『描かれなかった線』
最初に“それ”を感じたのは、鉛筆の音だった。
紙に触れる柔らかな摩擦音が、妙に心地よかった。
遥人は、自宅の仕事部屋で静かに線を引いていた。
いつもなら、液晶タブレットの冷たい光が彼の手元を照らしていたはずだった。
だが停電の日々が続き、画面はとうに沈黙したままだった。
彼はイラストレーターだった。
正確には、そう「だった」。
納期も、クライアントも、クラウドワークスの通知も消え、彼は“待たれない存在”になった。
「まだ描けるな」
ふと、そう思った。
久しぶりに引っ張り出したスケッチブックは、少し湿っていた。
だが、鉛筆はすべての機械よりも誠実だった。
わずかな光と、手と、想いだけで線を残してくれた。
彼が最初に描いたのは、顔だった。
だが、どうしても思い出せなかった。
──あの人の顔が。
記録は残っていた。
最終勤務日。退職届。アカウント削除。
給与の振込口座すら空欄のまま、彼女は“会社から”消えていた。
世間ではもう誰も彼女のことを話さなかった。
けれど遥人は覚えていた。
彼女の名前は、紗月という。
夜、ろうそくの火の前で、彼はスケッチブックを開いていた。
近所の子どもがやってきて、「犬、描いて」とせがむ。
老人が来て、「若い頃の妻を」と頼む。
言葉もお金も交わさず、ただ紙と線とでつながる時間があった。
電気がないということは、情報が止まることではなかった。
電気がないからこそ、人の記憶が動き出した。
描くという行為は、ただの仕事ではなくなった。
頼まれた絵の中には、誰かの「大切なもの」が宿っていた。
笑い声。涙。亡くなった家族の横顔。
そして、自分もまた――。
それでも、描けなかった。
紗月の顔の、あの微笑みだけが、思い出せなかった。
彼女が最後に笑ったのはいつだっただろう。
AI導入の日か。配置転換の日か。
それとも、ただの金曜日だったのか。
写真も、動画も、全部クラウドにあった。
だがクラウドは落ちた。停電と共に、記憶も消えた。
最適化された社会は、最も大切な線を描き残さなかった。
「それでも、描きたいんだ」
遥人は言った。
紙はまだ白く、鉛筆はまだ尖っていた。
停電がもたらしたもの――
それは、人間が自分の手で記録するということの意味だった。
【あとがき】
あの頃、私たちは何でも「記録されている」と信じていた。
クラウドに、SNSに、ストレージに――全ての思い出が、永遠に保存されていると。
けれど、停電が続いたあの日々の中で、私は初めて「それは錯覚だった」と知った。
電気が止まれば、記録も、通知も、つながりも、音も、光も止まる。
まるで、世界そのものが凍りついたように。
だが同時に、遥人はまた「自分の手で描くこと」に戻っていった。
鉛筆の音。紙の手触り。誰かの記憶を、線で繋ぐ時間。
不便さの中で、人と人の距離は確かに近づいていた。
この物語は、完全に止まった未来の中で、再び手で描くことに意味を見出した一人の男の話です。
彼は失われた光の代わりに、手で線を描き、音のない日々に、絵を残していきました。
誰もが、日常の中に小さな「停電」を抱えています。
その闇の中で、何かを取り戻そうとする時、きっと鉛筆のような静かな“希望”があるはずです。
あなたは今、どんな音を感じていますか?
次はエピソード0の作家が幕間として登場します・・・
話が続いてないと感じれば教えてもらえると