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15.身にあまる幸せは怖いものです

人間は欲深い生き物である。慣れは特に怖い。ある状況に慣れてしまい、それが得られなくなった途端、不満に思ってしまうのだ。それが身にあまるものであっても。だから、欲望に支配されては駄目だ。期待が裏切られた時の落胆は大きい。だけど、自分の感情はどうにも御しにくいもので…。


私はクローゼットの中身を確認して、ため息をついた。

婚約お披露目パーティーが済んで、正式に婚約者となったティルナード様は、定期的にヴィッツ伯爵邸に通ってくる。仕事終わりだったり、休日だったりと忙しい合間を縫って私の顔を見に来るのだ。

私の悩みはクローゼットの中身にある。今までは他人と会う機会が少なかったので、数着の普段着で事足りた。一番機会が多い領地の視察には、動きやすさを重視した、可愛いげのない服を着る。だからというわけではないが、私のクローゼットは簡素な服で占められている。これが私の今の悩みである。

ティルナード様とは会ってお話をするだけ、外出をするわけではない。だから、別に問題はない。

婚約お披露目の夜、彼が私に言った言葉は社交辞令だとわかっているし、彼が私の元に通うのも、婚約者の義務としてだと理解している、

だが、それでも彼と会う日は愚かにも期待して、心が浮かれてしまう。こんなことなら、もう少し可愛い服も用意しておくのだったと後悔するのだ。


「レイチェル様、お仕度、お手伝いいたします」


そう言うと、マリアは私の顔に軽く化粧をし、髪を編み込んでくれた。簡素なワンピース姿も何となく様になって、私は心の中で「おぉっ」と歓声をあげた。

私が感心していると、ノック音が響き、ジェームスがティルナード様の来訪を告げた。

ティルナード様はサロンに入ってくると、手に持っていた可愛いブーケをジェームスに預けた。それから、先に待っていた私を見つけて、微笑んだ。

私達は三人がけのソファーに向かい合うようにして座り、他愛の話をする。紅茶と茶請けに私が作ったクッキーを出して、二人で摘まんだ。私が作ったと言うと、彼は「美味しい」と言って、あっという間に全部平らげてしまった。

彼と何度か話してみて、意外にも私達は趣味が合うことがわかった。彼との時間はそんなに苦ではなく、最近はむしろ、楽しいと思えるようになった。私は口下手な方なので、会話が途切れてしまうことがあるが、不思議と気まずくなることはなかった。


「レイチェルは今日は何をして過ごしていたんですか?」


彼は私を「レイチェル」と呼ぶようになった。まだ彼にそう呼ばれるのは慣れなくて、くすぐったい。正式に婚約したのだから、と彼も自分を「ティル」と呼んで良い、と言ったが、私にはまだ勇気がでない。


「今日は庭を散歩しました。あとは本を読んでいました」


「どんな本を?」


「マリエ=ネーベの夜の恋人達です。私は昔から彼の小説の大ファンなんです」


マリエ=ネーベは我が国の人気恋愛小説家だ。絵本から小説まで幅広く手掛けている彼の著作は幅広い年代の女性に支持されている。


「ああ。マリエ=ネーベの小説は恋愛以外にもテーマがあって奥が深いですよね」


「ティルナード様もマリエ=ネーベを読むのですか?意外です」


「昔、知人に勧められたんですよ。読んでみてハマりました。男が恋愛小説を読むのはおかしいですか?」


「そんなことありません」


「寧ろ、好感をもてる」と私は食いぎみに言った。確かにそういうものを好まず読まない男性は多い。兄ルーカスも例外ではない。

そこで会話がぷつりと途切れる。こういう時、彼は退屈していないだろうか、と心配になる。私は何とか、彼に話題をふろうと口を動かすが、結局途中でやめてしまう。

彼はそんな私の内心を見透かしているようだった。


「マリエ=ネーベの著作は夜の恋人達もいいけど、俺はナイトメアの方が好きですね」


「夜の恋人達」は幼馴染みだった男女が協力して数々の苦難を乗り越え、最終的には結ばれるという話だ。「ナイトメア」は我が国のお嬢様方なら知らない者はいない程有名な童話絵本である。

お姫様はある日、夢の中で人の夢を喰らう夢魔に出会い恋をして、夢から醒めなくなる。そこに王子様が颯爽と夢の中に駆けつけてお姫様を救出し、最後に二人は夢から抜け出し、結ばれるという、砂糖菓子のように甘い話だ。

