ある男の一瞬
ちょっとした救いと、彼の終わりです。
バッドエンドには変わりないですが、それでもこういうのもありかな、と。
でもね、ただ、ぼくは。
ぼくを、ゆるしてやりたかったのかもしれない。
許してやってもいいよ、と笑って、やりたかったのかもしれない。
「おにいさん! おにいさん!」
呼ぶ声が聞こえる。
彼は上手く助かっただろうか。叫べるのだから、元気か。よかった、よかった。
「おにいさん! おにいさん!」
久しぶりに入った水の中は、上手く四肢が動かないくらいに重く冷たく。
情けないことに、体力には自信があったはずなのに、どうにもならなかった。
「おにいさん、返事をしておくれ、おにいさん!」
返事か。ああ、そういえば、今日は彼の名前を呼んでなかった。
口を開いたら、歪な泡が上へ堕ちていく。それを綺麗と思いながら、とても苦しくなって、手を動かした。
死んでしまうのかな。死んでしまうかもしれない。
ああ、これで、終わるのかな。
「おにいさん、いやだよ、そんなの絶対にいやだ!」
声が遠ざかっていく。声が聞こえなくなっていく。
それは、とても悲しいことだ。
彼の声は、耳に心地よかった。
特別いい声だったわけではない。ただ、元気な、ありふれた日常に生きている、ただ生きていることを感じさせる、無垢な色がある、そんな声だった。
それを聞いていると、なんだかとても満たされて、なんだかとても優しくなれて。
なにをどう間違ったのかわからないけれど、自分を好きになれそうな気になってしまうような、声だった。
「おにいさん!」
ああ、そんな悲しい声でよばないでおくれ。
いや、もうよんでいないのかな。わからない。ああ、まぶたがおもく。
「おにいさん、今日はとても元気そうだね」
「そうかい? そうでもないさ。いつものように仕事をして、いつものようにぐったりしているよ」
「うそだよ。だってとても優しいかおで笑っているではないの」
「ぐったりしていても、笑うことはできるさ。優しいかおもできるよ」
「おとうさんは、疲れているとむっつりしてしまうから、それはうそさ。おにいさんはいま、とても元気なんだよ」
「そうなのかい。それは知らなかったよ」
「おにいさん、今日はとても淋しそうだね」
「そうかい? そうでもないさ。いつものように仕事をして、いつものようにぐったりしているよ」
「うそだよ。だってとても淋しいかおで、うつむき加減であるいているもの」
「ぐったりしていれば、うつむき加減であるくものさ。淋しいかおにもなってしまうよ」
「おかあさんは、疲れていてもまえをむいてせすじを伸ばすから、それはうそさ。おにいさんはいま、とても淋しいんだよ」
「そうなのかい。それは知らなかったよ」
「おにいさん、今日はとても、とても、とても辛そうな顔をしているね」
「そうだね。ぼくは、いま、とても、とても、とても辛い」
「どうして? おにいさんは、そういうことすら気付かないで、知らんふりしてしまいそうなのに。どうして、辛いってきもちだけは知らんふりしないの?」
「きみはとても正しいことをきくね。だから、ぼくはとても正しいことを返さなければならない。それはとても、苦しくて嬉しい気分になることなんだよ」
「ごめんなさい。ぼくは、おにいさんを不快にしてしまったのだね」
「いいや。だから、苦しくて、嬉しい気分になるのさ。自分を痛めつけるくるしさと、自分を痛めつけられる喜びと、二つをいっぺんに味わえる。とてもぜいたくな気分さ」
「ねえ、きみは、ひとを殺したことがあるかい?」
「ないよね。当たり前さ」
「でもぼくはある」
「そのこが、生まれるまえに」
「おかあさんのお腹の中で、小さく小さくまるまっているころに」
「ぼくは、ぼくはおとうさんとおかあさんをとられたくなくて、弟なんかいらない、死んでしまえば良い、とねがったんだ」
「来る日も来る日も、おかあさんがいとしそうにお腹を撫でるたび。おとうさんが抱き上げてくれなくなった日数だけ。ただ、おかあさんのお腹の中で、ゆるゆるねむる弟を、のろいつづけた」
「そうしたらね」
「あるひ、おとうさんとおかあさんは、夜に病院にかけこんで。おとうさんだけが、いえに帰ってくる日々がつづいて。かえってきたおかあさんのお腹は、ぺったりとしていた」
「中にいた弟は、泣かなかった」
「ちいさくちいさく、たよりなく」
「おかあさんの手をにぎりもせずに」
「おとうさんに抱き上げてももらえずに」
「ぼくをおにいさん、とよぶこともなく」
「弟は、死んでしまった」
「ぼくが、ころしたんだ」
「それはぼくのせいではないさ」
「だって、思っただけだ」
「おかあさんのお腹をけったりなぐったりなんて、そんな恐ろしいことはしなかった。むしろ、なでることさえあった。弟がうまれてくることを、楽しみにしたことだってあって」
「それなのに」
「ぼくは、かれを、殺してしまいたいと、おもってしまったから」
「おもって、それが、かなってしまったから」
「ぼくは、ひとを殺したんだ」
「ごめんね、ごめんね、ぼくの、弟」
名前さえ、もらえなかった。
胎児のままで、小さく、小さな、華奢な母の胎に納まるほどのほのかな命。
ぼくと母さんをとりあって喧嘩するはずだった。ぼくと父さんに頼るはずだった。
そんな、未来を予測させるような、小さくて、ほのかで、でも希望をもった命。
何も見えない目で、少しだけ光った先を見る。
光った? 錯覚か。よくわからない。わかりたくもない。
許したくなかった。そんなことを真剣に願った人間を。
誰かに許してもらいたい、と思ったこともなかった。誰かに許されても、許す気になれなかった。誰よりも許せなかったのは、ぼくだったから。
あの子を見ていると、ありもしないことを過去に色づけられて、それが嬉しかったし、苦しかった。
傲慢で、ばかばかしい遊戯だったけれど、それは確実に、想像できることだった。
おにいさん。
呼ばれるたびに、自分を許せなくて、嬉しかったよ。
彼を助けて死んでいく自分は。
もしかしたら、ヒーローのような感覚だろうか。
ただの格好のつかない無様な死に様のはずが、少しだけ色づいたような最後に見えるだろうか。
ねえ、弟。
ぼくの、弟。
どう呼べばいいかわからない。どう呼んでもあやまるしかできない。
でも。でもね。
ごめんなさい。
これだけは、ほんとうなんだ。
こんなことをして、君に許されたかったわけじゃないよ。
きみにしてしまったと、ぼくが傲慢に思っているだけなのも分かっているよ。
ただ、ただの、悲しい苦しい出来事を、ぼくが君を理由にして勝手に苦しんでいるだけだってわかっているよ。
だからぼくは思うんだ。
ただ、ぼくは。
ぼくを、ゆるしてやりたかったのかもしれない。
許してやってもいいよ、と笑って、やりたかったのかもしれない。
こんな、滑稽な終わり方をしながら。苦しくて、苦しくて苦しいときでも。
君についてばかり考えるようなぼくだから。
ぼくのことを考えることを、ぼくが拒否してしまっているようなやつだから。
さいごくらい、自分を、考えてやりたかったんだ。
おまえは、わるくなかったよ。
囁くような声が聞こえて、思わずにっこりほほえんだ。
ああ、ありがとう。自分。
ただ、そうか。うん。
それだけだったんだね。
消えていく意識。脳味噌が止まる感覚。
そして。
ぼくの唇の端から上った最後の小さな泡が、ほわりとあがり、
水面にぶつかって、消えた。
。