表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
111/124

62.立ち止まったままではいられません

「レイチェル?」


私は随分長い間、ぼーっとしていたらしい。レイモンドが丸い眼鏡の奥で緑色の瞳を心配そうに細めるのがわかった。

直前に嬉しそうに何事かを言っていたが、何だったのだろう。


「ごめんなさい。考え事をしていて」


最近、彼の姿を見ない。最後に会ったのはいつのことだったか。確か彼にお薦めの冒険小説を貸した。あれが最後だったように思う。あれから季節は移り変わり、彼が姿を見せなくなって大分経つ。

本人は来ずに本だけは兄経由で帰ってきた。こんなことは初めてで、私は戸惑った。

忙しいのだろうか、それとも体調を崩したのだろうか。何度か手紙を書こうと筆を握ったが、何をどう書いたら良いかわからなかった。彼に手紙を書くのは初めてで、凄く緊張したのもある。

迷惑にならないだろうかと散々躊躇い、未だに書けていない。気まずいのもある。図書館に出掛けた時、彼に「本気だ」と告白されたことを思い出して頬が熱くなった。それは外にも出てたようで、帰宅後にルーカスや両親に訝しまれたぐらいだ。

とはいえ、その後も彼の態度は変わらなかったから私の夢だったのかもしれない。

彼が来なくなって、兄にそれとなく聞いてみたが、怒ったようにはぐらかされてばかりだった。

そういえば、と私は思い出した。


「あの…。レイモンド様?最近」


私はもぞりとドレスの布地を握りしめた。


「どうしたの?」


黙りこんだ私の返答を急かさずにゆっくりとレイモンドは待ってくれる。優しい、お兄様みたいな人だ。


「最近、ヴァレンティノ公爵ご子息様を見かけないけど、どうしているのかしら?」


変に思われなかったかと私は緊張した。


「あんな奴のこと、どうして気にするの?」


少し棘がある言い方だと思った。レイモンドは誤解しているのかもしれない。だけど、下手に彼の弁護をすればおかしいと思われるかも、と思い私は誤魔化した。

彼と和解し、個人的に親しくしていることはレイモンドは知らないし、兄にも言わないように言い含められていた。二人きりでよく過ごしていることも、外出したことも本当は良くないことらしい。

レイモンドとも二人で話しているが、二人きりではない。部屋には友達が他にいて別の話題で盛り上がっている。


「最近、お見かけしないから何かあったのかと思ったんです」


体調を崩しているなら心配だった。

私から会いに行くことはできない。急に行っても迷惑だろうし、彼は兄の友人だということは私も理解していた。それに、忘れそうになるが、彼は公爵子息で多忙な身だ。


「…元気にしているよ。レイチェルは優しいね」


レイモンドの言葉にほっとした。


「あの、どこに行けば会えるかしら?」


「なんで、会いたいの?」


レイモンドが苛々したように言った。そこで、私は彼に会えなくて寂しいのだと理解した。


「ほ、本を貸したままなの」


苦しい言い訳だと思った。貸した本はとっくに返ってきている。

レイモンドは考え込むようにした後、私に言った。


「…本は返ってこないかもしれないけど、彼が今度出席するパーティーなら知っているよ?」


「本当に!?私も参加できるかしら?」


パーティーには招待が必要だ。


「ルーカスも招待を受けているはずだから、頼んでみたら?僕も出席する予定なんだ」


私は頷いた。

公の場は苦手だが、彼に会えるなら頑張ってみようと思った。




渋るルーカスにねだって私はさる侯爵家主宰のパーティーに出席した。

何でもルーカスの友人の婚約パーティーらしい。爵位の高いご子息らしく、列席者の殆どが高位貴族だった。

周りのきらびやかなドレスを着た華やかな令嬢達を見て、私は気後れした。前に彼の誕生日に招待を受けた時、精一杯着飾ったつもりが場違いな格好で恥ずかしくなったのを思い出した。

