32.それから
「お母様、風邪ひいちゃうよ。おかあさまー」
我が子の声で目を覚ました私は、ほんのりと温かい春風に肌を撫でられ徐々に意識を覚醒させた。
視界に映る景色は、山のふもとに広がる青々とした草原と、綺麗に耕された田畑だ。思い返せば、あの荒れた土地がよくここまで綺麗になったものだ。
それはさておき、私はあまりに春風が心地よくて庭先で居眠りをしてしまったらしい。
「もう、お外でお昼寝しちゃダメって言ってたのに、お母様ばっかりずるいよ」
「あらあらごめんなさい。アナタに言ったことを私が守れないようじゃダメね。起こしてくれてありがとう」
私は謝罪とお礼の気持ちを込めて、我が子の頭を優しく撫でてやる。
「そういえば、さっき私のことお母様って呼んだ?」
「うん。ブレダが貴族の男の子はパパとママのことをお父様、お母様って呼ばなきゃダメだよって言ってた」
「もう、ブレダったら。この子にはまだ早いわよ」
とは言え、昨日まで「ママ」と呼んでいた我が子が「お母様」などと口にすると、成長の早さを実感させられる。
それは嬉しいようで、少し寂しくも思えた。
「やっぱりお母様って呼んじゃダメ?」
どうやら私の感情は表情に出てしまったらしい。
「いいえ。綺麗な言葉遣いを覚えるのはいいことよ。パパのこともお父様って呼んであげなさい。たぶん、褒めてくれるわよ」
「うん! そう言えば、次の弟か妹にはいつ会えるの?」
私は大きくなった自分の腹をさすりつつ、我が子にもわかる表現を考える。
「もう少し暑くなった頃かしらね」
「妹はもういるから、次は弟がいいなー」
「フフ、弟でも妹でもかわいがってあげなきゃだめよ。アナタはヘンシェルス家の長男なんだから」
すると、我が子は「ぶう」と頬を膨らませて露骨に眉をひそめる。
「長男長男って、お父様もお母様もいっつもそればっかり……」
言われてみれば、二人目の子供を産んでからは、この子に対して「長男だから」と言う機会が増えた気がする。
嫡男という立場を考えると厳しく接してしまいがちになるが、この子もまだ甘えたい盛りの子供だ。
悪いことをしたと思った私は、腰を屈めて我が子を抱きしめてやった。
「どうしたの? くすぐったいよ」
「私からのごめんなさいよ。アナタは長男である前に、私の大事な子供だものね」
そうやってひとしきり抱きしめていると、我が子は恥ずかしくなったのか、自分からもぞもぞと腕をくぐって逃げてしまった。
それでも、顔はしっかりとご機嫌な笑顔になっていた。
「ねえねえ。そういえば昨日、フランツおじさんが僕のことを『隊長』って呼んでたけど、どうして僕が隊長なの?」
ふと出た話題に対し、私は微笑みつつも複雑な感情を抱く。
フランツは、かつてあの人の部下として征伐戦争を戦った兵士の一人だ。その縁でヘンシェルス家の領地に移り住んでくれた人は他にも何人かいるが、彼らは揃ってこの子を『隊長』と呼んでいる。
もちろん、彼らにとっては親しみを込めた愛称なのだろう。
「ねえねえ、どうして僕が隊長なの?」
「ええとね、昔アナタと同じ名前の隊長さんがいたの。すごく立派な……うーん、立派というより勇敢ね。勇敢な兵士だった人よ」
「ふーん、その人はどこにいるの?」
その問いに対し、私は迷った末にストレートな表現をすることにした。
「もういなくなってしまったの。私とお父様を助けるために……」
「僕は、その人の名前をもらったの?」
「そうよ。だからアナタの名前はコルトなの」
私とアラドは、初めて授かったこの子を『コルト』と名付けた。
かつて共に戦い、そして命を張って私たちを助けてくれた友に敬意を表し、その名前を貰ったのだ。
まあ、粗暴で口が悪いところは受け継がないでほしいが、それは私たちの育て方次第だろう。
そんなことを考えていると、村の外に続く道から馬に乗った人影が姿を現した。
