66.地に足がつかないとは言いますが
少し離れたところで顔を寄せて話をする二人を見て、何となく面白くない気分になった。
知らない内に元々つり目がちの瞳が更につり上がっていたらしい。ドリーが私の眉間を指差して、そのことを教えてくれなかったら気づかなかった。
おかしい。
私のうっすらと覚えている私は兄にここまで執着してなかった。どちらかと言うと、女性に嫌われて相手がいない兄のことを心配していたのだ。
しかし、ティルナード様は真逆だ。大体、私のうろ覚えの兄は口が悪く、誰に対しても歯に衣を着せぬ物言いだが、ティルナード様はその特徴を満たしていない。それに。
私は左手の薬指をそっと撫でた。同じデザインのものがティルナード様の指に嵌まっている。兄妹が同じデザインの指輪を左手の薬指に嵌めるなど聞いたことがない。兄妹でお揃いにしたのだとしても、サフィー様の指には嵌まっていなかった。
二人がこちらに戻ってくるのを見て、私は慌てて何でもない素振りをした。
怒っている、とダリアに言われて体がかーっと熱くなった。実際、今しがた私は目の前の二人の仲を疑い、嫉妬していたのだ。手を伸ばし、ティルナード様の腕にぎゅっとしがみつけば、彼は困ったような顔をした。
本当は彼は私の何なんだろう?ぐるぐるとそんなことを考えていた。
だんだんと思い出せないことによる苛立ちが募り、私はそれを顔を見せに来ない婚約者へと向けた。
観念したようにティルナード様が私達が婚約しているのだと言ったが、俄には信じられなかった。いや、そういうことであれば辻褄が合うことの方が多いのだが。
私の部屋の家具はまだ新しいものばかりだったし、クローゼットのドレスも袖を通していないものばかりだった。私は最近になって住むようになったのだ。
しかし。
ちびっこで子供っぽい容姿の私と端整な美貌で長身のティルナード様。鏡に映る私達の姿はでこぼこで婚約者同士には到底見えなかった。彼にはもっと大人の女性が似合いそうだ。
帰りの馬車で私は推理した。ああ、そうか。恐らくは私は見せ掛けの婚約者なのだと。
つまりは彼にとって煩わしい女性よけのために選ばれた婚約者なのだ。元々、彼の社会的体裁を保つための見せ掛けの関係にあったのではないか。
理解したところで私は頷きながら悟りの境地に至り、彼に微笑みかけた。
「思い出したんですか!」
ぱあっと顔を輝かせて前のめり気味にがっしりと手を取られて、私は思わず、くらくらした。家族以外の男性に免疫のない私には心臓に悪い。
がっかりさせて申し訳ないと思いながら、私は首を左右に振った。
「ごめんなさい。思い出してはいませんが、何となく私の置かれた状況を把握しました」
がっくりとティルナード様は肩を落とした。
「…嫌な予感しかしない」
「私はティルナード様に精一杯協力しますから安心して下さい」
「………」
長い沈黙の後、何故か恨みがましそうな目で見られた。
「レイチェルはやっぱりレイチェルだった」
「……はい?」
「いや。良いんだ。それより、俺に本当に協力してくれるんですね?」
彼は額を押さえながら悩ましげに私を見て、念を押してきた。
そんな風に見られたら心臓に悪いから止めて欲しいものだ。私でなければ勘違いしただろう。
「えーと。できることなら?」
「できることしかないので安心して下さい。それなら、もう一度俺と最初からやり直してくれるんですね?」
「……何を?」
「思い出せないなら無理に思い出さなくて良い。忘れていても君が君であることには変わりない。要するに、もう一度、好きになってもらえばいいんだ」
ティルナード様は吹っ切れたようにぶつぶつと言ったが、私は話についていけなかった。
「俺は貴女を心から愛しています。だから、もう一度俺に貴女に好きになってもらうチャンスを下さい。それだけでいい」
ティルナード様は真剣な表情で私を見つめられて一瞬思考が停止した。愛している、なんて私の曖昧な記憶では男性から言われたことがなかったからだ。
そもそも、私達は一応は婚約しているらしいのだから、今更私が彼をどう思おうが、結婚するのは確定事項である。無論、私の記憶喪失を理由に彼が婚約を破棄することは可能で、そちらの心配をするべきなのだろう。
格上の家からの申し出であれば断ることはできないし、私の気持ちなど意味がないのだ。
何より私はこの現実離れした状況に今一つついていっていない。
迷うように視線を泳がせればティルナード様は困ったように笑った。
「俺は貴女と名ばかりの結婚をするつもりはないんです。ちゃんとお互いに気持ちを通い合わせたい」
「でも、どうすればいいか…」
無理難題を突きつけられて私は困惑した。
過去の私は彼のことが好きだったのだろう。今はどうなのだろうか。よくわからない。
「どうしても思い出せないならそれでもいいんです」
「全く良くはないと思うのですが」
「ああ、でも。いくつか条件があります」
「条件?」
「俺以外とは恋愛禁止です。あと、外出の時は必ず屋敷の者に声を掛けること。貴女は今までにも何度か危ない目に遇っているので、一人で出掛けるのはやめて下さい」
私は目を瞬かせた。
「婚約者以外の方とどうこうならないのは当たり前では?」
「人の心までは縛れませんよ。だけど、貴女が他の奴と仲良くなるのを見守るのは俺が耐えられないから絶対に駄目です」
苦しそうに顔をしかめて彼は言った。
「まるで経験があるみたい?」
「ありますよ。貴女を本当の意味で振り向かせるのには八年もかかったんだから」
未練がましそうに信じかたいことを言われて、私は口許がひきつった。
「………冗談ですよね?」
「本当です。貴女は忘れたでしょうけど俺は貴女には嘘をつかない約束をしている」
「兄妹だと嘘をついたじゃない!」
「俺は一度も肯定していないし、一言も妹だとは言いませんでしたよ?」
「家族だと言ったわ!」
私は反論した。
「間違いではないでしょう?俺と結婚すれば貴女は俺の奥さんになるんだから家族で大事な人には違いない。うちの家族は最初から誰一人、貴女に嘘は言っていない」
言葉がでなかった。
私はそこで自分の大きな勘違いに気づいた。その理屈からすると、確かにサフィー様から見れば私はいずれは「義姉」になるし、公爵様から見れば「義娘」にあたるのだろう。ものは言いようだ。
私が勝手にティルナード様の妹だと思い込んでいただけで、誰もそうは言っていなかった事実に気づき、頬に熱が集中した。
「とにかく。約束したからにはレイチェルに全面的に協力してもらいます」
手を取られて、二言はありませんね?と、爽やかな笑顔で押しきられて私はたじろいだ。よくわからないが、嵌められた気分になった。
「…ぐぐっ。わかりました」
思えば、前にもこんなことがあったような気がする。全く思い出せないのが悔しいと思った。
この人には昔から勝てた試しがないのだから諦めなさい、と近くで小さな女の子が囁いたのが聞こえた気がして、振り返ったが、誰もいなかった。
私はこの後、安直に約束したことを後悔することになるのだが、それはまた別の話だ。