それでも、私は何とか心を奮い立たせた。彼に久々に会えると思うと、心が少しだけ浮き足だった。


「レイモンド様」


見知った顔を見つけて私は頬を緩ませた。ルーカスはなぜか険しい顔でレイモンドを見た。喧嘩したのだろうか。


「レイモンド、なぜ教えたんだ?」


冷たい声で言うお兄様に私は震えた。行きたいとねだってはいけないパーティーだったのだろうか。


「心配しているのに可哀想だろう?ルーカスもそうだけど、なぜ皆教えてあげないんだ?」


「…お前は誤解しているんだよ。何もわかっちゃいない」


二人が言い争う内に壇上に四人の人物が現れた。私はその内の一人に見知った顔を見つけてポカンとした。だって、これは。


「レイチェル?」


その人は正装をして、別人みたいに不機嫌そうな顔をしていた。挨拶をしているが、内容は頭に入らない。

隣にいる女の子は凄く綺麗な子だった。彼よりは年上なのだろうか。彼より少し背が高い彼女は子供っぽい私とは違って、すらっとしてメリハリのある体つきをしていた。

二人並ぶとまるで王子様とお姫様みたいだ。凄く…お似合いだった。


「大丈夫か?」


全身の血が引いていくのがわかった。胸が痛くて息苦しくて、カイルの時の比ではなかった。足元がぐらぐらした。


「これで…彼が君に付きまとうことはなくなった。良かったじゃないか」


レイモンドが何かを言っているが、私の耳には届かなかった。

その後の記憶はない。


※※※


「レイチェル?」


馬車の中だ。私はティルにもたれかかったまま、うとうとしていたらしい。寝転けられたのは途中から落下しないようにティルが後ろから私の身体を抱いて支えてくれていたからだろう。

