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67.甘い夢の中にいるようです

二回目の投稿です。

緊張のあまり、手汗をいっぱいかいている。顔が熱い。

彼をちらりと見上げたが、離してくれる気配はなく私は戸惑った。

ただ、手を繋いで庭を散歩しているだけだ。それだけのことなのだが、心臓がどくどくと脈打つのがわかった。

彼を兄だと信じていた時にはなかった感覚だ。

私達の間には全く会話はない。これも居心地が悪い原因の一つだと思う。


「…ティルナード様?」


「ティルで良いですよ。どうしましたか?」


愛称で呼ぶように促されて、私はまた戸惑った。

身体の反応からすれば、私はこの人のことが好きだったのだろう。手を繋いでいるだけだというのに、体が勝手にそわそわと浮き足立つのだから現金なものだ。

身に覚えはないが、こんなにも好きだとはっきりわかっているのに全く思い出せないのはどういうことなのだろうか。


「手を…」


私がおずおずと切り出すと、ティルナード様は私の視線を追うように繋いでいる手を不思議そうに見た。

私の指にはしっかりと彼の指がからめられている。心なしか隣を歩くティルナード様は機嫌が良いように見えた。


「手が、どうかしましたか?」


「手汗が気になるので離して下さいませんか?」


「……絶対に嫌です」


「どうして?」


「離したら貴女の性格上、また繋いでくれないでしょう?」


図星を指されて私はうっと言葉を詰まらせた。

まるで私の言動を全て見透かしているようで非常にやりにくかった。そればかりか、彼の前では丸裸にされているような気分だった。どんな抵抗も無意味に思えた。


「……恥ずかしいんです」


私は正直に今の心情を吐露した。


「結婚するんだから慣れて下さい」


拗ねたようにティルナード様は言った。


「…そのことですが、しないかもしれませんよ?」


私はむきになって言い返した。

私の記憶はまだ戻らないままだ。普通はこれだけでも十分に破談になってもおかしくはないのだが、奇妙な程に屋敷の人々の対応に変化はない。むしろ、好意的に接してくるので戸惑うばかりだ。


「何を言われても俺は貴女をもう手放す気はありませんから覚悟を決めて下さい」


優しい視線を向けられて、どきり、と心臓が跳ね上がった。

記憶を失う前の私はよく平気だったものだ。

あの夜会の後、ティルナード=ヴァレンティノという人物について知って驚いた。


「勿論、貴女の気持ちは尊重します」


私は期待して彼を見た。


「なら、一度この話はなかったことに…」


「が、婚約と結婚の話以外に限ります」


白紙に戻そうとする提案を即座に却下されて私は落胆した。

なかなか現実を認めたがらなかった私を見かねたティルナード様が式で着る予定の花嫁衣装を見せてくれたのだが、魂が抜けそうになった。

繊細なデザインのそれは多分、私以外の華奢で可憐な令嬢なら似合ったに違いない。それをくびれのない体型の私が着て私より美人な花婿の隣に立つのだ。うん、想像しただけで無謀にも程がある。


「……そんなに俺が嫌ですか?」


落ち込んだようにティルナード様が言った。


「そういうわけでは…」


「手を繋いで歩くのも恥ずかしい、と」


「違います。そういうことではなくて!」


私は慌てて否定した。


「貴女に拒絶されるのには慣れていると言っても全く傷つかないわけではないんですよ?勿論、貴女の戸惑う気持ちも当然だとは思うし、仕方がないことだって頭では理解しているんですが…」


「あ…。ごめんなさい」


謝ったものの、本当にどうしたら良いのかわからない。思い出せないことに苛立った。記憶を失う前の私はどうだったのだろうか。


「いえ。俺の方こそすみません。少し焦りすぎたみたいです」


ぷつりと、また会話が途切れた。

どこか他人事のように感じてしまうのはこの人が好きだと言っているのは前の私だとわかっているからだ。

彼を落胆させる度に申し訳なく思うと同時に私は記憶を失う以前の私に嫉妬する。記憶を失う前の私は随分沢山のものを持っていたようだが、それらは私のものではないのだ。借り物であることが空しくもある。

