありませんでした」


私はにっこりと微笑み、非礼を詫びた。

彼は私の名前を聞いて小さく「あの」と呟いた。どのレイチェル=ヴィッツさんか大体わかるところが、痛いところである。


「失礼。他人の噂とは当てにならないものですね。あの有名な噂の主があなたのような方だったとは意外です」


どんな噂なのかは怖くて聞けなかった。

私は視線を手元に下げる。いい加減に手を離してほしい。そして、できればそのまま、全てをなかったことにして、どこかに行ってはくれまいか。

先程から肌にちりちりと、令嬢方からの焼けるような視線を感じているのは気のせいではないと思う。


「ご迷惑でなければ俺と一曲踊って頂けませんか?」


はっきり言って迷惑である。断固拒否したいが、先程の非礼の件もあるので、無下にはできなかった。遠回しに断ることに決める。


「私、ダンスは苦手でして」


「俺もです。恥ずかしながら、こういう場自体、不馴れでして。どうしたものかと困っていたんです」


「そのお気持ち、よくわかります。私もこういう華やかな場では浮いてしまうので」


しおらしく言う彼に、うっかり共感してしまったのがまずかった。「では不馴れな者同士、踊りましょう」と広間の真ん中に半ば強引に手を引かれていく。

諦めて、私は彼の手をとりダンスを踊ることにした。

曲に合わせてステップを踏むと、ダニエルは冗談抜きで本当にダンスが下手だった。比較対象がティルナード様だから仕方ないのかもしれないが、何度か足を踏まれそうになり、回避する。体格の良い彼に足を踏まれれば大惨事なので、必死だ。

余談だが、私は公爵夫人教育の一環で定期的にダンスのレッスンを受けており、お披露目の日と比べれば、少しはまともにステップが踏めるようになっていた。

不恰好ながらも必死で踊るダニエルに親近感を覚えて、私がふわりと笑うと、彼は顔を真っ赤にしてこちらを見てきた。彼が何かを呟いたように思うが、私には聞き取れなかった。

ターンすると、腰のバックリボンがふわりと揺れた。腰のリボンはダンスをする時、見栄えを良くするためのものだったのだと納得する。

一曲目が終わり、私がダニエルから離れようとしたが、彼は手を離そうとしなかった。「二曲目もぜひ」と言われ、私は戸惑った。

二曲目を踊るということは意中の間柄にある、ということである。社交に不慣れでも、彼もそのくらいの作法は知っていそうなものだし、私は婚約者のいる身である。だから、断ろうと口を開いたが、彼は私の手をとったまま離さなかった。私が困惑してもたついている内に、二曲目が始まった。

周りがざわついたのがわかった。広間の中心は非常に目立つのだ。

私は一曲目と違い、嫌な汗を背中にかきながら、二曲目を踊りきった。

曲が終わった後、私は礼をとり離れようとするが、「三曲目も良かったら」とダニエルは離してくれなかった。非常にまずいと思ったが、後悔してもすべては後の祭りである。

何とか断ろうと口を開くと、ふいに体が浮遊感に包まれて、視界が真っ暗になった。掴まれていた手が離れたのがわかる。誰かに抱き寄せられたのだと漸く頭が理解した。嗅ぎなれた匂いにほっとして力を抜き、見上げれば、そこにはティルナード様の顔があった。


「失礼しました。俺の婚約者に何かご用ですか?」


声が非常に冷たく、明らかに不機嫌なのがわかった。彼の体温を間近に感じて暖かいはずなのに、寒い。

私はティルナード様から離れようとするが、彼は更に腕の締め付けを強くした。彼の胸板をぐいぐい押したが、離してくれそうにない。


「婚約者?」


「申し遅れました。俺はティルナード=ヴァレンティノです。こちらのレイチェルは俺の婚約者です」


「婚約者がいらしたとは存じ上げず、無作法をお許し下さい。俺はダニエル=ヤーバンと申します」


二人の間に剣呑な空気が漂った。

ダニエルは無言でティルナード様を睨んでいるようで、視線が痛い。「ようで」というのは私はティルナード様に抱き寄せられたままなので、ダニエルの顔が見えないのだ。


「こちらこそ、俺の婚約者がお世話になったようで、感謝します」


ティルナード様は先程から牽制するように「婚約者」の部分を強調している。


「いえいえ。おかげで楽しい時間を過ごさせていただきましたよ。しかし、あなたも罪な人だ。俺なら婚約者に寂しい思いなんてさせませんけどね」


ダニエルに言外に責められ、ティルナード様の顔が凍りついた。

ティルナード様は悪くない。私は自発的に彼の傍を離れたわけであり、寂しい思いはしていない。

全ての元凶はダニエルに流され、上手く断れないままにセカンドダンスをうっかり踊ってしまった私にある。謝って許してもらえるのであれば、いくらでも謝るから本人をそっちのけで無駄に火花を散らすのはやめてほしい。

ティルナード様が怒っているのが伝わってくる。私の軽はずみな行動が原因で大事になるのは本意ではなかった。


「ティ…ティルナード様?あの、ダニエル様は一人でいた私のお相手をして下さっただけなのです」


私はティルナード様の服を引っ張り、彼を見上げて、目だけで「頼むから大事にしないでくれ」と懇願した。

彼は少し冷静さを取り戻したようで、さっと周りに視線をやった。険しい表情を押し込め、柔らかく微笑んで、片手で私の髪を優しく撫でた後、私の額に唇を落とした。

周囲から悲鳴が上がる。

何をされたか理解して、私は耳まで赤くなった。私が口をぱくぱくさせている内に彼はわざとらしく砕けた口調で言った。


「レイチェル、いい加減機嫌を直してくれないか?君を一人にしたことは悪かったと思っているんだ。だから、いい加減に俺の腕の中に帰っておいで」


甘い声で耳元で囁かれて、体の力が抜ける。

一触即発だった空気が一気に弛緩した。「なんだ、ただの痴話喧嘩か」という声が聞こえる。先程の騒ぎは私がティルナード様に焼きもちを焼かせるためにとった行動だ、と群衆には判断されたようだ。関心を削がれたように、好奇の目は分散した。

ダニエルはそれ以上は何も言ってこなかった。


「お騒がせして申し訳ありませんでした。俺たちはこれで失礼します。さ、行こうか。レイチェル?」


周囲に向かって微笑むと、王弟殿下にその場を辞する挨拶をして、彼は腰が抜けてしまった私を横抱きにして、会場を後にした。

会場を出た彼は再び無表情に戻っていた。「重いし、歩けるので下ろして下さい」と懇願したが、聞き入れてはもらえず、そのまま無言で馬車に乗せられた。

私の軽率な行動は彼と彼の家に泥を塗る行為だ。更には、彼を深く傷つけてしまったのだと漸く気づいた。後悔しても、もう遅い。私は青ざめた。

隣に腰を下ろした彼は何かを堪えるように唇をきゅっと噛みしめ、そのまま私に背を向けて座り、私を見ようとはしなかった。

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