13.恋愛など一時の気の迷いに過ぎません
私は目の前にいる人物にどう対応したものかと戸惑っていた。
「レイチェル様、はじめまして。本日付けであなた様のお世話をさせて頂くことになりましたマリア=ウォルトと申します。どうぞ、お見知りおきを」
そう言うと、彼女は恭しく一礼した。品のあるメイド服を着こんだ彼女は以前、サフィニア様と一緒にヴィッツ伯爵家にやって来た美人さんである。
そんな彼女は私にはない物を沢山持っていた。美貌に身長に、侍女服の上からもわかる程の豊満な我が儘バディーである。別に羨ましくなんてない。
「あの、そう言われても困ります。うちにも侍女がおりますし」
間に合ってます、と私は気弱に笑った。そもそも、まだ嫁いでもいないのに嫁ぎ先の侍女に世話をされる謂れはない。
「こちらも公爵夫人とサフィニア様のご命令でして引くわけには参りません。それに、私はレイチェル様のお役に立てるかと思いますよ?」
丁重にお引き取り願おうと思ったが、事なかれ主義の両親は首を縦にふらなかったので、マリアは私付きの侍女としてヴィッツ伯爵家に迎え入れられることになった。権力におもねるのも、人の世の常か。
給金の出所はヴァレンティノ公爵家なので、我が家の財布が痛むわけでははい。
まぁ、別段困ることもないだろう、と鷹をくくっていたあの頃の私を今は心底、殴りたい。
私は今、マリアと大広間にいた。広間の隅っこには気まぐれで偶然伯爵家に遊びに来ていたリエラが座っており、読書をしていた。
「マリア、私はダンスは苦手なのだけど?」
私は無表情で彼女に言った。この私にダンスを踊れ、なんて笑えない冗談である。実際、マリアは一ミリも笑ってないので、冗談ではないのだろう。
「お言葉を返すようですが、レイチェル様。ダンスは貴婦人の嗜みですよ?」
私はマリアの正論にダメージを受けた。
そんな私達のやり取りを面白そうに隅っこで見ていたリエラは本を脇に置いて、ははっと笑った。
「婚約のお披露目ではファーストダンスは主役の二人が踊るのが決まりだものな」
「リエラ、どういうこと?」
「何だ、君は知らなかったのか?我が国では婚約した二人は大々的にお披露目をするのが主流だぞ?お披露目パーティーのホストとして、初めての共同作業として行うのがダンスだよ。私もギルと踊ったものだ」
余程愉快なのか、それとも機嫌が良いのか、恐らくは両方だろう。今日のリエラは饒舌で意地悪だ。私がダンスを不得手と知っているのが大きい。わざわざついてきたのだって、私の無様な姿を鑑賞するためだ。私は人前で滅多にダンスを踊らない。
「リエラの婚約のお披露目なんて、何年も前の話じゃない。あなたが十歳で、確か…ギルバート様が六歳だったかしら?」
子供のダンスほど微笑ましいものはない。大人がやれば失笑されるようなミスも子供がやれば可愛らしい、で済むから不思議である。世の中はどこまでも不平等だと思う。
少なくとも、十六歳にして、人前で再びダンスを踊る日が来ようとは思わなかった。しかも、相手は公爵子息のティルナード様だから衆目を集めるのは必然だろう。
「公爵夫人ともなれば、夜会の度に申し込まれるだろうな」
葛藤する私に、リエラが追い討ちをかけるようにして止めをさした。他人事だと思っているにしても、酷すぎる。
「いやぁぁー!」
私は頭を抱えながら、悲鳴を上げた。お飾りのはずなのに、いや、お飾りだからこそ、努めなければならない責務を考えると、胃がキリキリ痛む。心労で頭が禿げそうだ。
こんなものが欲しいと言ったルイスの気持ちがわからない。喜んで譲って差し上げたいところだが、生憎と彼女はもう人妻だった。流石に少しは落ち着いた頃だろうと信じたいし、カイルのためにも、そうあってほしいと切実に思う。
「レイチェル様、本番で恥をかかないためにはひたすらに練習あるのみです。私が男性パートを踊るので、合わせて下さい」
マリアの無慈悲な宣告に、私は抵抗するのをやめた。仮にこの縁談が破談になったとしても、貴族である限りはどこかで踊る機会が必ず発生するのだ。だとしたら、今のうちに、不得手を改善する手解きを受けるのも悪くはあるまい、と前向きに考えることにする。