私はティルにぎゅう、としがみついた。


「……どうしても行かなきゃ駄目?」


レイモンドに会えるのは楽しみだが、不吉な夢を見た直後で胸騒ぎがした。

上目づかいで彼を見上げるとティルがぐらつくのがわかった。


「駄目です!ティルナード様を誘惑しないで下さいね?レイチェル様」


ドリーの乱入に私はがっかりした。あと一息だったのだが。


「昔の…怖い夢を見たの」


「どんな夢を見たんですか?」


ティルは不思議そうに聞いてきて、私は唇を尖らせた。彼に非はないが、それでも腹が立った。


「……言いたくありません」


ティルは私が前に見た悪夢を思い出したらしく苦い顔になった。


「ティルがフィリア様と婚約した日の夢です」


ティルはぎくりと体を強張らせ、目を丸くして私を見た。


「………君はいなかったはずだろう?」


「貴方に会いたくて、お兄様に無理に頼んで連れていってもらったんです。まさかティルの婚約パーティーだなんて知らなかったから」


不貞腐れたようにジト目で見ればティルは焦り、ドリーがげらげら爆笑した。


「まさか、レイチェル様に全部見られているなんて。ティルナード様、本当についてませんね」


「ドリー!」


ティルはドリーを睨んだ。


「嫌な予感がするので今日はやめましょう?」


ね、と私はティルの腕を揺さぶった。

嫌な予感がする。大体私の嫌な予感は的中する。


「俺も気が進まないんです。でも、レイチェルはバーグに会いたいんでしょう?」


ティルは揺れるように言った。


「…会いたいです。でも」


私は頬を膨らませてティルの手をぎゅっと握った。ティルと離れるのが不安だった。


「…ドリー。やっぱり止めにしないか?」


ティルが言った。もともと、ティルは私とレイモンドの再会を良くは思ってないらしい。


「駄目ですよ。今日しかないんですから」


私は例の人食いピアノの話を思い出して、深く息をついた。


「……本当に大丈夫なんですね?」


失踪するのは御免だと私はドリーに真顔で言った。


「実は残りのチケットをアルマン殿下が買い占めたので、近衛兵団は皆、警備に参加してます」


ティルは知らなかったらしく、がくっと姿勢を崩して呻いた。


「まさか?非番の奴も多かっただろう?」


「まさかの全員参加です。流石はレイチェル様ですね」


「あいつら、絶対に面白がっているな」


「格好良くなった昔の友人との再会で真実の愛に気づいたレイチェル様にティルナード様がフラれる、に今のところはオッズは傾いてます」


「勝手に賭けるな!」


「申し訳ないけど、あり得ないわ。ドリーの言う通りだとしても、お断りするつもりです」


ティル以外の人と今更どうこうなる気はない。


「レイチェル様は真面目ですね。でも、絶対にぐらつかないとは言い切れないでしょう?」


私は考え込み、首を振った。

別に真面目なわけではない。もう、とっくに自分の中で答えは出ていた。


「ないわ。もう私は」


レイモンドとティルのどちらかを選べと言われたら、私は迷わずティルの手をとる。

私はティル以外の人の気持ちに答えることはできない。レイモンドは大事な友人の一人には違いないが、もう私は特別な人を選んでしまったのだ。ティルがどこか遠くに行くというなら、私は他の人と離れることになろうと、ついていくだろう。どうにもならないことだ。


「レイチェル?」


「何でもありません。ごめんなさい。もう言いません」


もし、何かが起きるなら身構えておいた方が良いのだろう。

私はティルにしがみつき、甘えるようにすり寄った。

ティルが動揺したのがわかったが、私から離すつもりはない。


「だから今だけ。良いでしょう?着いたら一緒にいることができないんだから」


目を合わさず、手も繋げないのだ。

折角だから、たっぷり今のうちにくっついて気力を補充しておこうと思った。ティルは納得したようで、私を甘やかすことに決めたらしい。

ドリーは呆れたようにそんな私たちを見た。


「…今のあなた方を見れば、バーグ伯爵ご子息も泣きながら裸足で逃げ出すでしょうね」


ティルは私の髪に指を通しながら首を傾げ、私はくすぐったくて目を細めた。


「好きな女の子が他の野郎に気を許すのはティルナード様だって面白くないでしょう?」


ティルは想像したらしく、難しい顔になった。


「何をするかわからないな」


「私も」


昔のことを思い出した。

あの婚約パーティーの後、私は家族に大分迷惑をかけたのだ。それから暫くは誰とも会う気がしなかった。

あれからレイモンドの面会も何度も断った。彼が昔も今も悪気はないのは知っている。私のためにしてくれたことだ。


「レイモンド様は…」


「ティルナード様が悪いようにはなさりませんから安心してください」


私は胸を撫で下ろした。


「俺、バーグ伯爵ご子息は大嫌いです。大した力がないなら分をわきまえるべきです」


「ドリーは貴族全般が嫌いだろう?」


ティルは呆れたようにドリーに言った。


「でも、ティルナード様とレイチェル様は好きですよ」


「とても、そうは見えないな」


ティルは胸を張るドリーを疑惑の目で見た。


「だって。ティルナード様は多少は強引なところもありますが、ちゃんと考えて行動なさるでしょう?相手の気持ちだって一応は配慮するじゃないですか。バーグ伯爵ご子息様は考えなし過ぎる。他人を自分の人生に付き合わせようと思うなら、もっと熟慮すべきだ」


「バーグだって散々悩んで考えたんだろう?」


ティルはレイモンドを弁護した。


「この計画で一番不幸になるのはレイチェル様なのに?」


ドリーは珍しく真面目な調子で言った。


「彼はレイチェル様の気持ちを確認していない。この計画が成功した場合、レイチェル様はご実家にもどこにも居場所をなくします。その後はどうするんです?バーグ伯爵ご子息が責任をとってレイチェル様と結婚なさるとでも?他家から不当に浚ってきた花嫁を公にお披露目できるはずがないでしょう?レイチェル様は一生日陰者になる。そうなっても良いと思えるぐらいレイチェル様がバーグ伯爵ご子息様をお好きなら別ですが…」


そこでティルとドリーの視線が私に集中した。


「…レイモンド様はお友達です!」


一瞬の間の後、疑惑の目を向けられた私は答えた。私が傍にいることを望んだのはティルだ。

実際に、ドリーの言うようになれば「帰りたい」と願うだろう。しかし、私の希望は叶わないのだろう。私にそのつもりはなくても、レイモンドと姿を消した時点で帰れるはずがない。居場所はどこにもない。

