第1話「弱小領地経営もの」
クロード・ヴァン・ヴェルムンドは、震える指先で粗末な紙の束を握りしめていた。
安物の紙だ。繊維が粗く、指先にざらついた感触を残す。市場の露店で銅貨一枚で売られていたという、名もなき本。だが——そこに綴られた文字を追ううちに、彼の手は止まらなくなっていた。
「——これは」
輪作。排水路の傾斜設計。備蓄管理の数理的手法。
物語の形を借りてはいる。辺境伯家の三男が領地を立て直すという、吟遊詩人が好みそうな筋書きだ。だがその中身は——農政理論だった。それも、王国の農学者が束になっても到達できないほど精緻な。
ページを捲る。また捲る。蝋燭が一本燃え尽きても、手は止まらない。
第三章の排水路設計に至って、クロードは息を呑んだ。土地の傾斜を利用した自然排水。灌漑と排水を一体化させる発想——なぜ今まで誰も思いつかなかったのか。いや、思いつけなかったのだ。これは天才の仕事だ。
読み終えた時、窓の外は白み始めていた。徹夜したことにすら気づかなかった。
クロードは本を机に置き、呟いた。
「この本を書いた者は——一体、何者だ……?」
その「何者」は、街の安宿で銅貨の残りを数えながら、空腹で眠れない夜を過ごしていた。
◇ ◇ ◇
藤宮澪、三十二歳。地味なOL。
昼は事務職、夜は小説投稿サイトに作品を上げる生活を十年続けてきた。総合ランキング最高三百位。書籍化経験なし。PVだけはそこそこ回るが、ブックマークは伸びず、感想欄はいつも真っ白。
毎日、投稿ボタンを押す。感想欄を開く。ゼロを確認して閉じる。
読まれてはいる。でも誰の心にも残らない。
それが藤宮澪という作家だった。
恋愛経験は一度だけ。三ヶ月で「お前といても楽しくない」と振られた。それ以来、現実の恋愛は諦めて、小説の中だけで恋を書いてきた。どうせ私なんか、と思うようになったのはいつからだろう。
ある夜、新作のPVグラフを眺めていた。右肩下がりの曲線。
「もう何のために書いてるんだろう……」
そう呟いた瞬間——世界が白く弾けた。
*
気づくと草原の真ん中に立っていた。
青い空。どこまでも続く緑。そして——視界の端に浮かぶ、半透明の文字列。
ステータス画面。異世界転生もののテンプレだ。自分でも何百回と書いてきた。
名前:藤宮澪
スキル:【無尽のペン(エターナル・インク)】
——インクが無限に出る羽根ペンを生成する。
以上。
澪は三秒ほど固まり、それからゆっくりと目を閉じた。
「…………」
戦闘スキルなし。身体強化も魔法もなし。異世界転移のくせに土産がペン一本。
「ハズレスキルってレベルじゃない……」
異世界転生ものなら「実は最強でした」パターンだが、現実はそう甘くなかった。
近くの街に辿り着き、冒険者ギルドの門を叩く。戦闘スキルなしで門前払い。日雇い労働にも挑戦したが、運動不足の三十二歳の身体は半日で悲鳴を上げた。
三日目。所持金は残り数枚。
「……冷静に考えよう。私にできることって、何だろう」
答えは一つしかなかった。
「書くこと、だけだよね」
この世界にも紙と本の文化はある。だが「娯楽小説」という概念がほぼ存在しない。あるのは歴史書、学術書、聖典。物語といえば吟遊詩人が酒場で語る口伝のみ。
「逆に言えば……競合ゼロってこと、かな」
十年間、小説を書き続けて培ったスキル。それだけが、この世界での唯一の武器。
「一番手慣れたジャンルでいこうかな。領地経営もの」
◇ ◇ ◇
安宿の狭い部屋で、澪は羽根ペンを走らせた。
タイトルは「辺境伯家の三男、領地経営で成り上がる」。
輪作農法、灌漑設備の設計、堆肥の体系化、備蓄管理システム——澪の認識では「定番の内政チート」。投稿サイトには星の数ほどある、ありふれたジャンルだ。
だが筆は乗った。異世界で初めて書く小説という高揚感がある。無尽のペンはインク切れの心配もなく、書きたいだけ書ける。
数日で一冊書き上げ、安い紙で簡素に製本した。市場の露店の片隅に、銅貨一枚で並べる。
一日目、誰も足を止めない。二日目、一人が手に取り、パラパラ捲って戻した。三日目——
「……まあ、そうだよね」
元の世界でも感想ゼロだった私だ。異世界に来たところで、急に才能が開花するわけがない。澪は乾いた笑いを漏らした。
「でもまあ、書くしかないし——」
その時。フードを深く被った長身の男が、露店の前で足を止めた。
整った指が本を手に取る。数ページ捲り——動きが止まった。フードの奥で、息を呑む気配がする。
「……いただこう」
銀貨一枚を置いて、男は足早に去った。銅貨一枚の本に、銀貨。お釣りを渡す暇もなかった。
「——お買い上げありがとうございます」
その背中に頭を下げる。
やった。異世界で初めて売れた。
銀貨一枚。宿代の足しにもならない——いや、銀貨なら数日は持つ。でもそれより嬉しかったのは、十年間感想ゼロだった私が、初めて「手に取ってもらえた」という事実だった。