私はマリアに向き合い、一礼した。彼女と手を取り合う。身長差は丁度良いくらいだった。マリアのリードで身体を動かす。マリアはリードが上手い。美人メイドは何をやらせても有能だなんて、やっぱり世の中は不平等である。
「レイチェル様、筋は悪くないのですが…」
マリアはそこで言葉を濁した。筋は悪くないと言われたのは初めてで嬉しい。私が頬を緩ませていると、リエラが馬鹿にしたように笑った。私が踊ったのは子供用の基本的なステップである。それでも、全く踊れなかったのだから、少しぐらい調子に乗っても良いではないか。
「なんというか、硬いです」
さんざん持ち上げておいて、マリアは最後に私を落とした。私はがっくりと肩を落とす。
「先程も申し上げましたが、筋は悪くないのです。ただ、硬いのです。緊張なさっていると申しますか…」
マリアは眉を寄せた。何が原因か考えているようだが、検討がつかないらしい。
「君はさんざん馬鹿にされていたからな」
リエラは思い出したようにそう言うと、立ち上がって私達の方にやって来た。彼女はマリアに向かって一礼して、彼女の手をおもむろにとった。
「見ていろ。ダンスとはこうするものだ」
リエラはマリアをリードしつつ、軽快にステップを踏んだ。彼女が踊ったのは男性パートである。
何故、そんなに男性パートを上手に踊れるのか不思議に思うが、リエラのことだから、面白半分でちょくちょく婚約者のギルバートとパートを交換していたのだろう。
「さて、私が何回失敗したかわかったかな?」
リエラは躍り終わった後、私の方に向き直って聞いてきた。失敗なんて、あっただろうか。少なくとも、自信満々に踊るリエラが失敗したようには見えなかった。
私は首を左右にふった。そんな私を見て、彼女は満足げに「四回だ」と言った。
「自信をもってさえいれば、案外わからないものだよ。失敗したかどうか気づくのはパートナーぐらいだ。君の場合は練習相手が悪かっただけだ」
私の練習相手はグウェンダルだった。彼は私の失敗をさんざん、からかった。私がダンスに苦手意識を持ち、緊張するようになったのはリエラの言うように彼が原因かもしれない。
「肩の力を抜いて相手に任せればいいさ。余程、相手が下手くそでない限りは上手にリードしてくれるだろう。親愛なる兄上には黙っているように言われたが、昔の彼は実はダンスが苦手だったんだ」
つまり、私は下手くそに下手くそと馬鹿にされていたわけか。色々と釈然としなかったが、マリアはなぜか納得していた。
「なるほど。レイチェル様のダンス下手の元凶はグウェンダル=レイフォード様でしたか」
「自分が下手くそなくせに、他人のことを馬鹿にするなんて、グウェンは本当に性格悪いわね」
「それに関しては責任の一端は感じている。我が兄はあれで歪んでいるからな。だが、君の相手がティルナード=ヴァレンティノ公爵子息なら大丈夫だろう?夜会で何度かハーレー侯爵令嬢と踊るところを見たが、なかなかのものだった。基本ステップが踏めれば問題ないんじゃないか?」
「そうですね。私もかなり悲惨なものを想像しておりましたが、この分なら何とか間に合うかと」
「何に間に合うの?」
なんだか、物凄く嫌な予感がした。
「明日の婚約お披露目パーティーです」
マリアは表情を変えずに言った。私は話についていけず、頭がくらくらした。
「あ…明日ですって!?聞いていないわ」
「レイチェル様にはサプライズにしましょう、と奥様が。伯爵夫妻もぎりぎりまで黙っておくように仰せでしたので、申し訳ございません」
「賢明な判断だな。予め知っていたら、君はお披露目自体を渋っただろう。君に甘いルーカスあたりを上手く丸め込んで回避したに違いない」
リエラは目を細めて、気まぐれな猫のように欠伸をした。私はリエラの言葉を否定できなかった。
両親は完全に私の行動パターンを呼んでいて、先手を打っていた。既にお披露目の招待状は各家に届けられているはずだ。なかったことにはできない。