彼に好きだと言われる度にどうしようもなく心が疼く。周囲の人に優しく受け入れられる度に私は「レイチェル」に嫉妬する。

ただ、それを彼にストレートにぶつけるわけにもいかないから飲み込む。今の私を見て欲しいというのは単なる我が儘に過ぎないとわかっている。不満だけが心に雪のように静かに降り積もっていく。

記憶がないのは心もとなく不安に感じるものだ。例えるなら足元が全く見えないまま霧の中を一人で歩いているようなものだ。

私だけが忘れてしまって取り残されている。

心細くて不安だったが、それを言えるような心許せる相手もいない。私は独りだ。

俯いたまま、繋いだ指にぎゅっと力をこめれば、頭上で彼が私を見つめる気配がした。

息苦しい、と溜め息をついた。

これなら義務的な婚約関係を求められた方がましだと思った。或いは婚約を解消してもらった方が楽だった。

私は彼が好きなのだろう。しかし、片想いに近い。だって、彼が好きになったのは私の知らない前の私なのだ。

つまらなさそうな態度をとって申し訳ないとは思うが、私自身、気持ちの整理がついていない。それに、私みたいな面白味のない女と二人でいても彼が楽しんでいるようには思えなかった。

とりあえず、今の時間をやり過ごせば彼も私に勝手に飽きて諦めてくれるに違いない。今までがそうだったように。そう思った。


「レイチェル。俺とかくれんぼをしませんか?」


「………はい?」


一瞬耳を疑った。

だって、私より大人びた彼の口から、まさか「かくれんぼ」なんて単語が出るとは思わない。


「そうだな。二人が嫌ならサフィーも誘って。ああ、でも」


事の成り行きに全くついていけない私は首を傾げた。


「屋敷の敷地内は構いませんが、屋根と足場の危ないところに隠れるのは駄目です」


「なぜ屋根が出てきたんですか?」


納得がいかない私がジト目で彼を見れば、ティルナード様は何故かさっと目を逸らした。


「私を呼びまして?」


サフィー様が唐突に現れて、私はぎょっとした。


「……ずっと、ついてきていたくせに白々しいな」


「見てられませんでしたもの。お兄様ったら、本当に女性のエスコートが下手ですこと。気のきいた話もできませんの?」


「う…。経験がないんだから仕方ないだろう?大概、俺が喋らなくても向こうから勝手に話してくるんだし」


ティルナード様はそこではっとしたように私を見た。知らずに私はまた、つり目がちの目をつり上げていたらしい。


「まあ!お兄様ったら正直過ぎですわ。もう。仕方がないから付き合って差し上げますわ。お兄様と二人ならごめんですが、可愛いお姉さまのためなら断れませんもの」


ぎゅっと腕に抱きつかれて私は戸惑った。


「でも、何でかくれんぼですの?鬼ごっこでも良いのでは?」


「サフィーは手加減を知らないからレイチェルが蚊帳の外になるだろう?それに、俺の過去のトラウマが呼び起こされるから勘弁してくれ」


確かにサフィー様もティルナード様も運動神経が良さそうだ。私は鬼でも逃げる役でも置いてきぼりになるだろう。

それにしても、トラウマとは何なのだろうか?