その気はなくても駆け落ちは婚約破棄や浮気以上の裏切り行為だ。ましてや、結婚式を目前に控えた身で全てを放り出して姿を消すなんて言語道断だ。

深くは考えていなかったものの、私はことの重大さに血の気が引いた。


「大丈夫ですよ。貴女が望まないなら誰にも譲る気はありませんから」


「ティルナード様はレイチェル様が望めばバーグ伯爵ご子息様に譲ったわけですか?」


「……譲るのは嫌だし、一生諦められないだろうけど無理矢理縛りつけても意味がないじゃないか。レイチェルを不幸にしたくない。ずっと一緒にいたいけど、無理矢理は意味がない。だから、悩んだんじゃないか」


ドリーは頷いた。


「ティルナード様は一見冷たく見えますが、話が全く通じないわけではありません。無闇に力を振りかざしたりしないぐらいの分別は昔からあります。実際レイチェル様に乱暴なことはなさらなかったでしょう?やろうと思えば、ヴィッツ伯爵家からレイチェル様を強奪するぐらい、わけもないのに」


ドリーの言いたいことはよくわかった。

ティルには昔からそれだけの力があった。

例えば、うちの両親やルーカスが許可しなくてもティルが望めば手に入らないものはない。そのぐらいヴァレンティノ公爵家は有力貴族なのだ。国内外問わず王族が一目置くほどに。

私の気持ちを完全に無視することだってできたのに、彼はどんなに遠回りでもそれだけはしなかった。

公爵家に纏わる悪い噂の殆どすべてはやっかみである。

ティルもサフィー様ももって生まれたものに胡座をかくだけではなく、並々ならぬ努力をしていることは傍にいるようになって、よくわかった。

そこで、ふと思い出した。誰もが生まれついた家の家業を必ずしも継げるわけではない、と。いつか誰かが言っていた。あれは誰だったか。


「ティルは今、幸せ?」


私は彼を見上げた。


「ええ」


優しい目をしているティルを見て同じ気持ちなのだと安心した。


「私も」


私達は見つめあい笑った。


「バーグ伯爵ご子息様はレイチェル様のためと言いながら、ご自分のことしか考えてないんですよ。それで好きな女の子を振り向かせられるはずがない」


「一番に自分のことを考えない人はいないわ。私もそうだもの」


昔のレイモンドと私は似た者同士だった。だから、波長があったのだと気づいた。

と同時に、今の私とレイモンドは決定的にすれ違ってしまったのだと悟った。


「本当にいいんですか?」


ティルが心配そうに私を見た。

私達がこれからすることはレイモンドを傷つけることになるのだろう。私が行かなければ何も起こらない。レイモンドとも顔を合わせずに思い出は綺麗なままだ。凄く楽な道だと思った。

私はレイモンドと笑いあった遠い日の記憶を思い出して首を振った。二度とあの日には戻れない。前に進むことを決めたのだ。


「もう、いいんです。ティルはレイモンド様に聞きたいことがあるのでしょう?」


レイモンドを騙し討ちするみたいで本当は気乗りしない。

しかし、何も起きなければレイモンドは何も話さないだろう。レイモンドに話を持ちかけたのが誰なのか探るには、これしかない。現状、元宰相様につながる唯一の道だと殿下にも聞かされている。


「でも、全部終わって帰ったら」


ティルは小首を傾げた。


「思いきり甘えてもいい?…ティル?」


もたれかかったままティルに甘えるように見上げれば、ぴたりと動きが静止した。


「…ああ、いや。レイチェルは俺をどうしたいんだと思って」


ティルは時々愉快だ。頭が良いのに不思議なことを言う。別に私はティルをどうこうする気はない。


「…俺はバーグ伯爵ご子息様がほんの少し可哀想になってきました」


そうこう言う内に馬車が静止したのはそれから暫くしてからのことだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