60.誤解は早めに解きたいのですが
レイモンド=バーグという名前をなぞって、懐かしさに目を細めた。兄の友人で小さな頃に屋敷の中でよく遊んでもらった記憶がある。
彼は繊細な感性の持ち主で絵とピアノが上手だった。内向的な彼とはよく気が合い、小説や絵本の話で盛り上がった。物知りで何でも知っていて尊敬していた。
いつの間にか付き合いが途絶えてしまったのは私がお兄様の友人を避けて屋敷の中に閉じ籠るようになってからだ。もっと言うなら、ティルが屋敷に来なくなってからだ。
兄ルーカスからは心配して何度かお見舞いに来てくれたらしいと聞いている。ただ、あの時の私は誰とも会う気にならなかった。
彼には悪いことをしたと思う。何度か手紙を書こうと筆を握ったが、どういうわけか何も書けなかった。今にしてみれば、どうしてもティルを思い出してしまったからだろうと思う。
懐かしいと思いながら、封筒の中の手紙に目を落とした。
そこには彼の近況報告と私の体調を案じる旨と近々直接会えないかと書いてあった。
久しぶりに会いたいとは思った。会ってあの時のことを謝らなければならない。最後に会った時、私は上の空で途中から彼の話を全く聞いていなかった。そのまま、何となく疎遠になったのだ。
レイモンドはもうすぐバーグ伯爵家を継ぐらしい。昔の友人として祝福すべきだ。
しかし、昔の友人と言ってもレイモンドは異性だし、二人きりでは会えない。一応は嫁入りした身なので軽はずみな行動はとれない。変な噂が立ってしまえばレイモンドにも迷惑になるだろう。
そこまで考えて、はたと気づいた。ティルの態度がおかしかったのはこの手紙を勘違いしたせいではないか。
私はティルと違って、交遊関係は狭く、全くモテないのだが。
人違いの手紙は貰っても恋文も求婚も受けた経験はほぼ皆無だ。
私は続き間の扉を見た。
婚約当初、ティルは私とグウェンとの仲を誤解していたような気がする。グウェンは最初から私を女として見ていない。お互いにできの悪い妹分、弟分くらいの感覚だ。
お互い気持ちはなかったのだが、ティルはグウェンとのちょっとした思い出話をすると今でも少しだけ不機嫌になる。最近はなんとなくわかるようになったので、必要な時以外はグウェンの名前は出さないようにしている。
彼は何か誤解しているのかもしれない。だから、様子がおかしかったのか。
うーん、と私は考えこんだ。やはり早急に話をして誤解は解いたほうが良い。
しかし、帰宅時のティルの様子だと聞く耳を持たない様子だった。ドリーは放っておいても大丈夫だと言っていたが…。
ベッドに横になってみたが、私の小さな身体に反してベッドが大きすぎて落ち着かず、ごろごろと端から端まで転がった。
無理矢理目を閉じてみたが、眠れなかった。
私は続き間の扉の前に立ち、耳を澄ましてみた。壁が厚いのか、もう寝てしまったのか何も聞こえない。
「……ティル?」
こつりと扉に額を軽くぶつけてみた。
中からは返事はない。寝てしまったのだろうか。
「…壁と扉が邪魔だわ。それにベッドも」
むう、と私は唇を尖らせた。
普段は全く気にも止めないのだが、今は物凄く邪魔だと感じた。
隣に全て完備されているから籠城可能で、喧嘩した時は不公平だな、と少しだけ思った。別にティルと喧嘩したわけではないのだが。
「……ティルはいつでも入って良いと言ってたわ」
私はドアノブにそっと手をかけてみた。
いつでもどうぞとは言われたものの、彼の書斎には滅多に入ったことはない。
ドアノブを回してそっと足を踏み入れれば室内は落ち着いた、シックな色で統一されていた。無駄なものはなく、私の少女趣味な部屋とは大違いだ。
実用性を重視した家具とベッドがあり、ベッドは人の形に盛り上がっていた。
ティルはもう寝てしまったらしい。
そろそろと近づいて、掛布を捲って、よいしょとティルの横に転がり込んでみたが、全く起きる気配はない。
子供っぽいと呆れられるかもしれない。一応ははしたない行為だという自覚もある。夫婦と言っても形だけで正式な式はまだなのだ。
最初に「一緒に寝よう」と言い出したのはティルの方で、私は彼の奥さん…のはずだ。自信が今一つ持てないのは一緒に休んでいて無意識に体を触られる以外に全く何もないのも大きい。私にはあまり魅力がないのかもしれない、と少し落ち込んでみた。
ティルは私のことを「逃げてばかりだ」と言うが、彼も他人のことは言えない。
今もまだ不安だし怖い。物珍しがられていただけで、お互いを知れば知る程飽きられるかもしれない。私は美人ではないし、ちびで女らしい体つきをしていない。気のきいた話はできないし、未だにティルとの会話は弾まない。それでも、私は一緒にいれば安心するし、会話がなくても楽しい。ティルの腕の中にいる時は幸せだし、キスも彼以外とはしたいとは思わない。ティルに触れられるのは嫌ではなく、もっと触れてほしいと物足りなく思う。
レイモンドとのことをルーカスから聞いていて誤解していたとしたら、彼は一体どういうつもりなんだろう。何も言ってこなかったのは好きにしろということなのだろうか。そうだとしたら私は…。
私は彼にぎゅうっと抱きついた。今日は抱き返してくれない。それがまた不安を煽った。いつもなら、と思う。
どうも悪い方に悪い方に考えてしまうようだ。
「お願いだから…離さないで」
彼に会えなくなった時のことを思い出して怖くなった。そもそも、この縁談はティルが望まなければ成立し得ないものだ。
眦から涙がこぼれ落ちたのは昔の記憶を思い出したからだ。
昔、ティルが他の人と婚約したと聞いた時、息ができなくて溺れそうになった。素直になれずに彼を沢山傷つけるような態度をとったことを後悔した。
彼がいないと駄目なのは私の方だ。欲しいものは一つだけで、それさえあれば何も要らない。
彼ときちんと話がしたいと思いながら、私は眠りについた。




