『記憶なき灯(ひ)』
「この子、君に似てる」
そう言ったとき、君は少し笑って、
湯呑みを両手で持ちながら、首をかしげた。
「……あら、そう?」
君の声は、その日も柔らかくて、
冬の朝の光みたいに、静かに部屋を照らしていた。
食卓に蒸気がたち、湯気の向こうで君は、
まだ少し不安そうに赤子を見ていた。
僕は君の横顔を見ながら、
「大丈夫だよ、きっとこの子、強いよ」って言ったんだっけ。
そのとき君は、目をそらして…ちょっとだけ、泣きそうな顔をした。
あの朝が、最後だった。
君が、「名簿から消える」前の、最後の朝。
何でもない日だった。
けれど、僕の中では、永遠になってしまった日だ。
彼女は、時々夢を見た。
それは物語のように連なる夢ではなく、
光のない空間に、小さな灯が浮かぶだけの夢だった。
そしてその灯のそばに、誰かがいた。
細い肩。笑った口元。見えないはずなのに、なぜか「知っている」と感じた。
言葉を話し始めた頃、彼女は父に尋ねた。
「この人、だぁれ?」
父は何も言わなかった。
ただ、戸棚の奥から一枚の絵を取り出した。
ロウソクの明かりの中で描かれた、柔らかい笑顔の肖像画。
彼女は、目を見開いた。
その顔を“知らない”のに、
どこかで“覚えている”ような気がしたからだ。
「この人……しってる」
そう言って、彼女は指を伸ばした。震えるように。
父は、やっと言葉を返した。
「……君のお母さんだよ」
それが、彼女が“母”という言葉を初めて知った夜だった。
そしてそのとき、父の目にも涙が浮かんでいた。
あの夜のことを、彼女は覚えていない。
けれど、私は覚えている。
光のない世界で、私はひとつの命を抱きしめていた。
それがどれほど心細く、どれほど温かかったかを、私は決して忘れない。
震える腕で支えたその小さな身体が、今や世界の光の中を歩き出そうとしている。
あの子は「さつき」と名づけられた。
皐月に咲く花のように、静かで、強く、美しい名だ。
その名を呼ぶたびに、私はこの季節を思い出す。
暗闇に灯った、あの小さな、名もなき“灯”を。
彼女にとって、あの夜は“記憶”ではなかった。
だが、あの夜こそが彼女の“始まり”だった。
だから私は願う。
どうか、光の時代のなかでも、
あの静けさを、あの温度を、
心のどこかに忘れずにいてほしい。
さつきへ。
君がこの世界に生まれてきてくれたことに、ありがとう。
君の灯が、名を持たずとも、
いつか誰かを照らす日が来ると、私は信じている。