68.突然の来訪に戸惑います
「お父様、お母様、お兄様?」
実兄が両親を伴って私に会いに来たのはかくれんぼの翌日のことだった。三人の顔を見て、私は確かに血の繋がりを感じた。ヴァレンティノ公爵一家と私はそのぐらい似ていない。月とすっぽんである。今となっては何故血縁だと思いこんだのかわからない。
両親は私を見て、安心したように表情を緩めた。ティルナード様は何故か不安げに私を見た。
「レイチェル。大丈夫なの?」
母が眉根を寄せて私に向かって言った。
私は一拍考え込んだ後、頷いた。実際記憶に欠陥は抱えているものの身体は健康そのものである。
母は私の呑気な反応を見て、脱力したらしいのがわかった。
「今日はどのようなご用事で?」
我ながら間抜けな質問だとは思った。私絡みには違いないのだ。恐らくは婚約に関わる話し合いだろう。
「あぁ。色々あって遅くなったがティルに少し相談があってな」
私は何も知らないが、事前に書簡でやり取りはあったのだろう。
ルーカスは真剣な面持ちでティルナード様に水を向けた。ティルナード様は苦しそうに私を見た。
「…先に言っておきますが、当家の方針は変わりません」
ティルナード様は厳しい面持ちで言った。
「そうはいかない。婚約者の顔を忘れるのは大問題だろう?だから、そちらの好意にいつまでも甘えるわけにもいかない。本人の意思を含めて、もう一度話し合いが必要だ」
冷静にルーカスは言った。私もそう思う、と頷きかけたらティルナード様は何故か悲しい顔をした。
「…話し合いが必要だってことはわかっているし応じるつもりはある。ただ、俺の気持ちは変わらない」
彼ははっきりと言い切り、私の手を確認するように、ぎゅっと握りしめた。
心なしか手が震えていて顔色が悪い。何かに怯えているような、自信がないような、そんな気配を感じた。この人は何を怖がっているのだろうか。
「それでも本人の意思は無視できない。そうだろう?」
「客間に用意をしています。そちらで話しましょうか」
ティルナード様は家令のワトソンに両親とルーカスを案内するよう合図しワトソンは恭しくお辞儀した。
※※※
客間には既にヴァレンティノ一家が揃っていた。
ヴァレンティノ公爵夫妻は緊張した面持ちの両親にねぎらいの言葉をかけた。
それから茶菓子とお茶が運ばれてきた。
場の空気は重い。空気の重みに耐えかねた諸悪の元凶たる私は茶菓子に手を伸ばした。
「レイチェルはどうしたい?」
ルーカスに急に話の水を向けられて私は盛大にむせた。
私はティルナード様を見た。
「どうしたいもこうしたいも、こちらに非があるのですから公爵家側の決定に従うしかないのでは?」
公爵家側にとって、記憶に欠陥がある私を嫁として迎え入れるのはマイナスだ。
元々私に決定権はない。そう。たとえ、この件を理由に婚約を解消され多額の慰謝料を請求されようがヴィッツ伯爵家に文句を言う権利はない。
ただ。
「一生かけて必ずお支払いするので慰謝料の支払いは分割払いにして頂けると助かります」
両親や兄に迷惑をかけるわけにもいかない。私のせいで財政難になり領民が困窮するのは心が痛む。
「…慰謝料は発生しませんよ。婚約を白紙に戻すつもりはありませんから」
ティルナード様はにっこりと私と両親、兄に向かって言い切った。
「それは無理があると思います。思い出せる保証はないとお医者様も言っていたもの」
我ながら情けない話だと思う。
私が大丈夫でも彼が大丈夫ではないと思った。私は昔の私に嫉妬しながらも好きな彼のそばにいることができるけど、彼は思い出せない、昔と変わってしまった私を見ながら苛立ちを募らせなければならない。それは彼にとって幸せだろうか。逆なら耐えられないと思う。一度リセットしたほうがいいように思った。
「レイチェルはそんなに俺が嫌いですか?」
ずーんと沈んだ声で恨めしげに見られて私はぐぐっと唸った。
「嫌いなわけじゃっ!」
私は慌てて言った。むしろ、忘れたことに腹を立てて嫌われているのは私ではないだろうか。
「嫌いじゃないなら問題はない。もう一度、最初からやり直しましょう。記憶が戻らないならそれはそれで仕方ないし、また好きになってもらえるよう努力します」
ティルナード様が捨て犬のように縋る目で私を見るので困惑した。両親も困惑している。
なんだか雲行きがおかしい。
私の両親もどちらかというと、今回の件で婚約が白紙に戻ることを覚悟していたようだ。
「で、レイチェルはどうしたい?」
兄が面倒くさそうに私を見た。
「…だから、私に決定権があるのはおかしいと思うのですが?」
立場的に強いのは上位貴族の家であるし、貴族の令嬢の結婚においては当人の意思が無視されることの方が多い。私は男性に好まれる要素を持ち合わせていない。だからこそ、疑問だ。
「私たちは政略結婚だったのですよね?」
確認するように私は兄に聞いた。
政略結婚だとしても疑問は残るが。
この屋敷にいると前の私はティルナード様に愛されて婚約したのだと錯覚しそうになることが多々ある。そこをはっきりさせないと冷静に判断出来ないように思った。
