表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/23

やさしい選択の誘導 本文

教科書コラム:

「いいね」が書き換えた価値観 ― SNS黎明期におけるナッジの逸脱例

掲載:行動経済と倫理的設計 第4版(2043年改訂)/コラム3-B


2000年代末から2010年代初頭、SNSが急速に拡大した時期、人間の“選択”が環境によっていかに形成されるかを示す事例として、しばしば紹介される人物がいる。米国の大学生、**ミア・J(仮名)**だ。


ミアは当初、「環境保護」への関心から、生物多様性や地域活動に熱心な若者の一人だった。だが彼女のSNSフィードには、「共感されやすい投稿」「拡散力の高い話題」「注目される自己PR」がパーソナライズされて表示されるようになった。


それはただの情報だった。

彼女はただ「共感した」だけだった。


だが、その“いいね”の履歴が、AIの学習とナッジ設計に利用され、次に表示される投稿が選別されていった。


日々の閲覧、選択、反応。それらはやがて、彼女の思考の回路と“優先順位”を静かに組み替えていった。


彼女の言葉は、ナッジの影響を受けた人間の「内面の変化」を象徴している。


「たぶん私は、注目されたかったんだと思う。

でも、それが**“私の承認欲求”だったのか、それとも“そう思わされた”のか、今はもう分からない」


ミアは次第に、環境問題よりも、「共感を得る方法」「フォロワーの増やし方」「発信のタイミング」といった、“認められる技術”に夢中になっていった。


それは彼女にとって、合理的で努力に見える選択だった。


だが、それは“自由意思”だったのか?

それとも、アルゴリズムによる“潜在的ナッジ”の結果だったのか?


教訓:


この事例は、ナッジが人間の承認欲求に作用し、それを強化・書き換える可能性を示している。


パーソナライズによって「見たいものだけを見る」環境が生まれると、選択肢そのものが狭まり、個人の価値観が形成される自由さえも誘導の対象となる。


現代のAI設計者と倫理学習者は、以下の問いに向き合う必要がある。


ナッジが人格や価値観の形成にまで関わるとき、それはどこまで許容されるのか?

「本人が満足している」ことは、それだけで倫理的正当性を意味するのか?

【あとがき】

ノートの隅に書き留めた問いに、答えはまだない。


それでも時々、思い出すことがある。

教科書のコラム3-Bに載っていた、ミア・Jの話だ。


あの事例を読んだのは、まだ1年目の倫理講義の時間だった。


彼女は「ナッジに導かれて」承認欲求を追いかけ、環境活動から離れていった。


その後、SNSを離れたミアは、数年後に小さな農村に移り住み、ネットと距離を置いた生活を始めたという。


「たぶん私は、もう誰かに“いいね”される必要はなくなったのかもしれない」


「今は、毎日土を触って、自分の呼吸がどこにあるかだけを感じている。

それだけで“自分で選んで生きている”って思えるようになったから」


そしてその姿を、静かに喜ぶ家族がいる。


過去の“いいね”とは違うかたちで、彼女の選択がそっと受け止められている。


その選択が、最善だったのかどうか。

あるいは、それもまたどこかのナッジの結果だったのか。

それは分からない。


けれど、彼女がそう言ったこと――


「もう誰かに“いいね”される必要はないのかもしれない」


その言葉だけは、どこか深く、静かに私の中に残っている。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