広告との幸福な時間は存在しないのか
CQ ham radio というアマチュア無線の専門雑誌がある。今でこそ薄くなったが、ン十年前は今の週刊少年ジャンプくらいの厚さだった。記事は三分の一か四分の一くらい、大半は広告だったけど、トリオやヤエスやマランツやアイコムやらの新型のリグ(無線機)やアンテナやタワーの広告を見ては「いいなあ、欲しいなあ」と夢見たり、秋葉原のパーツショップの広告を見ては自作無線機のパーツの値段を出してみたり、幸せな時間だった。
オーディオとかカメラとか鉄道模型とかラジコンとか、昔の男の子の趣味の専門雑誌は広告が多かった。記事よりも多い広告、でもそれは大事な大事な情報の塊だった。記事も広告も、重要なコンテンツだった。
SFは読んでいたけど図書館の蔵書を読みつぶしていた私は、文芸誌など雑誌で小説を読む習慣が無かった。だから(なろうのルーツの一つであるはずの)文芸誌にどのような広告がどのように載っていたのかは分からない。
サブカル周辺では少年マンガ少女マンガは雑誌で読む機会がそれなりにあったけど、今でも覚えているのは週刊少年ジャンプの表2か表3のトレーニング機器(鉄アレイやウエイトや時にはカイザーナックル)の広告と、少女漫画誌の「日ペンの美子ちゃん」くらいだろうか。
青年誌を読むようになると広告の様相も違う。1990年頃は週プレと同様の酒やタバコやポータブルオーディオなんかが載っていたように記憶している。2000年前後のレディコミ誌は、表3表4が伝言ダイヤル・テレクラとサラ金だったろうか。他は彼氏彼女が出来るお守りと黄色い財布。
そうして今、なろうの広告は?。ネットサービスの広告全般がそうなのかもしれないけど、金目オンリー、コンテンツの良さを押し潰している。幸せな出会いは、もう望めないのだろうか。




