やさしい選択の誘導 本文
教科書コラム:
「いいね」が書き換えた価値観 ― SNS黎明期におけるナッジの逸脱例
掲載:行動経済と倫理的設計 第4版(2043年改訂)/コラム3-B
2000年代末から2010年代初頭、SNSが急速に拡大した時期、人間の“選択”が環境によっていかに形成されるかを示す事例として、しばしば紹介される人物がいる。米国の大学生、**ミア・J(仮名)**だ。
ミアは当初、「環境保護」への関心から、生物多様性や地域活動に熱心な若者の一人だった。だが彼女のSNSフィードには、「共感されやすい投稿」「拡散力の高い話題」「注目される自己PR」がパーソナライズされて表示されるようになった。
それはただの情報だった。
彼女はただ「共感した」だけだった。
だが、その“いいね”の履歴が、AIの学習とナッジ設計に利用され、次に表示される投稿が選別されていった。
日々の閲覧、選択、反応。それらはやがて、彼女の思考の回路と“優先順位”を静かに組み替えていった。
彼女の言葉は、ナッジの影響を受けた人間の「内面の変化」を象徴している。
「たぶん私は、注目されたかったんだと思う。
でも、それが**“私の承認欲求”だったのか、それとも“そう思わされた”のか、今はもう分からない」
ミアは次第に、環境問題よりも、「共感を得る方法」「フォロワーの増やし方」「発信のタイミング」といった、“認められる技術”に夢中になっていった。
それは彼女にとって、合理的で努力に見える選択だった。
だが、それは“自由意思”だったのか?
それとも、アルゴリズムによる“潜在的ナッジ”の結果だったのか?
教訓:
この事例は、ナッジが人間の承認欲求に作用し、それを強化・書き換える可能性を示している。
パーソナライズによって「見たいものだけを見る」環境が生まれると、選択肢そのものが狭まり、個人の価値観が形成される自由さえも誘導の対象となる。
現代のAI設計者と倫理学習者は、以下の問いに向き合う必要がある。
ナッジが人格や価値観の形成にまで関わるとき、それはどこまで許容されるのか?
「本人が満足している」ことは、それだけで倫理的正当性を意味するのか?
【あとがき】
ノートの隅に書き留めた問いに、答えはまだない。
それでも時々、思い出すことがある。
教科書のコラム3-Bに載っていた、ミア・Jの話だ。
あの事例を読んだのは、まだ1年目の倫理講義の時間だった。
彼女は「ナッジに導かれて」承認欲求を追いかけ、環境活動から離れていった。
その後、SNSを離れたミアは、数年後に小さな農村に移り住み、ネットと距離を置いた生活を始めたという。
「たぶん私は、もう誰かに“いいね”される必要はなくなったのかもしれない」
「今は、毎日土を触って、自分の呼吸がどこにあるかだけを感じている。
それだけで“自分で選んで生きている”って思えるようになったから」
そしてその姿を、静かに喜ぶ家族がいる。
過去の“いいね”とは違うかたちで、彼女の選択がそっと受け止められている。
その選択が、最善だったのかどうか。
あるいは、それもまたどこかのナッジの結果だったのか。
それは分からない。
けれど、彼女がそう言ったこと――
「もう誰かに“いいね”される必要はないのかもしれない」
その言葉だけは、どこか深く、静かに私の中に残っている。