24.聖女の役目
「――!」
ミノタウロスとアラドが刃を交えたその瞬間、アラドの握る剣はまるでガラス細工のように砕け散った。
キラキラと鉄片が舞い散る中、ミノタウロスは再び斧を振り下ろそうとしている。その光景は、まるで時間の流れが遅くなったかのように、はっきりと捉えることができた。
死――ただそれだけを自覚した。
肉体強化加護を受けているアラドなら、目の前に迫る刃を回避できるかもしれない。だが、私にその刃を防ぐ手立てはない。
死は、驚くほど呆気ないものだった。
悲しむ間も、別れを告げる間も、泣く間もなく、ただ「死」という事実だけが突きつけられた。
最後の瞬間に、私はなにを思うのか。
もっと、アラドと一緒に――
「うるぅあああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
その時、お腹の奥底まで響き渡るような雄叫びが、私の思考を消し去った。
同時に強烈な衝撃が全身を襲い、私の視界は瞬間的に空を向く。
不思議と、その空は赤く染まっていた。
いや、空が赤いわけではない。
一面に広がる「赤」が、ほんの一瞬だけ空を覆ったのだ。
それから視界は激しく回転し、私の体はなにかの重みを感じながら地面を転がる。
その動きが止まると同時に、私は自分の体に覆いかぶさる重みが人間であることに気づいた。
アラド、じゃない。この赤毛は――
「コルト、さん?」
「おうよ……生きてるか、嬢ちゃん」
どうやら私は、コルトに突き飛ばされたお陰でミノタウロスの攻撃を避けることができたらしい。四肢が動くので体も無事のようだ。
だとしても早く立ち上がらなければ、またミノタウロスに襲われてしまう。
しかし、地面に手をついた私は、水たまりのせいで滑ってしまった。
そうして濡れた私の手は、鮮やかな赤に染まっている。
気づけば、赤い水たまりは私の体を濡らしてどんどん広がっていく。
私のじゃない。私に覆いかぶさるコルトの体から赤が滴っている。
違う。この赤は、なにかの間違いだ。
だって、こんなに流れていたら死んでしまう。
「コルトさんっ!」
私はすぐさまコルトの体を地面に下ろし、自分の考えが間違っていることを証明しようとする。
だが、その赤は間違いなくコルトの背中から滴っていた。
手で止めようにも、切り裂かれた穴が大きすぎて塞ぐことができない。
「嫌っ……嫌ぁ……」
治癒魔術だ。今すぐ治癒魔術をかければ助けることができる。
近くに聖女は――いるわけない。聖女は私しかいない。
だけど私じゃダメだ。加護魔術しか使えない私では、彼を助けられない。
なのに、どうして私はこんなところにいるのだろう。父が言ったように、私はやっぱり使いモノにならないんだ。
なら誰か、誰でもいいから、コルトを早く、コルトを助け――
その時、弱々しく腕を上げたコルトは、私のおでこを指で弾いた。
「よぉ……目ぇ覚めたか嬢ちゃん」
私は涙をはらはらと流しながら、その手を両手で包み込む。
「コルトさん! 私は、私は――」
「いいから聞けよ……嬢ちゃんの力は、なんのための力だ? 俺を救うための力じゃねぇだろ……自分の役目を、忘れんじゃねぇよ」
「私の、役目……?」
「見ろよ……坊ちゃんは、今も戦ってるぜ」
コルトがあごで指した先では、アラドがミノタウロスを相手に死闘を繰り広げている。
アラドは先ほど剣を砕かれたはずだが、今は別の剣を握っている。
そして今握っている剣が砕かれると、すぐさま味方の死体から剣を拾い上げて戦いを再開していた。
砕かれても砕かれても、アラドは誰かの命だった剣を拾い上げて立ち向かう。
