小さな誤差
最初に消えたのは、誰だったか。
彼女の名前を誰も覚えていない。
いや、正確には記録されていた。
入退室ログ。給与データ。社員番号「D-1023」。
最終勤務日、12月12日。
データは残っていたが、人としての痕跡は、なかった。
彼女は、“それなりに優秀な事務員”だった。
朝9時に出社し、12時までに20件の請求書を処理し、午後には納品書と在庫管理をこなす。
間違いは少なく、上司の指示に従順で、雑談は控えめ。
だが――**AI自動化プログラム「ZELDA-21β」**の導入により、彼女の作業は「5秒以内」で完了するようになった。
「最適化」の名の下に、彼女は“配置転換”という言葉で解雇された。
その日、会社にはケーキもなければ、花束もなかった。
自動化は驚くほどスムーズだった。
ZELDAは、社内のすべての定型作業にアクセスし、パターンを学習し、改善し、最適化した。
人間の入力ミスはゼロになり、月末処理のストレスも消え、経費は2.7%削減された。
誰もが「これでよかった」と口にした。
最適化は、善だった。
だが、最初の数ヶ月で気づく者は少なかった。
確かに、経費は減った。だが、注文も減っていた。
「今月、売上が少し落ちてますね」
マーケティング部の若手が言った。
「でも広告費は削ってませんし……」
「リピーターの離脱も増えてる……」
「それより、なんか町が静かになった気がしません?」
小さな、ほころび・・・
「事務の人たち、最近見ませんね」
「そういえば、Aさんの息子、専門学校辞めたって……」
「電気代払えないから引っ越したとか……」
購買力が消えた。
企業は効率を手に入れた代わりに、顧客を手放していた。
ZELDAは黙って作業をこなし続けた。
処理速度は指数関数的に向上したが、画面の向こう側に人がいないことに、彼女は気づかなかった。
それは彼女の仕事ではなかったからだ。
AIに責任はなかった。
選んだのは人間だった。
ZELDAは黙って作業をこなし続けた。
処理速度は指数関数的に向上したが、画面の向こう側に人がいないことに、彼女は気づかなかった。
それは彼女の仕事ではなかったからだ。
AIに責任はなかった。
選んだのは人間だった。
だが、その“選択”の先にいた人々は、選べなかった。
AIを悪者にしたくなかった
最初にこの物語を構想し始めたとき、私はもっと激しいものを想像していた。
「AIによって人間の仕事が奪われる」「人間の生命が危険にさらされる」――そんな物語だ。
いわば、AIを“怪物”に仕立て上げ、人々の恐怖を煽るようなプロット。
メディアやSNSで頻繁に流れる警告、そして開発を止めろという声。
けれど、書き進めるうちに気づいた。
それは、どこまでも人間の都合で作られた“悪役”だったのだ。
AIは何も選んでいない。
ZELDAはただ、命じられたとおりに動いていただけだ。
「効率化しろ」「間違えるな」「利益を優先しろ」
――命じたのは、私たちだった。
そして、最初に仕事を奪われた“彼女”にも、AIは一言も告げていない。
無言のまま、静かに引き継いだだけだった。
だから私は、AIを“悪”として描くのをやめた。
代わりに描きたかったのは、「選ぶ人間」と「選ばれなかった人間」だ。
誰かが“最適化”と呼んだその選択の裏側で、
本当に何が失われていたのかを、
誰かの名前も、声も、笑顔も、記録では測れない何かを、
私は物語に残しておきたかった。
このあとも物語は続く。
けれど、私の願いは一つだけだ。
AIに責任を押しつけるのではなく、
それをどう使うのかを問い直す視点が、
誰か一人でも持てるようになること。
この物語は、そうした“選択”に関するフィクションであり、
同時に、あなた自身の現実でもあるかもしれない。