「あら?お姉さまに逃げられたご経験が?」


「避けられるのは結構傷つくんだからな。気づかないふりをするのも大変だし、無理に捕まえたらよそよそしいし、どうしようもない」


サフィー様はティルナード様に同情の目を向けた。


「覚えてません!」


顔を赤らめて思わず私は抗議した。


「ええ、わかっていますよ。俺が勝手にから回っているだけなので気にしないで下さい」


ティルナード様は渇いた笑いをこぼした。

結局、かくれんぼをする運びになった。ティルナード様が鬼役でサフィー様と私が隠れる役だ。


「…敷地内ですからね」


「わかってますわ!」


サフィー様はえへんと形の良い胸を張った。

それにしても、良い年頃の男女がかくれんぼをして遊ぶなどどうなのだろうか。

彼が数を数える間にサフィー様と別れて、私は手頃な隠れ場所をきょろきょろと探した。とはいえ、屋敷に詳しくない私には圧倒的に不利だ。さて、どこに隠れたものか。

目ぼしい隠れ場所は先手をうつかのように全て禁止されてしまった私は困惑した。

屋敷の裏手に小屋を見つけた私は中に入った。物置らしい。

奥に入って大きな空の壺を見つけた私は傍の箱の上に乗り、丸まってその中に入った。私の体より大きめなそれは丁度、ぴったりと収まるサイズだった。


それから大分時間が経った。

暗くて静かで、誰も探しにくる気配がない。とっくに忘れられてしまったのだろう、と息をついた。ひんやりと冷えた空気に小さく身震いした。体が冷えたようだ。

諦めて壺から出ようとした時、私は絶望した。壺の口に手が届かない。

どうやって入ったのかを思い出して、傍にあった箱を足場にしたのだと思い出した。

しかし。壺の中から出られず孤独死とは実に間抜けな死因だ。従兄あたりが腹を抱えて大爆笑する姿が思い浮かんで私は落ち込んで蹲った。


「どうしよう」


お腹がぐう、と間抜けな悲鳴を上げた。

その時、物置き場の扉が開く音が聞こえた。


「……レイチェル?ここにいるのか?」


ティルナード様の焦ったような声が聞こえて、一瞬ほっとして返事をしようとした私は慌てて口を押さえた。私はどこまでも意地っ張りらしい。


「レイチェルの足跡だな。出た形跡はないから、ここにいるのは間違いないはずだけど、どこに?」


壺の傍に近づく足音が聞こえて、私は息を潜めた。ややして、壺の口から銀髪の美青年の顔が覗いて、ばっちり目が合った私は固まった。


「やっと見つけた。心配したんですよ。まさか、こんなところにいるとは思わないから。さ、早く出てきて下さい」


「…後から行きますから先に戻って下さいっ」


私は上ずった声で言った。

ティルナード様は私を暫く見つめた後、おもむろに壺の口から長い手を伸ばして私の両脇を抱えて仔猫のように抱き上げた。


「出られなくなったんですね?」


居たたまれない気持ちになった。


「…入った時は出られなくなるなんて思わなかったんだもの」


馬鹿なことをした自覚はあるが、素直じゃない私はぷい、と顔を逸らした。


「待った。自力で出られなくなったのに、何故俺が来た時に返事をしてくれなかったんです?俺が気づかなかったらどうなっていたか…」


険しい顔で言われて、私は眉根を寄せて唇をきゅっと引き結んだ。


「間抜け過ぎて呆れられるのが怖くて。見捨てられるんじゃないかと」


視界が霞んだ。


「見捨てるもんか!ずっと探していたんですよ?ああ、もう。こんなに体が冷えて」


抱き寄せられて安心して身体を預けそうになったところでお腹がぐう、と鳴った。穴があれば入りたい私は顔を真っ赤にしながらぷるぷると震えた。


「ああ!そういえば夕食時ですね。ダンがご馳走を用意して待っています。貴女が見つかったと父さんと母さんとサフィーにも言わないとな。今、屋敷の人間総動員で探しているから」