それはまるで、戦死者一人ひとりの無念がアラドに力を貸しているかのようだった。
「いいか嬢ちゃん……救いたいなら戦え。戦場じゃ、戦うことが誰かを救うことにもなるんだ。死に損ないのためじゃなく、生きてるやつを救うために戦え……嬢ちゃんの力は、そのためにあるんだろ?」
コルトの言葉は正論だ。
だとしても、納得できないことがある。
「なら、どうして……どうしてアナタは、戦わずに私を助けたの……」
「そりゃあ、俺が戦ってもあの牛野郎に勝てねぇだろ。おふたりさんに戦ってもらわなきゃ、仲間がみんな死んじまう……まあ、ホント言えば、それはついでなんだけどよ……」
そう告げたコルトは、むせて血を吐きながらニコリと微笑む。
「嬢ちゃん、俺のお袋にそっくりなんだよ。見惚れるほどに美人なところも、ちょっと気が強いところも、この甘ったるい匂いも……俺は戦場でお袋を助けられなかったからさ、代わりに嬢ちゃんを助けちまったんだ。ははっ、自分でもわけわかんねぇ。ケッサクだろ……」
死に行く者を前にして笑えるわけない。
なのにどうして、アナタは笑っているの。
「ああ、最高の気分だぜ……冗談みたいな理由で笑って死ねるんだ……悲惨でもなんでもねぇ。俺は幸せ者だ……だからさ、頼むよ母さん……笑ってくれよ……」
私は、震える口角を必死に上げて、涙でぐしゃぐしゃになった顔で笑みを浮かべる。
ちゃんと笑顔になっている自信はなかったが、それでも私の顔を見届けたコルトは優しく笑い返してくれた。
「幸せに、な――」
それが、最後の言葉だった。
きっと、彼の言葉がなければ、私はわんわんと泣き叫んでいただろう。
彼の残した言葉は、私に泣き続けることを許さなかった。
――救いたいなら戦え。
そうだ。戦場に立つ聖女である私は、戦わねばならない。
死にに行く者を看取るのが私の役目ではない。剣を持ち戦う者に加護を授けるのが私の役目だ。
だから私は涙をぬぐって立ち上がった。
沸き立つ怒りで心を燃やし、友の遺体に背を向けて戦場へ舞い戻った。
私が目を向けた先でミノタウロスと戦っているアラドは、武器がほぼ使い捨てのような状況なので、かなり押され気味だ。
だが、問題ない。
今、アラドに付与している肉体強化は大レベルだが、私の疲労さえ無視すればハインを倒した時のようにもっと力を引き上げことができる。
そうすれば、たとえ素手だろうとアラドはあのミノタウロスに勝てるだろう。私には、それだけアラドの力を引き上げられる自信がある。
問題は、加護を再付与する隙があるかどうかだ。
私が向かって行っても足手まといになるだけなので、隙を見てアラドに戻ってきてもらう必要がある。
すると、その隙は意外なところから生じた。
「キキッ、マウザーサマ! ゴホーコクデス! マウザーサマ!」
その奇妙な声は、頭上から聞こえてきた。
言葉のように聞こえる鳴き声を放ち私の上を飛び去ったのは、特徴的な角と羽を持つインプという魔物だ。数日前にコルト隊の人から教えてもらったので、すぐに判別できた。
「キキッ、マウザーサマ!」
いきなり戦場に飛び込んできたインプは、戦闘中のミノタウロスへ声をかける。
すると、ミノタウロスは斧による攻撃をやめ、あえてアラドに殴打を当てて互いに距離を取るという行動に出た。
私は吹き飛ばされたアラドのもとに駆け寄り、いつでも加護を付与できる状況を作りつつミノタウロスに視線を向ける。
「マウザーサマ! モーシワケアリマセン! 魔力アル人間ドモ、逃シマシタ!」
すると、インプの言葉を聞いたミノタウロスは、「むふう」と鼻から息を吐き、戦闘を一時中断するようなそぶりを見せた。