幼い時分に、私も何度も読んだものだ。


「ナイトメアも素敵な話ですよね。私はあのお話に出てくる夢魔が好きです」


「奇遇ですね。俺も好きです」


私はティルナード様の「好き」という言葉に反応して、どきりとしてしまう。そんな自分に呆れてしまう。

彼との時間は楽しい。それは彼が私を大事にしてくれているからだと思う。

彼が私に優しく接してくれるのは一応は婚約者だからだ。その事は弁えているつもりだ。そうでなければ一緒に過ごすことも叶わない相手である。彼が私を婚約者にしたのだって、きっとルーカスの妹というところが大きいに違いない。

わかっているはずなのに、物足りなく思ってしまう自分が恥ずかしくも、浅ましい。テーブルを隔てて座る距離がもどかしかく彼に触れたい、と思う私は多分彼に恋をしているのだと気づいた。

もう恋はしないと決めていたのに、気づいたら手遅れだった。触れられれば落ち着かなくなるくせに、触れられなくなると寂しいと思う私は重症だと思う。


そんな風に思案に耽っていると、妙に静かなことに気づいた。目線を戻すと、ティルナード様はソファーの肘掛けにもたれて、いつの間にか寝息を立てていた。


「そういえば、まだ例の事件の事後処理で大変だとお兄様が言っていたわ」


先日の宰相の失脚による混乱は未だ大きく、兄ルーカスも忙しそうにしていた。そんな中で両家の顔合わせ、婚約お披露目に、婚約者の顔色伺いにと、結構無理をしていたのかもしれない。

舟を漕ぐ彼が何度かバランスを崩しそうになって、私はあっと声を漏らした。

疲れているなら、寝かせてあげたいと思う。


「枕になりそうなものは…ないわね」


無理な姿勢で寝ると首が痛くなる。そう思いながら私は彼の隣に移動して、彼の身体をそっと私の方に倒して、彼の頭をこてんと私の膝の上に乗せた。ないよりはましだろう。

自分の肩に掛けていたガウンを彼の身体にかける。膝の上で「ん」と声を漏らし、彼がもぞりと身動ぎしたのがくすぐったかった。

彼の頭を膝に乗せてから、私はそうする必要がなかったことに気づいた。冷静に考えれば、侍女を呼んで枕になりそうなものを取って来てもらえば事足りた話だ。

なぜ、私はそうしなかったのか。多分、全部口実だ。私は彼に触れる理由が欲しかったんだと思う。

あどけなく眠る彼はいつもより幼く見えた。少し窮屈そうだったので襟元のボタンを二つ緩めてやると、隙間から鎖骨が覗いて、私はごくりと唾を呑んだ。鼻血が出そうになった私はやはり変態だと思う。

そっと手を伸ばして、彼の髪を触る。柔らかい滑らかな手触りが気持ち良くて、私が暫くその感触を楽しんでいると、彼の口の端がへにゃりと緩んだ。私は血走った目で彼を思わず見つめ、心の中で身悶えする。

それから、どのくらいの時間が経っただろうか。私がティルナード様の寝顔に見とれて無為に時間を過ごす内に気づけば、日が傾き、西日が差し込んでいた。


「何をやってるんだ?」


私達以外に誰もいなかったサロンに冷ややかな、呆れたような声が響き、私はサロンの入り口を振り返った。

鬼い様が複雑な表情で立っていた。後ろには家令ジェームスが額の冷や汗を拭っている。

膝の上でもぞりと動く気配を感じて見下ろすと、寝ぼけ眼のティルナード様と視線があった。彼は大きく目を見開いた後、勢いよく飛び起きた。私の額と彼の額がぶつかり、息がかかるほど、唇が近づいて、更に彼は動揺したのか、顔を赤くしながら慌てて私から離れようとして、今度はソファーからずり落ちた。

目が覚めれば、至近距離で目を血走らせた女がハァハァしていたのだから、びっくりして身の危険を感じたに違いない。出来心とはいえ、悪いことをしてしまったな、と痛みを訴える額を押さえて思った。


「何をやってるんだ?お前達は」


ルーカスはそんな私達をジト目で見ながら、もう一度言った。


「お兄様こそ、どうしてこちらに?」


私は赤くなった額を擦りながら、ルーカスの方を見て言った。


「ジェームスがな。サロンにお前達が入ったっきり、かなりの時間が経つが出てこない、と。中から話し声も聞こえないから何かあったんじゃないかと心配して俺に相談に来たんだよ」