「いや。政略結婚の形をとったお見合い恋愛結婚だ。ティルのやつはお前が大好きなんだ。レイチェル以外の女は異性として見れないらしい。8年前も前からティルが結婚したかったのはお前だけだ。それこそ記憶を失おうが同じレイチェルなんだから奴に不満があるはずがない」
兄は呆れたように私に言った。
私はぎゃふんと心の中で仰け反った。両親も初めて知ったらしく目を白黒させていた。反対に公爵夫人とサフィー様は口元を押さえながらティルナード様を見ている。
「だ、だとしても。私に決定権は」
動揺のあまり声が上ずった。
「ティルはお前と形ばかりの夫婦になりたくない。心を通じ合わせたいと思っている。だから、お前の意思を尊重している」
こともなげにルーカスが紅茶に口をつけながら言った。
「でも」
彼がそのように望むならそうするしかないのではないか。そもそも、私に意思は必要ないのでは、と心の中で拗ねた。結婚に夢も希望もないのは私もわかっていて諦めている。
世間の貴族の夫婦仲など冷めきっていてお互いに愛人がいるのが当たり前だったりする。
だからこそ、混乱して戸惑っている。
私は彼に好意を感じているのは確かだ。だから、このまま婚約を続けられるならその方がいいのだろう。しかし、ここで彼の好意に甘えてしまえば彼の気持ちを一方的に利用していることにならないか。今の私の好き、は昔の私の好き、と比べると弱いように思う。
「やはり白紙に戻した方が」
「嫌だ!」
ティルナード様は慌てたように言った。
「百歩譲っても式の延期までです。これ以上は譲歩できません」
「まぁ、そうなるよな」
ルーカスは諦めたように紅茶の表面に目を落とした。
「婚約を解消して、もし、レイチェルが他の奴に嫁ぐようなことになったら耐えられない」
そんな可能性はないと思う、とは言いづらい空気だ。私は社交場では常に壁際の花だ。
「他のことは彼女の気持ちが追いついてからで構わないが、今更手離せというのは無理な相談だ。レイチェルが嫌なら諦めるしかないけど」
一同の視線が私に集中して私は固まった。
「レイチェルには選択肢がある。一つはティルの奴とこのまま結婚する、もう一つはティルの奴と婚約解消する。ま、どっちにしろティルはしつこいからお前を諦めないと思うが?」
お兄様、それは二択ではなくて実質一択ですよ?とは言いづらい空気だった。
私は彼をちらりと見た。答えはとっくに出ている。私は彼を好ましく思っているし、過去の私にも嫉妬するぐらいなのだ。はっきりいって婚約解消はしたくないのが本音だ。
ただ、良識的に私がそれを言える立場にないことも理解していた。だから、公爵家の判断に従うと言ったのだ。
「思い出せなくても。気持ちが追いつくまで待って下さいますか?」
気持ちが追いついていないというのは間違いではない。彼の気持ちにどこまで答えられるかはわからない。
「待ちます!」
ティルナード様は身を乗り出すように私の手を握って言った。
「だから、言ったでしょう?改めて話し合う必要なんてない、と」
両親に向かってルーカスは溜め息をつきながら言った。彼は始めからこうなると予想していたらしい。
「でも式のことがあるわ」
母が不安げに私を見た。
式、という言葉で私は例の可憐だが、おおよそわたしには着こなせないだろう豪華な衣装を思い出して頭が痛くなった。
「正直なところ、式の日取りの延期は難しいですね」
公爵様が苦笑いしながら理由を説明した。招待客に招待状を送り、さらに大聖堂も押さえているらしい。錚々たる招待客の名前を聞いたところで父の口から魂が抜けた。私も放心しそうになった。
貴族の結婚式にこんなに王族が出席するなんて聞いたことがない。いや公爵家ゆえか。
「最初は身内だけの小さな式の予定だったんです。参加したいという王族の申し出も断ってたんだ。そうしたら、個人で参加すると言い出して」
個人で参加希望の王族が増えた結果、格式と規模を上げざるを得なかったとティルナード様は苦い顔で言った。
「確かにティルが最初押さえていた森の中の小さな教会は手狭過ぎて使えなくなったね」
公爵様は力なく笑った。
「参加しなくてもいいのに」
拗ねたように言うティルナード様は年相応に見える。
「こらこら。顔つなぎは重要だよ。気に入らなければ披露宴の後にもう一回すればいいじゃないか」
公爵様の提案に私は身震いした。結婚式は一度きりでいいし、あの衣装を着て何回もティルナード様の隣に立つなど公開処刑に他ならない。
「まぁ。それは悪くない。花嫁姿のレイチェルが何度も見えると思えば」
頰を赤らめながら言うティルナード様に、げほげほと私は咳き込んだ。
「いっ…一回で十分だし、婚礼衣装はそう何度も袖を通すものではありません!」
私のささやかな抵抗を聞いて、なぜか公爵様は顔を反らした。
「エドは何回もわたくしにねだったものだから気まずいのよね」
公爵夫人がふふっと笑いながら言った。私の感覚がおかしい…のだろうか?
ルーカスは深く溜め息をつきながら「諦めろ」と言った。