私は凍りついた。思っていた以上に大事になっているらしい。

ティルナード様は私を抱えたまま、物置きから出た。外に出てすっかりと日が暮れてしまったことに気づき、呆然とした。


「手間を取らせて、ごめんなさい」


「手間に思うはずがない!ああ、でも」


「でも?」


「こういうことは二度と御免だな。範囲を絞らなかった俺が悪いのはわかっているんだけど」


はあ、と息をつくのが聞こえて私はぎくりと身体を硬くした。


「いなくなったかと思ったんだ。誘拐されたんじゃないかと。或いはどこかで怪我をして動けなくなったんじゃないかって。見つかって本当に良かった」


ぎゅっと抱く手に力を込められて私は今度こそ全身から力が抜けた。


「…誘拐なんて、あるわけないじゃないですか」


実家は貧乏貴族の私を誘拐したところで何も得るものはないだろう。


「…レイチェルはやっぱりレイチェルだな。君と引き換えになるなら俺は全財産失ってもいい。勿論、犯人が君に指一本触れずに手荒なことをしないなら、だけど」


低い、甘さを含んだ声で怖いことを言われて、私は息が止まりそうになった。さっきから心臓が忙しい。


「そんな…の」


無茶苦茶だ。


「それぐらい貴女が大事なんだ。いい加減、自覚して下さい。もし、俺の目の前からいなくなる時は俺に言って下さいね?」


「どうなるの?」


「勿論ついていきます。貴女が望むなら他の全てを捨てても構わない」


冗談だと思いたいが、声音からして本気らしい。


「…馬鹿みたい」


底意地の悪い私は彼の耳元で聞こえるように囁いた。


「馬鹿で結構。約束は守る主義なんだ。それに、そこまで俺を夢中にさせる君も十分悪いと思う」


面白がるように言う彼の声音に気づいて、私は反論した。


「今のは物凄く人聞きが悪いです。まるで私が貴方を誘惑したみたいにっ」


自分で言っていて滑稽だと思った私は途中で言葉を切った。逆なら理解できるのだが、あり得ないことだ。きっと、からかわれているに違いない。

疑い深い私はそう思った。


「なんだ、そんなことか。心配しなくても常に誘惑されているから安心して下さい。既にずっと昔から骨抜きですよ。近衛を選んだのだって昔、貴女が好きだった絵本に出てきた騎士に近い仕事だからです。騎士の仕事の中では出張も少ないし、貴女の傍にいられますしね。夜勤があるのが唯一の難点ですが…」


不純な動機でしょう?と冗談めかしたように彼は笑って言った。

傍で聞いていて、色々限界で悲鳴をあげたくなったが、彼は攻める手を緩めてくれない。


「ああ、でも。少し気分転換になったみたいで良かった」


不可思議な遊びの提案は私のためだったらしいことに気づいて、また胸が疼いた。彼が好きなのはなぜ私ではないのだろうとどうしようもないことを考えた。


「レイチェル?」


顔を見られたくなくて、私は彼の肩口に顔を埋めた。


その後、サフィー様達と合流して抱きつかれ、ティルナード様と一緒に家令のワトソンにくどくど叱られて、ヴァレンティノ公爵夫妻にはかくれんぼ禁止令をきつく言い渡された。

ダンは苦笑いしながら私の好物を作って待ってくれていた。食べ物の匂いにつられて私がひょっこり姿を現すと思ったらしい。私を獣か何かと思っているのか。失礼な話である。

ドリーには散々からかわれ、マリアにも怒られた。髪に埃やら何やら巻き込んで顔が煤まみれになってしまったことをマリアは酷く嘆いて、お風呂場でぴかぴかに磨かれた。

「レイチェル」は本当に贅沢だ。こんなにも沢山の優しい人に大切に思われながら、全部忘れてしまって思い出せないのだから。

彼に不安な気持ちを全て打ち明けて体ごと預けられたら、と考えて私はまた首を振った。ティルナード様は優しい。だからこそ、言っては駄目だと思った。彼は「レイチェル」の王子様に違いないが、私の王子様ではないのだ。

気持ちを鎮めようと私は目を閉じて寝台の上で丸くなったが、ぽっかりと空いてしまった穴が塞がる気配はなかった。

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