2.ヒーローは遅れてやってくるものです
ヒーローは遅れてやってくるものである。ヒロインが窮地に立たされている時、或いは絶望にうちひしがれている時に駆けつけ、優しく慰めなければ、物語は盛り上がらない。
「大丈夫ですか?」
どの位、柱にもたれかかって黄昏れていただろうか。ふ、と意識を戻せば、目の前に長身の、白い近衛兵の制服を身に纏ったプラチナブロンドの美形が心配そうに立っていた。サファイアブルーの瞳を長い睫毛が縁取っている。
彼は私に手を差し伸べてくるが、私は手をとるのも忘れて、暫し、ぼんやりと見とれた。
「立てますか?」
彼はそう言うと私の手を取り、ぐっと引っ張り起こした。細身なのに意外に力があるのだと感心しながら、彼をまじまじと無言で観察する。不躾だとは思うが、こんな機会は滅多にないのだから勿体ない。
ティルナード=ヴァレンティノ公爵子息は近衛騎士にして、ご令嬢方の憧れであり、結婚したい男ナンバーツーである。え?なぜ、二番目かって?彼と結婚すれば漏れなく小姑サフィニア様がついてくるからだ。彼はサフィニア様のお兄様なのである。
私は楽しいので大歓迎だが、一般的な夢見るご令嬢は甘い結婚生活にお邪魔虫はいない方が良いに違いない。家族になれば、全くお付き合いしないわけにはいかないので、辛いところだ。だが、それでも、というご令嬢が後を立たないのも彼の魅力の成せる業であろう。
「妹がご迷惑をおかけしたようで、申し訳ありません」
彼は私の手をとったまま、謝罪した。私は目を丸くする。
普通のご令嬢ならぽーっと見とれてスルーするところだ。彼自身、気づいているかはわからないが、今の発言は一部始終見ていて何もしなかった、という意味にとれる。実は性格が屈折しているとか、妹に頭が上がらない腰抜けだというあの噂は本当なのか。
うん、困った。ここで素直にお礼を言うべきなのはわかっているが、敢えて怒らせて反応を見たくなってきた。
頭の中でもう一人の黒レイチェルが「それでは面白くないわ」と囁くから厄介だ。私は葛藤した末…。
「一部始終ご覧になっていらっしゃったというのに、サフィニア様に似て性格が悪いこと」
つん、と顔を逸らした。結局、誘惑に負けた。我ながら感じが悪いし、相当な悪印象を与えたに違いない。心証は悪くなるかもしれないが、面識がないだろうし問題ない。元々この顔面のせいで好感度はないに等しいし、彼に嫌われたところで支障はない。それに公爵家はたかが小娘の嫌味程度で伯爵家を潰しにくるほど狭量ではないはずだ。
彼は唖然とした顔をして、私の手を放した。
暫く私達は無言で見つめあった後、彼は唐突に身体をくの字に曲げて笑い始めた。怒らせようとしたのに、笑いのツボを刺激してしまったようだ。何を間違えたかわからないが、もやもやした気持ちになる。今日は笑われてばかりだ。
「…何がおかしいのです?」
思わずぶすっとした顔で彼に問いかける。私も大概失礼だが、彼も十分失礼だと思う。
「レイチェル?」
「アンドレ?」
私がいつまでも戻ってこないのを不審に思ったのだろう。グウェンダルが探しに来たようだ。どことなく、礼服がよれて、顔が疲れているのは気のせいだろう。
「だから、アンドレじゃなくグウェンダルだと何度言えば…。それで、君はどこまで花を摘みに行っていたのかな?」
彼はこめかみを押さえながら疲れた顔で言った。
私が広間を出て、小一時間は経っているだろう。随分長いトイレである。
そのやり取りを聞いていたティルナード様は更に爆笑した。どうやらツボにはまったらしい。お気に召されたようで何よりだ。もう何も言うまい。
「…こちらは?」
グウェンダルが漸く爆笑するティルナード様に気付いて、私に尋ねた。遅い、遅すぎる。これだけ近くで派手に笑っているのだから、もっと早く気づけよ。
私は何と紹介したものか、考えあぐねた。行きずりの全くの他人であり、紹介するほどの関係性はまだない。
「…失礼。紹介が遅れてすみません。私はティルナード=ヴァレンティノと申します。うちの妹がそちらのご令嬢にご迷惑をおかけしたようで、その謝罪を」
していたはずが爆笑したんですよね、と私は心の中で彼の言葉の続きを補完して突っ込みを入れた。
グウェンダルは胡乱な目で私を見つめた後、彼に向き直った。まるで、犯罪者を見るような目だったが、私はまだ何もしていない。少々嫌味を言っただけで、無実である。
「こちらこそ、従妹がご迷惑をおかけしたようで…。グウェンダル=レイフォードです。こちらは従妹のレイチェル=ヴィッツです。従妹は何分、本日が夜会デビューでして、不慣れな上、少々はしゃぎすぎたようです。何卒お目こぼしいただければ幸いです」
グウェンダルが私の代わりに頭を下げた。はしゃぎすぎたとは心外であるが、私も彼に倣って頭を下げる。失礼な態度をとったことは事実だから一応形だけでも謝っておこう。
「いえいえ。貴女があのルーカス殿の妹さんでしたか。いつもお世話になっています。夜会はお楽しみ頂けましたか?」
「はい。大変興味深かったです」
自然と口許が緩んだ。
国王ご夫妻と元ご令嬢の確執から始まり、公爵令嬢とドレスが被ると絡まれること、公爵子息は変わり者であることなど、収穫は大きかったように思う。
「興味深かった?」
怪訝そうにティルナード様は首を傾げた。
おっと、口が滑ってしまった。グウェンダルが睨んでくるが、気にしないったら気にしない。
「お仕事のお邪魔をして申し訳ありませんでした。従妹がお世話になりました。私達はこれで失礼します。ほら」
「ティルナード様、ありがとうございました。ごきげんよう」
グウェンダルはティルナード様に一礼して、私の腰に手を回すとぐいぐい、押した。顔は笑っているが、目が笑っていない。「ボロが出ない内にさっさとずらかるぞ」と顔に書いている。
彼の判断は正解だ。グウェンダルは私の兄ルーカスに夜会デビューのエスコートを頼まれている。その中には私が問題を起こさないように監視するというのも含まれているのだ。そして、どうも兄とティルナード様は知り合いらしい。兄を怒らせると、とっても怖い。
令嬢のメッキが剥がれる前に私達は夜会を後にすることにした。
帰りの馬車の中でさんざん、グウェンダルに私がいなくなってからご令嬢に囲まれて大変だったことを愚痴られたが、私の知ったことではない。
「レイチェルとはもう夜会に行きたくない」
夜会でこんなに気を揉んだのは初めてだ、とグウェンダルが隣でぶつぶつ呟いている。
あら、失礼しちゃう。私の方こそ、頼まれたって願い下げだ。私はくるくると巻いた髪を弄びながら、頬を膨らますのだった。