「さてさて。今逃げれば、君の婚約者は婚約お披露目パーティーに一人で出席して、一人でエアーダンスを踊ることになるわけだが」
そんなことができるわけがない。お披露目当日に婚約者に逃げられた、など良い笑い者だ。ヴィッツ伯爵家のみならず、公爵家の顔に泥を塗ることになる。しかし、だ。
「基本ステップさえ覚束ないのに」
「レイチェル様、基本ステップさえ踏めれば大概のダンスは形になります」
マリアが静かにぐっと親指を立てた。
確かに形にはなるだろうが、社交界デビューを既に終えた男女の婚約お披露目で子供用の基本ステップを踏むというのは格好が悪すぎではないか。しかも、相手はダンスの名手とされるティルナード様である。
「なぁに。気にすることはない。こういうのは形が大事なんだ。子供用のステップだろうが、要は婚約した男女が踊って周囲にそれを知らしめることに意義がある。良からぬことを考えたり、横槍を入れたりしないようにな」
「横槍が入ることがあるの?」
「貴族間の婚姻は利害が絡むからな。家同士で婚約を結んでいても、周囲に認知されていないと思わぬ横槍が入ることがあるんだよ。実際、それで婚約解消に至ったケースも過去にはあるらしい」
「ふぅん」
私がそういうものか、と納得していると、家令のジェームスが広間に入ってきて、来客を告げた。「ルジェ」のマダム、リーリエが明日の夜会用のドレスを持ってきたという知らせだった。サフィニア様には先に連絡があったようで、わざわざこのために我が家に足を運び、既に私の私室で待っているらしい。
先触れはなかったように思うが…とジェームスを問い詰めれば、ダンスに励む私を気遣い、両親が先触れを受け取ったのだと言う。それでは先触れの意味がないじゃないかと私は激しく抗議したい。
その話を聞き、私は即効で広間から逃げようとしたが、案の定、私の行動は先読みされて、リエラに首根っこをひっつかまえられた。
「往生際が悪いぞ、レイチェル」
「だって、着なくても似合わないことぐらい、わかってるもの」
「着てもいないのにわかるものか」
「わかるのよ」
はぁ、と私は深く溜め息をついた。私は重い足取りでサフィニア様達の待つ私室に向かう。
自室に入ると、サフィニア様は私の部屋の三人掛けの長椅子に座って読書中だった。退屈しのぎに私の書棚から適当に手に取ったらしき恋愛小説をいたくお気に召されたようだ。目元に涙を浮かべて、私達の気配に気づきもしない。
マダム、リーリエは私達に気づき、微笑んだ。心なしか頬が赤いように見えるのは気のせいだろうか。
「今回は特に自信作ですのよ!」
彼女は鼻息を荒く、私の手を握りながら興奮混じりに言った。にじりよられて、私は後ろに後ずさる。
部屋が騒がしいのに気づいたのか、サフィニア様が本を閉じた。「後でお貸しなさい」と私に言った後、彼女はマリアに私の着替えを手伝うように命じた。
ドレスを見た瞬間、ほうっと思わずため息が漏れた。深紅の薔薇の花びらを模したそれは胸元と裾の部分に繊細なレースと薔薇のモチーフがあしらわれていた。腰の部分に銀糸でパールを縫い止めてある。
「お手伝いいたします。失礼します」
私が呆けている間にマリアは私の服を手早く剥ぎ取った後、ドレスに着替えさせた。私の髪を綺麗に編み上げて行き、お揃いの紅い薔薇に銀細工の蝶がついた髪飾りをつけた。薄く化粧を施された後で、仕上げにサファイアブルーの宝石のついたネックレスと指輪を嵌められる。靴は薄いピンクに紅い薔薇の飾りがついたものだった。
姿見の中には見慣れない少女が困惑したように立っていた。自分で言うのも何だが、違和感なく品よく馴染んでいる。深紅なんて普段着ないのに、と不思議に思っていると、どうも私の虹彩が赤みを帯びているせいなのと、それが私の体型に誂えたように作ってあるからだということに気付いた。
「レイチェル様、よくお似合いですよ」
マリアも鏡越しに満足げに笑った。