「あっ、パパ! じゃないや、おとうさまー!」
コルトが大きく手を振って出迎えると、アラドは愛馬を庭先に繋いでその場に降り立つ。
そして一目散に向かうのは、私のところではなくコルトのところだ。我が子とはいえ、ちょっぴり妬いてしまう。
「いい子にしてたかコルト。ていうか、さっき僕のことお父様って呼んだ?」
「そうだよ! 今日からパパはお父様だよ!」
「アラドったら私とおんなじ反応してる。ブレダにそう呼びなさいって教わったみたいよ」
「お父様かぁ……様がつくとよそよそしい感じがするけど、まあ一応は男爵令息なんだし、今から丁寧な呼び方に慣れた方がいいか」
その言葉を聞いて、アラドが長らく外出していた理由を思い出した私は、すぐさま祝いの言葉をかけた。
「ちゃんと男爵を拝命できたのね。おめでとう」
「ちゃんとって、ただ式典に出席してきただけだよ。せっかく王都まで行ったのに叙勲はナシですなんて言われたら、おめおめと帰ってこれないよ」
先日まで騎士だったアラドは、ファルマン家との離縁後も貴族としての地位を保つため、建前上はベリエフ侯爵家の家臣であるという形をとっていた。
だが、最近になって領地開拓の功績で男爵号を授かることとなり、ついにヘンシェルス男爵家として独立した地位を手に入れることができたのだ。
その手続きと式典出席のためにアラドは数日間家を空けていたのだが、どうやら万事順調に済んだようだ。
「今度の式典は、加護の力が必要なかった?」
「男爵の叙勲に魔術披露の儀式はないよ。あったら大恥かくところだったけど」
「ならよかった」
そんな会話を交わして抱きしめ合った私たちは「おかえり」と「ただいま」のキスを交わす。
すると、その様子をぼんやりと見ていたコルトがぽつりとつぶやいた。
「お口ってそんなにおいしい?」
我が子にそんなことを問われると、さすがに恥ずかしくなってくる。
ここは余計なことを言わずスルーした方がいいだろう。
「さあさあ、寒くなってきたし、おうちに入りましょ」
ごまかされたコルトは素直に頷き、右手をアラドと、左手を私と繋いで嬉しそうに肩を並べて歩みを進める。
「ねえねえお父様、お母様。今日の夜はね、僕じゃないコルトのお話を聞きたい!」
その言葉を聞いて、私とアラドは互いに迷うような表情を浮かべて視線を交わした。
私たちは、今でこそのどかなこの地で平穏な暮らしを送っているが、ここにたどり着くまでに様々な悲劇と困難にぶつかってきた。貴族とは言え、生い立ちだって褒められたものではない。
もちろん、どんな過去があろうといずれコルトには話すべきだと思っていたが、それが今なのかどうか迷っているのだ。
だが、成長したこの子が私たちのことを「お父様」「お母様」と呼ぶようになった今日この日は、その潮時なのかもしれないと思った。
そんな意志を共有した私たちは、笑みを浮かべて小さく頷き合っていた。
「よーし、それなら僕とソミュアが出会った時の話から始めないとな。長いお話になるぞ。ご飯を食べたら寝室に集合だ」
「あらあら、ベッドで話したらこの子眠っちゃうわよ」
「大丈夫だよ! ぜんぶ聞くまで寝ないもん!」
「今日だけで全部話したら朝になっちゃうって」
「フフ、話したいことはいっぱいあるものね」
それは、私とアラドの出会いから始まる、短いようで長い物語。
お払い箱になった一人の令嬢が、最弱と言われた騎士の幸せを願う物語だ。
いや、その物語はまだ終わっていない。
なぜなら、私はこれから先もずっと、幸せを願い続けるからだ。
お払い箱の令嬢は最弱騎士の幸せを願う―完―
本作を最後までお読みいただきありがとうございました!
面白かったと思った方は、是非ともブックマークと評価(★★★★★)による応援をよろしくお願いします!
皆様の応援が励みとなります!