◇ ◇ ◇
翌日。
澪はいつもの露店にいた。今日も売れないだろうなと思いながら、次回作の構想をぼんやり考えていた。追放ざまぁか、悪役令嬢か。どっちがウケるだろう。
——足音。
速い。石畳を蹴る音が、こちらに向かってくる。
顔を上げた瞬間、視界いっぱいに銀色が広がった。
昨日の男が、血相を変えて走ってきていた。フードは外れ、美しい銀髪が朝日を受けて輝いている。整った顔立ち。碧い瞳。貴族だとすぐにわかる品のある佇まい。その目は興奮で輝いていた。
——綺麗な人。
そんな場違いな感想が、澪の頭をよぎった。
「君か!? この本を書いたのは君か!?」
「え、あ、はい……昨日の——」
言い終わる前に、男——クロードは澪の手を両手で掴んだ。大きな手。温かい。澪の心臓が跳ねた。
「素晴らしい……!」
「え」
「第一章の農地改革の構想——あの大胆さと緻密さの両立は信じられない! 三圃制の限界を指摘した上で四圃輪作を提案するなんて、王国の農学者でも到達していない境地だ!」
澪は目を瞬かせた。三圃制? ああ、領地経営ものでよく出てくるやつ。中世ヨーロッパの農法で、休耕地を作るから効率が悪いんだよね。だから四圃輪作で——
「第三章の排水路設計、あれは天才的だ! 土地の傾斜を利用した自然排水の概念、なぜ今まで誰も思いつかなかったのか!」
「あ、あの……」
「第五章の備蓄管理! あの数理的手法を農政に応用する発想は——いや、発想というレベルではない、これは体系的な学問だ!」
クロードの瞳が、真っ直ぐに澪を射抜いた。冗談を言っている目ではない。本気だ。近い。顔が近い。澪は思わず後ずさりそうになった。
「続きを。どうか——続きを書いてくれ」
澪は固まっていた。
十年。
十年間、投稿サイトに作品を上げ続けた。毎日PVを確認し、感想欄を開いた。
読まれてはいる。でも誰の心にも残らない。
それが自分の作家としての価値だと思っていた。
なのに今——目の前で、見ず知らずの男が、自分の書いた話をこんなにも真剣に語っている。「長い」「読みにくい」と言われ続けた設定パートを、「天才的」と言っている。
視界が滲んだ。
「……読んで、くれたんですね」
「……?」
「ちゃんと、読んでくれたんですね」
声が震える。止められない。
「排水路のとこも、備蓄管理のとこも……あの辺、普通は読み飛ばされるんですよ。地味だから。設定の説明ばっかりだから。でもあなたは……ちゃんと読んでくれた」
クロードは息を呑んだ。
この女は、自分の知識の価値をわかっていない。国を変えうる叡智を持ちながら、「読んでくれた」というだけで涙を流している。野心がない。名誉欲もない。ただ、読んでもらえることだけを——純粋に喜んでいる。
「……ありがとうございます」
澪が頭を下げた。深く、深く。
「書きます」
顔を上げた時、涙の跡が頬に残っていた。それでも、笑っていた。
「続き、いくらでも書きます。あなたが読んでくれるなら——いくらでも」
クロードはこの瞬間、二つのことを確信した。
一つ。この女は、国の未来を変えうる知識を持っている。
一つ。この女には、野心が一切ない。
——この女を、誰にも渡したくない。
澪は澪で、まったく別のことを考えていた。
やばい。初めてファンができた。しかも熱心な人。章ごとの内容を覚えてるレベルの。十年書いてきて、こんな読者は一人もいなかったのに。しかもイケメン。……いや、それは関係ないんだけど。
これがいわゆる「固定読者」ってやつなのかな。異世界に来て良かったかもしれない。
二人は同じ瞬間に、同じ決意をした。「この人を離さない」と。
◇ ◇ ◇
その夜。安宿の一室。
澪は天井を見上げていた。
「ブクマ1ってところかな。でもゼロじゃない」
十年間、ゼロだった数字が、ようやく1になった。
あの銀髪の男——名前も聞いていない——は、明日も来るだろうか。「続きを書いて」と言っていた。つまり、また読んでくれるということだ。
「……よし。次は追放ざまぁにしよう」
羽根ペンを手に取る。あの人がまた読んでくれるなら——澪は、十年ぶりに「誰かのために」書き始めた。
*
同じ頃。ヴェルムンド辺境伯家の執務室。
クロードは澪の「小説」を机に広げ、領地の地図と照らし合わせていた。
「まずはこの農法を、南部農地で試験的に……」
この本があれば——この女がいれば——領地を、いや、国を変えられる。
ページを捲りながら、クロードはふと手を止めた。
あの女の顔が浮かぶ。涙を流しながら「読んでくれたんですね」と言った、あの顔。
「……次の作品で、彼女は何を書くのだろう」
それが「楽しみ」なのは、純粋に面白い物語の続きが読みたいからなのか、国を変える知識が欲しいからなのか——それとも、また彼女に会える口実が欲しいからなのか——
クロード自身にも、まだわからなかった。