私が皆の前に姿を現すと、サフィニア様とリエラが一瞬息を呑んだのがわかった。マダム、リーリエは誇らしげな顔をしている。
「お兄様の見立ては正しかったのね。正直、黒髪に深紅なんて、重すぎて合わないのではないかと思ったのだけれど」
このドレスはティルナード様の見立てらしかったことに私は軽く衝撃を受けた。
「これはまた、情熱的だな。恥ずかしいほどに清々しいぞ」
リエラがやや呆れたような声で感想を漏らした。馬子にも衣装とでも言いたいのだろうか。自分でも分不相応なことぐらいわかっている。
それにしても、深紅を見にまとっただけで情熱的とは、リエラも単純だな、と思う。
「レイチェル、君は本当に鈍いな。君の婚約者は余程独占欲が強いらしいというのに。これはギル以上かもしれないぞ?」
私は顔をしかめた。リエラはよくわからないことを言う。ドレスは確かにセンスが良い。だが、男性が婚約者の着るドレスを見立てることなんて、近年割とありふれたことである。
大体、ティルナード様が私なんぞに執着する理由がない。私達は夜会で数度顔を合わせたぐらいで、婚約者と言っても顔見知り以下の接点しかない。今でこそ悪い噂だけが派手に暴れまわってはいるものの、私個人に対する評価は「地味」の一言で終わる。
「ドレスを見立てたぐらいで独占欲が強いことになるリエラの思考回路がわからないわ」
私の言葉にリエラはやれやれ、と肩をすくめた。
「君の婚約者は銀髪でサファイアブルーの瞳をしているのではなかったかな?」
リエラはそう言うと、私の全身を改めて眺めた。ティルナード様の容姿が何の関係があるというのか、と考え、はたと気付いた。細部がリンクしている。銀細工の蝶に、銀糸で止めたパールは彼の髪の色、サファイアブルーの宝飾品は彼の瞳の色ではないだろうか。
気づいて初めて、リエラの「恥ずかしいほどに清々しい」という言葉の意味を正確に理解した。見る者が見れば、ティルナード様はレイチェル=ヴィッツ伯爵令嬢にお熱だ、とあらぬ誤解を与えかねなかった。
私は耳まで赤くなった。彼がどういう意図でこのようなことをしたのかわからないが、これは非常に困る。私でなくても、勘違いしているところだ。それに、これは恥ずかしすぎる。
何にせよ、本番は明日なのだ。これを着ないわけにはいかない。今から他のものを用意できるあてもない。流石に自分達が主役の席で母のお下がりを着るわけにはいかない。公爵家だけでなく、伯爵家の面子も丸潰れになる。私は私が悪く言われるのは構わないが、家族が謂れのない中傷を受けるのは我慢ならなかった。
「サフィニア様、ティルナード様は…」
「サフィーよ、お姉様」
にっこりとサフィニア様が否定した。今はそれどころではないんですが!?
「サフィニア様」
「サフィーと呼んで頂けないなら、何も答えないわ」
「サ…フィー様、ティルナード様は何を考えているんですか?」
私は結局折れた。サフィニア様はそんな私の様子を満足げに眺めている。
「そのままの意味ではなくて?気になるなら、明日お兄様に直接聞いてみては?」
それができたら苦労しない。私は身の程をわきまえている。だからこそ、そんな自意識過剰な真似はできない。
それに聞いても、上手くはぐらかされそうな気がした。彼はいつも思わせ振りな態度はとるけど、その真意を口にはしてくれない。
私はいつのまにか、気重だったお披露目のファーストダンスのことなぞ、すっかり忘れていた。こんなに誰かの言動に振り回されて、心を乱されるのはいつ以来か。
「本当にお似合いですわ。愛ゆえですわね」
マダム、リーリエがうっとりと私を見詰めている。私は溜め息をつく。
振り回されて心乱されて、勝手に一人で期待して浮かれて…それが恋だ愛だと錯覚させられているだけだ。これは、この感情は絶対に愛なんかじゃない。一時の気の迷いだ。私達の間には何もないんだから。
最後まで責任を持てないなら、どうか、最初から期待させないでほしい。
マリアに着せかえられながらも、気持ちは落ち着かず、どこかふわふわして、胸の奥がざわついた。今夜はどうやら眠れそうにない。