私はルーカスの言葉に首を捻った。我が家で危険に遭遇する可能性は低いというのに、何を心配することがあるというのか。

兄は私の頭からつま先までを眺めて、何故か満足げに頷いた。


「とりあえず何かあったわけでなく、無事なようで安心した」


ティルナード様が打ちつけた後頭部を押さえながら、むくりと起き上がった。


「何もしないさ。そんなに俺は信用ないのか」


「過去の反省から無理強いはしないだろうとは思うが、それでも、安心はしていない。拒まれて無理矢理ことに及ぶ、なんてこともあるだろう、くらいには危険だと考えている」


先程から彼らが何を言っているかがわからず、話についていけない。どうもティルナード様が私に危害を加える云々の話のようだが、そんなことをしても彼に得があるようには思えない。


「人聞きが悪いな。俺は嫌われるようなことは絶対にしないし、一定の節度は保っているつもりだ。大体、そんなことをすれば、お前は許さないだろう?」


「ああ。絶対に許さないね」


ルーカスが凄みのある表情を浮かべた。ぶるりと私は身震いした。


「あの、先程からお二人の話が見えないのですが、お兄様はティルナード様が私に何をすることを心配しているのですか?」


「あー。レイチェル、お前は知らなくて良い。それより、何でティルを膝枕してたんだ?」


私はティルナード様が転た寝したために彼を膝枕したことをルーカスに話した。隣で聞いていたティルナード様の耳がなぜか赤く染まった。


「なるほどな。でも、珍しいな。ティルは人の気配に敏感なはずだが?特に女の気配にはな」


「よほどお疲れだったのでしょう」


他には影が薄いか、或いは私が女性と認識されていないか、である。その場合は激しく抗議したい。しかし、なぜ女性の気配には敏感なのだろう、という私の疑問を察知したように兄は「ティルは昔からもてるから大変なんだよ」と言った。


「しかし、勿体ないことをしたな」


ティルナード様が残念そうに言った。

外を見れば、日がとっぷりと暮れて、夜になろうとしていた。


「そうですね。もっと早くに起こして差し上げれば良かったですね」


「そういう意味ではないんですが…」


私の言葉にティルナード様は苦笑いした。私には彼がよく掴めない。




ティルナード様が帰った後、私は兄に呼び出された。


「ティルとはうまくやっているのか?」


「今日は私が読んでいる小説の話をしました」


「ああ。マリエ=ネーベか」


ルーカスが迷いなく口にした作家名を耳にして、私は驚いた。兄は仕事に必要な物を除けば、娯楽小説には興味はなく、全く読まない。サロンに最初からいて、会話を聞いていたのでなければ知り得ないことだ。


「そんなに驚くな。あいつが仕事の合間に読んでいたから覚えていただけだ。珍しいと思ったから記憶に残っていた」


「何が珍しいんですか?」


「元々あいつはそういう物を読む奴ではなかったからな。あれで顔に似合わず遠乗りとか、武芸、荒事の方を好むし、ある一点を除けば合理的で無駄のない奴だ。本なら政治や経済ぐらいしか興味を示さなかった奴がある日、百八十度方向転換したように恋愛小説を仕事の合間に読むようになったのだから、驚いたよ」


兄の言っていることは正しいのだろう。話してみてわかったが、ティルナード様は頭の回転が早い。不器用な私とは違い、器用で合理的だ。私が時間をかけて悩む問題も、彼なら瞬時に正しい解答を導き出すだろう。無駄を嫌い、合理的というのも、実に彼らしいと思う。

そんな彼が大衆小説を読むと聞いて、私は驚きつつ、嬉しくなったのだった。私に合わせているのかと思ったが、彼の話はとても詳しく、読んでいないと語れないものだった。


「私も意外に思いました」


「恋は他人を変えるというが、本当に変わったな」


「なるほど。ティルナード様が恋した相手がマリエ=ネーベのファンだったんですね」


私はずきん、と胸の奥が痛んだ。やはり、彼も想いを寄せる相手がいるのだ。そう思うと、胸を灼けつくような痛みで焦がされた。この感情は嫉妬だ。私は彼を変えた誰かに醜くも、嫉妬している。

駄目じゃないの、レイチェル。もう恋なんてしないと決めたはずなのに。


「変われば変わるもんだな。そういえば、茶請けの菓子もあいつが食べたのか?」


「えぇ」


「そうか。あいつは甘い物が苦手なはずだが、食べたのか」


「美味しい、と完食されましたよ。そんな話、ティルナード様から伺ってません」


つまり、私は彼の苦手なものを茶請けに出し、それを強要したのか。手作りなら、断りにくかっただろう。しかも、彼の興味のない話題を振り、盛り上がった。楽しかったのは私だけで、そうとは知らずに私は彼に接待を受けていたのか。


「本当によく、わからない人」


「あいつほどわかりやすい奴もいないがな」


私の独り言に、ルーカスはなぜか、からからと笑い、「レイチェルが嫌な思いをしなかったなら良い」と言った。

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