火遊び
雨上がりの夕刻。点々とした水たまりを飛び越えながら、時として物乞いの伸ばした手を踏みつけながら、少年は走っていた。ランドセルを上下に弾ませて、わざとらしく街娼にぶつかりながら走っていた。
窮屈で、お世辞にも清潔とはいえないビル群の隘路のほど、少年は錆びついた螺旋階段をミシミシかつグルグルと駆けのぼっていく。
やがて三階のドアの前に立つと、犬のように荒くなった息遣いをしばし整え、白々しくキョロキョロしたのちに、三回だけノックをした。四方八方の鉄筋コンクリートのみが彼を見ていた。
「こちら犬飼。鬼神、討つ者であります!」
声を張り上げたが反応はない。彼はもう一度、大声を出そうと息を吸い込んだ。
「犬飼くん、こっちだよ」
叫ぶより早く、頭上から呼ぶ声がした。その正体は犬飼と名乗る少年とは違い、落ち着いた少年だった。
「今、行きます!」
名前を呼ばれ、笑顔で駆け上がった彼を見届けると、声の主は手すりにもたれた体を向き直した。
「ご足労、犬飼くん」
「屋上のほうでしたか!」
「さすがに室内でやるわけにはいかないからね」
「それもそうですね! ところで、猿山さんの姿が見当たらないのですが……」
犬飼という少年は、屋上のガラクタの山を見渡しながら言う。
「ああ、猿山なら……」
「ウラァ!」
程なくしてガラクタの山が崩れた。というより、崩されたといったほうが的確だ。廃品の中に潜んでいたかのように、大柄な少年が現れた。
「猿山さん! そんなところで何を?」
「寝てた。それよりこいつを見ろ!」
大柄な少年は山の中からクーラーボックスを取り出すと、その中身を披露した。
「おおー! でっかい肉!」
小学生にしては用意がよく、隙間なく塊肉が敷き詰められている。犬飼は目を輝かせ、その瞳の輝きをさらに強めるためか、落ち着いた少年は菓子類とジュースを見せてきた。
「お菓子もある! でもいいんですか? すっごい豪華ですけど……」
「気にすんなっての! 今日はお前の歓迎会だからな」
「ありがとうございます……! でも、自分ばっかりというのも申し訳ないんで、こんなものを持ってきました!」
犬飼はランドセルを下ろすと、やけに鈍い音がした。中から取り出されたのは小型のタンクに入った灯油であった。
「おいおい、わざわざそんなもん持ってきたのか?」
「はい! バーベキューするなら燃料もあったほうがいいかと思って!」
「ところで犬飼くん、火をつけるものは持ってきたかい?」
「あっ……忘れました」
ガラクタの中に混ざっていたドラム缶を引きずっていた犬飼は、あからさまに意気消沈した。そんな彼に、落ち着いた少年は薪とライターを手渡す。
「犬飼くん。今日は君の歓迎会、君が主役なんだ。バーベキューは肉ではなく炎が主役。そういうわけで、すべて君に任せるよ」
「すべて……分かりました、燃やし尽くします!」
犬飼は薪に火をつけてドラム缶に投げ入れると、持っていた灯油を持ち上げ、文字通りそのすべてをかけようとした。大柄な少年が血相を変える。
「バカお前っ……!」
◉ ◉ ◉
あたしはアカネ。人はあたしを悪魔と呼ぶわ。
悪魔といっても蔑称というわけではなくて、黒い羽や角が生えている、れっきとした悪魔なの。
こんな場面を見たことはないかしら?
病室のベッドに横たわり、窓の外の枯れ枝を見つめる患者。枝の先の葉っぱが散ったとき、私の命も散るのでしょう……なんていう、センチメンタルな場面を。
そんなとき現れるのがこのあたし、悪魔という存在ね。命の終わりが近いとき、その魂をいつでもいただけるようにスタンバるのが悪魔の務めなんだけど……
「ねぇ、そういうのマジでやめなー!?」
「キタキタキター! 命がけのピンポンダッシュ、キター!」
この男……通称・チャクラは、いつも死にかけている風変わりな男なの。今だってそう。見るからに由緒ある日本家屋の呼び鈴を鳴らしたかと思えば、門から出てきたガラの悪いおっさん目がけて発砲したの! 幸いにも弾丸はおっさんの顔のすぐ横をすり抜けていったけれど、チャクラは玄関や窓、瓦のあたりにまで余分に撃ってしまったの。宣戦布告よ、こんなもの。
発砲音を何度も耳にしたとなれば、門番のおっさんを筆頭とする、修羅の道こそ王道という面構えの野郎どもが黙っちゃいないわけよ。チャクラは持ち前の逃げ足で、三々五々の輩を引き連れて夕暮れの街を駆けているわ。
「あーもう、今日こそは死んでほしいわ」
「それはどうだか、なっと! あぶねー、ヒュー!」
あたしがチャクラのもとについて、かれこれ一週間は経とうとしているけれど、まったくもって死ぬ気配がない。兎にも角にも、こいつの悪運の強さが作用しているのは間違いないわね。逃げ足だけじゃなくて、野生の勘っていうのかしら?
まさに今、背後からときどき弾丸が飛んできているけれど、チャクラは振り返りもせず不思議なタイミングでジャンプをし、最初から分かっているかのように綺麗に避けてしまうの。
どれほど時間が経ったかしら?
チャクラも追っ手も、街なかのみんなも立ち止まる出来事が起きたのは、生死をかけた鬼ごっこが始まって間もなくのことだったわね。
「おいおい……爆発かよ、芸術かよ! オレも一緒に爆ぜてぇよ!」
「ちょっとぉ!?」
一瞬、地震かと思ったけど、どうやら雑居ビルが大爆発を起こしたようで、チャクラは街灯に群がる虫のように吸い込まれていったわ。